35,叫び

「……あ、あなた」


「何をしている?」


「いえ、あの……研究室のお掃除を……。」


「よそ行きの恰好かっこうでか?」


「終わったら……せっかくいいお天気なので、シアンとハイキングにでもと……。」


 アイリス伯はふところから書簡を取り出した。バーガンディ・ローゼスあてにグレイスが書いた手紙だった。グレイスは心臓が止まったように感じた。


「グレイス、お前もそうだったのか?」


「……どういう意味です?」


「お前もやはり奴の、ローゼスの手のものだったのかという事だ」


「そ、違います、誤解ですわ。わたしは……。」


 アイリス伯は手紙を見る。

「あいつ宛の手紙のようだがな」


「……あの方に、相談をと」


「相談? 何のだ?」


「シアンを……助けてくれるようにと……。」


「シアンを助ける? 言っている意味が分からないぞ?」


「あ、あなたはシアンを危険な実験に巻き込もうとしているではありませんかっ。シアンの体にクリスタルをうめ込むおつもりなのでしょう?」


「何を言ってる? お前もさんざん見てきたはずだ。私の研究は成功している。理論上は間違っていない、後は実践に移すだけだ」


「万に一つという事があるではないですかっ」


「……お前は、私を信じていないのか?」


「あなたの研究は素晴らしいと思ってますわ。けれど、それとこれとは話が別です」


 アイリス伯は小さく舌打ちをする。

「……これだから女というのは、最後の最後でつまらん情けを出してくる。そういう話をしてる場合か?」


「わたし達の子供の話ですよ。どんな時だってそうであるはずですっ」


 アイリス伯はため息をついた後、穏やかな顔つきになった。顔つきは穏やかだったが、目には軽蔑けいべつの色があった。


「……グレイス、お前は疲れてるんだ。ゆっくりと夫婦で話をしよう」

 笑顔になるアイリス伯。しかし、妻は夫のその顔に一切油断することはなかった。


「……あなたがシアンには手を出さないと約束していただけるなら」


「……分かった。約束しよう」


「それなら、シアンはわたしの実家に預けてもいいですね?」


「……なに?」


「シアンを実験に使わないのならば、そうしても問題はないはずです」


 アイリス伯の口が歪んだ。

「そんなのはダメに決まっている!」


「なぜです! やっぱりシアンを実験台にするおつもりでっ?」


「シアンは私のものだ! あいつのことは私が決める!」


「わたしの子供でもあります!」


「なぜだ! 今まで私の研究に尽くしてくれたお前が、なぜこのおよんで!?」


「研究のお話ではありません、シアンの安全のためです!」


「……まさかお前が、物の優劣が分からん女だったとはな」


「分かりますともっ、シアンの優劣のお話ならっ」


 アイリス伯は肩を大きく上下させ深呼吸する。

「……分かった。今後の研究にもお前が必要だ」


 アイリス伯はさらにグレイスに近寄り、肩を抱いた。


「……分かっていただけましたか?」


「ああ、よく分かった。……このローゼスの手先め」


「え?」



「……地震?」

 母を待っていたシアンは床が揺れるのを感じた。


 それからしばらくしても、母は戻ってこなかった。代わりに現れたのは、憔悴しょうそうした様子の父・アイリス伯だった。


「あれ? お母さんは? それに父さんは出かけてたんじゃないの?」


 父のそばに、母のグレイスはいなかった。


「……私は……出かけてはいないぞ」


「……お母さんは?」


 目の前で訊ねているのに、アイリス伯は上の空のようだった。


「……父さん?」


「……シアン」



 その日のうちに、シアンは母が研究中の事故で亡くなったと父に教えられた。

 魔術の実験のせいで激しく損傷しているということで、葬儀の場所にはグレイスの遺体はなかった。親子は空の棺桶を担ぎ、それを墓地に埋葬まいそうし墓を建てた。

 親族が葬式から帰った後、アイリス伯はシアンにクリスタルを見せた。


「……これはなぁに?」


「……グレイスだ」


「……?」

 シアンは父の言う事が理解できずに困惑する。


「グレイスは偉大なる研究の過程でこの姿になった。だがこれは悲劇ではない。グレイスは私の研究の正しさを証明するために自らを犠牲にしたのだ」


 シアンはそのクリスタルをそっと手に取った。


「研究に捧げた母の思いを無駄にするな。この姿になっても、いや、この姿になったからこそ、グレイスのオドはお前と共にある。お前がグレイスの意志を継げば、きっといつの日にか再会できる日が来るはずだ」



「母さんは、あの日、ぼくを連れてここから逃げようとしていたんだ。それを、父さんが邪魔したんじゃないの?」


「……な、何を言ってるんだ?」


「俺も詳しく知りたいですねぇ」


「……貴様」


 部屋の入り口にはアッシュが立っていた。


「あのおじいちゃんの言ってたことが、かなり気になりましてねぇ。シアンくんに軽ぅく俺の術式使わせてもろうたんですわ」


「……シアン、くだらない言葉に惑わされるな。思い出せ私たちの目的を──」


「父さんだけの目的だよっ」


「……このっ」


 再びアイリス伯はシアンを平手で殴った。しかし、シアンはびくともしなかった。代わりにアイリス伯は手が押さえてうずくまる。体を術式で硬化させていたのだった。


「あ……つ……。」


 アッシュが小さく口笛を吹く。


「き、貴様、父親に向かって術式を使ったのかっ?」


「父さんがぼくに教えたんだよ」


「私のおかげで身につけた術式だ!」


「ぼくは頼んでないっ!」


「……シ、シアン」


「ぼくはずっと嫌だった!」


「なんだと?」


「魔術の訓練も、大事な友達ペットを実験に使われたのも、全部嫌だった! ずっと、ずっとがまんしてきたんだ! 母さんへの想いだとか、世界のためだとか言って、ぼくの気持ちがなかったことにしないでよ! 初めて好きな人ができたんだ! 尊敬できる人を見つけたんだ! ぼくだけの想いだ! 父さんに否定されるいわれなんてないっ!」

 シアンは呼吸を荒げると、机からナイフを取り出した。そして長く青い自分の髪をつかむと「この髪だって、父さんが母さんみたいに伸ばせっていうから……」と、ナイフで髪を切り落とした。


 アイリス伯はアッシュを見る。ここまでシアンが気持ちを吐露とろするのは、アッシュのテンプテーションの作用があってのものだった。アッシュは肩をすくめて微笑みで答える。


「……き、さま」


「シアンくんの気持ちはホンマモンですよ。俺はちょいとシアンくんの背中を押してあげただけやで?」


「……シアン、落ち着け。お前は長旅から帰って疲れてるんだ。少し休んでから話をするぞ」


「疲れてなんかない! ぼくはずっと父さんが嫌いだったんだよ! 母さんを苦しめちゃいけないって、自分の父親なんだから喜ばせなきゃいけないって、ずっと良い子にならなきゃって頑張ってたけど、本当はずっと嫌いだった! ぼくを傷つけたことも、マゼンタさんを侮辱したことも、絶対に許さないっ!」


「……聞き分けの無い奴だ」

 アイリス伯はクリスタルを取り出そうと懐に手を入れる。しかし、すぐに違和感に気づいた。

「……?」

 慌てて懐をまさぐり、次にポケットをまさぐった。だが、どこにもクリスタルはなかった。


「……どうしたんでっか? ……お?」


 シアンの体が緑色に発光しだしていた。激情によってオドが解放されつつあった。


「シ、シアン、落ちつけ……。」


 室内に、オドで発生した風が吹き荒れていた。


「……あちゃあ」

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