第17穴 壊れた堤

 亮一が会社を興してから、彩也子は仕事場には一度も顔を出していなかった。亮一が何の相談もなく始めたことだったし、義母との絆を見せつけられたのが不快で、どれだけ馬鹿にされているのかと思うと、まだ亮一の仕事を認める気持ちにはなれなかったからだ。

 仕事を始めて3か月くらい経った時、亮一が、

「やっぱり一人パートさん頼もうと思ってるんだ。どうしても、俺が外回ってると事務仕事が滞っちゃうから。俺が出てる時に代わりにデザイン起こしてくれたりできれば、早く仕事が進むし」と言い出した。

「そんな始めたばっかりでパートさん雇うお金あるなら、自分の給料あげてくれた方がこっちは助かるんだけど」

「手が足りないから対応が遅くなって仕事が増やせないんじゃ、効率が悪いんだよ」

「私、絶対に手伝わないから。今の仕事、辞めないから」

「わかってるよ」


 その翌月のことだった。夕方、買い物に行くついでに郵便を出して来て欲しいと言われて、しぶしぶ仕事場に顔を出すと、見知らぬ女性がいた。彩也子の驚いた様子に向こうもびっくりして立ち上がった。亮一は、何食わぬ顔で、

「あ、今週から手伝ってもらうことになった吉成さん。まだ20代の若い人」と紹介してきた。あまりに急なことで、彩也子は小声で「お世話になります」と言うと「郵便、早く」と亮一に催促して、逃げるようにその場を立ち去った。浮気現場を見たかのように、後味が悪かった。

(また事後報告、っていうか私が気付かなきゃ言わないのか)

 ますます亮一の仕事を認めたくなくなってしまった。彩也子は、亮一との距離をどんどん感じていたが、教育費がかかる間は我慢しているしかなかった。


 1年ほど経ち、亮一の仕事はなんとかやっているようだった。少し忙しくなると、

「こういうお客さんが増えると、俺だけで処理できなくなるなぁ。地域で任せられる人材と環境作れば、全国展開もできるな」などと大口を叩くようになった。

 今までもそうだった。ちょっと調子が上向くとすぐに気が大きくなり、あたかも実現できるような口ぶりで夢を語るのだ。だも、今までそういった夢が現実になったことなど、もちろんない。それが分かっているから、亮一が仕事のことで調子のいいことを言い出すと、彩也子はイライラした。

 実際、仕事の量は少し増えているのかもしれなかったが、給料が上がるわけでもボーナスが出るわけでもなかったから、扶養範囲内で働いている彩也子にとって、子どもたち二人の教育費と生活費を維持するのがやっとだったので、収入が増えること以外は全く興味のない話だった。

 

 亮一が出張に行くと言って出かけた朝、早朝にもかかわらずパートの吉成さんが来ていた。

「おはようございます」

「おはようございます。早いっすね。今日はよろしく」

と挨拶を交わす声が聞こえると、車のドアの閉まる音が2回聞こえた。

(出張にパートさん連れて行くの?)

 彩也子は不審に思ったが、別にどうでもいいや、と気に留めなかった。

 翌日、出張から戻った亮一はまた饒舌だった。

「吉成さん、意外と仕事が早いんだよ。こんな感じってイメージ話すとすぐにいくつか形にしてアイデア出してくれるから助かった。ただ、メシ食った後にタバコ吸うのがちょっと嫌なんだけどね」

(ほんとに食った後の話なんだか)

 子供さえ作らなければご自由にどうぞと思うほど夫婦生活は冷めていたので、パートさんとの仲を怪しむ気力もなければ、嫉妬心も湧かなかった。出張での出来事を話し続ける亮一を、彩也子は冷ややかに見ているだけだった。


 カレンダーも残り1枚となり、彩也子の職場もそれなりに忙しかった。残業はないものの一日中追われるように仕事をこなしていた。その日は金曜日だったので、特にくたびれ果てて買い物をしてから家に帰った。スーパーで買った煮物と焼き鳥に、野菜と豆腐を切るだけでいい鍋の用意をして夕食の支度を済ませると、一足先に、缶ビールを開けた。もちろん、第3のビールだ。

「はぁ~、疲れた・・・」

 食卓の椅子にもたれて、見るともなしに点いているテレビを眺めていたところへ、亮一が帰って来た。

「おかえり」

「ただいま・・・って、もう飲んでんのかよ」

「もうって、金曜日だし、私だって疲れてるけど食事の支度はしたし」

「惣菜じゃん」

「鍋もあるでしょ」

「また鍋か」

「は?」

「あー、いいいい。何でもない。早くメシにして」

 亮一は、自分も冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、そのままキッチンで一口飲み、

「プハ~。今日も忙しかった~」

と言いながら、着替えをしに行った。彩也子はこみ上げる怒りをなんとか抑えて、鍋を火にかけ食事の支度を始めた。

 

 ほぼテレビの音だけが響く食卓で黙々と食事をし、義母が「ごちそうさま」と下に降りて行ったところで、亮一がまた仕事の話を始めた。

「年末まで、結構忙しくなりそうでさ。SNSのおかげで、結構遠方からも問い合わせが増えてて。出張も増えそうなんだよね。そういえば、今日、打ち合わせがてら吉成さんと昼めし食いに、駅前に新しくできたインドカレーの店に行ったんだけど、カレーが3種類選べてナンも焼きたてで、美味かったんだよ」

「良かったですね」彩也子が機械のように感情のない声で言っても、亮一はまだ、

「今週いっぱいオープン記念でラッシーも付いて、カレー1種でワンコイン、3種でも750円だってよ」と調子よく話し続けていた。

 彩也子は、大きく短く息を吐いて、再び沸き上がった怒りを一度は逃した。

「私はお弁当持って行ってるし」

「俺は外回りが多いからさ」

「パートさんとの打ち合わせって外回りに入るの?仕事場で良くない?打ち合わせがてら食べに行こうって誘って割り勘にできるの?」

 彩也子のブレーキが効かなくなり始めた。

「そこは、経費で」

「いいご身分で」

「お前だって、俺より先にビールとか飲んで、いいご身分じゃないか」

 少し分が悪くなった亮一が、お酒が進んだせいもあって彩也子に強く出たのがまずかった。

「じゃあ、私のビールも経費で落としてください」

「家で飲む酒、経費で落とせるわけないだろ」

「若いパートさんとのランチは経費で落ちるのに?くっだらない」

「何がくだらないだよ!」

「そんなことより、自分で勝手に会社作って仕事始めるって言った時、親からもらった株だかなんだかで、教育費とか子どもたちの生活費とか補充できるようにするようなこと言ってたけど、一切ないよね?どうなってるの?」

 彩也子は本当に話したかったことの核心をついた。

「それは・・・思ってたより儲けの出る株じゃなくてないと思ってもらわないと」

 急に亮一は歯切れが悪くなった。

「え。会社起こしたけど、そういうのがあるから今の生活キープできるようにするから心配しないで、くらいのこと言ったよね?」

「儲けられると思ってたからそう言っちゃったかもしれないけど、株とか債権とかってどうなるかわかんないじゃないか」

「そんなの誰もわかんないのが当たり前だけど、それでも自信持って心配するなって言ってたからよっぽど何か確証があるんだと思ってたんだけど。今まで何も言わないできたけど、子どもたちにかかるお金で足りない分、私の貯金からもう100万は使っちゃって、私の貯金、ほぼゼロなんだけど」

 彩也子は、ほとんど残高がなくなっている通帳を、亮一に突きつけた。

「教育費も生活費も把握してないの?今の給料で足りてるわけないじゃない。いつか足りなくなるって分かってたから、株だなんだで補充できるって話したんだよね。それを今さら、どうなるかわかんない博打みたいな収入を当てにした私が悪いみたいな言い方はおかしいでしょ?」

「彩也子が何も言わないから、うまく回せてるんだと思ってたんだよ」

「・・・ねぇ。ないお金をなんでうまく回せてると思えるの?昔っからそうだよね。言われなかったからわかんない、みたいなさ。少しは自分の頭で考えてよ。バカじゃないの」

「俺だって、精一杯やってるつもりだよ!」

「つもりなだけで、精一杯じゃないからこうなってるのよ」

「俺は精一杯やってるよ!」

「何もかも、全然足りてない!」

 

 彩也子は、亮一と、そもそもの基準が違うことを思い知った。かと言って、亮一の言う精一杯を受け入れられるはずもなかった。

「いい加減にしてよ!言ってた話と全然違う!」

 言い返せはしないがカチンと来た亮一が、酔った勢いで言った。

「だったら、自分で生活できるくらい働けよ」

「なんで、私がそこまで?どの口が、私にそんなこと言えるのよ!」

「話が違うとか言うからだよ」

「あなたはいつも夢みたいなことばっかり言って勝手なことしてるくせに!?あなたが私に相談もなく仕事を変えてるのに、収入が足りなくなったら、私もそれに合わせて仕事まで変えなきゃいけないの?この歳になって、自分に合う新しい仕事探すのがどれだけ大変か、一番知ってるんじゃないの?」

「・・・だったら、節約しろよ」

「してるじゃない!私はお弁当持って行ってるし、外食なんかしてないし。自分はゴルフ行ったり飲み会行ったりパートさんとランチしたりしてるのに?」

「俺の金だよ」

「はあ!?」

 

 彩也子は頭の中で血管が切れる音が聞こえた気がした。生まれて初めて人につかみかかった。亮一は、振り上げた私の右腕をつかんで簡単に抑え込んだ。一瞬、目が合った。亮一の目の奥にさげすんだような怒りが見えた。

(あなたは私に怒りを向けられる立場じゃない)

 彩也子の怒りは沸点を越えた。

 空いていた左手で、思い切り亮一の頬を叩いた。

「私の人生、返してよ!返せないなら、殺してよ!!!」


 もう無理だ。


 その日、彩也子はリビングのソファーで寝た。翌朝、二人の罵り合いが聞こえていた義母が「大丈夫かい」と様子を伺いに来たが、彩也子は聞こえないふりをした。

 

 そして、彩也子はついに、家を出ると決めた。

  

 蟻は、とうとう堅い堤を壊した。


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