第18話 あんたが忘れても、うちが憶えとうから

「……ああ。そうか――」

 リリーは首を振った。綾の言わんとすることを察し、急に追求の表情が萎える。

 綾は、エマとの一件以来、記憶が本当に曖昧なのだった。

 一度封印されたエマの記憶が、その後逆流してくる間、苦しむ様を見ていたリリーには、綾の過去をわざと深く問いつめることなど、できない。

 無理に思いだそうとすると、綾は、ひどい頭痛や吐き気に襲われてしまう。

「正直に言ってるの。ほんとよ、三年以上前のことなんて、よく憶えていないの。友達にも、一度も会ってないし……覚えていない。さっきお会いした方のことも、申し訳ないことだけれど、少しも思い出せないの……」

 エマのことで強烈に記憶が混乱した時期を挟んで、それ以前のことは、印象がひどく弱まっている。

「わかった、わかったからもうええ、アヤ……」

 リリーがひどく哀しそうな目をした。

 綾の体が震えだした。

 言ってしまえば、自分には「今」――「現在」しかないのだ。

 過去に精一杯目をつぶって、とにかく今を幸福に生きることだけが、未来に続く道。あとで振り返って笑うために、少しでも楽しい想い出を作っていく。

 今は、振り返っても、辛い想い出が出てくるか、曖昧な記憶しか蘇らない上、頭痛や目眩に悩まされるだけだから……。

「ほんまに、エマはんは、罪なお人や……」

 ふーっと長いため息をついた後、リリーはいきなり、

「沙記、クララ、いい子やから、ちょい席外し」

 親指を立てた片手で、一年生二人に、くいくい、と背後の戸口を指し示した。

 褐色の肌に彫りの深い顔立ちのリリーは、そういうジェスチャーが感動的なほどに似合う。クララと沙記は顔を見合わせたが、雰囲気を察したのか、手をつなぎ合うと、退出していった。

「あのな、アヤ」

 言ったが、リリーはしばらく黙った。

 意を決したように口を開くと、

「はっきり言うとくけど、あんたが今でも想うてるエマはんが、うちはキライや」

 綾は、不意打ちをくらって、ハッとした。

 いつでも側にいてくれる大事な親友の、初めて知る顔。いつもは垂れ目ぎみのまなじりが、吊り上がっている。

「エマはんとあんたが出合ったんは、うちがデビューして、エスカドロン・ヴォランになって、芸能界で必死になって活動始めたころやった。まがりなりにも成功して、久しぶりに一息つける思て、ガッコに出てきてみたら、あんたは、もう無茶苦茶になってしもた後やった。いきなり手首切ったなんと聞いて、うちがどれだけびっくりしたことか」

「……」

 説明の、しようがない。

「あんときの悔しさは一生忘れへんわ。気がつけばあんたはうわごとでエマねえさま、ねえさまゆうて泣いて苦しんどる―― 人が、半年ばかり学院お留守にしとったスキに思うて、うちはな、どんなにエマはんを恨んだか知れんどすわ」

 リリーは、腕を組んで黙りこんだ。

 息が詰まり、身じろぎも出来なくなってしまう。

「なぁ、アヤ…… 学院に来た頃の……東苑に来た頃のあんたは、えらいこましゃっくれた、ただの楽しいお嬢はんどした。何が根拠でそないに強気なんやらわからん――面倒やちゅーくらい気位が高いくせに、妙に人なつっこくて明るい、アヤそのまんまのアヤどした。普通のあんたどした……」

 リリーの目から、涙が溢れた。

「なぁ……うちはちゃんと知っとうよ……。うちが中三で、あんたが中二の年に出合った、このリリーはんが友達になったあのアヤが……ここにいるアヤが、ほんまのアヤどすわ。あんたが忘れても、誰が忘れても、うちが憶えとうから。平気なんやよ……アヤ」

「リリー……」

 綾は、ただうつむいたまま、自分も喉から溢れそうになる何かを、こらえていた。

 過去に何をしたかを憶えていない人間なんて――しかも自殺未遂を起こした友人なんて――、この世で一番友達にしておきたくない人間に違いないのに。

 リリーは、綾が西苑でのことをろくに憶えていないことも、東苑での初めの二年間の記憶がおかしいことも、全て受け入れて、許してくれている。

 悔しげに声をあげ、ハンカチを目に当てて泣き出すリリー。ずっと抱え込んできていた想いだったのだろう。

 綾も気付くと、鼻の奥がツンとなっていた。

 エマとの前後の事情について、責任の一端が自分にもあるのではないかと、どこかで、リリーは、自分を責めていたのか……



「あの綾姫ですって? まぁ……本当に?!」

「美耶姫様と一緒にアメリカへいらっしゃったって聞いてましたけど」

「そうそう、中一の終わりから」

「隣の東苑にいらっしゃってたなんて」

「また一段とお美しくなってお戻りだそうよ!!」

 反対派の領土となった西苑の中・高等部学舎では、それはちょっとした話題になっていた。

 選挙管理委員会が総長選出のための準備に手間取っている間に、あっというまに噂は広まり、さざめいて綾を取り囲む、西苑籍の少女達。西苑高等部二年睡蓮組は、帰ってきた『綾姫』を一目見ようとする学院生で、ごったがえした。

 その中心に座らされて、綾は、少女達の嬉しげな顔、顔、顔に目を大きく見開いていた。

 自分は、西苑で何をしていたというのだろう?

 『式部の綾姫』という人は、西苑を去るまで、全西苑的なアイドルだったらしい。

「今でも憶えておりますわ、初等部のころ、美耶姫と一緒に舞いをご披露なさったでしょう?」

「振り袖も帯も、髪型まで双子のようにお揃いになさって。素晴らしかったわ。六年生の秋でしたわね?」

「綾姫様が中等部の入学式に代表で宣誓文を読まれたときも」

「あたし、実は綾姫と一緒にしたくて日本舞踊部に入ったんです!」

「実はわたくしも、茶道部に入れば、綾姫様のお点前を拝見できると聞いて……」

 矢継ぎ早に言われると、気恥ずかしさもあったし、戸惑いも大きかったが、見ていれば、彼女らの表情に嘘がないということは理解できた。

 曖昧に笑ってうなずくのが精一杯だが、彼女らは嬉しそうで、次々と想い出話を繰り出してくる。

 今でもこんなに憶えていてくれるような、たくさんの人達を置いて、何故自分は、東苑へ転籍しなければならなかったのだろう……

 綾は、心が温もってくるような気持ちの中に、また、渦にひきこまれるような不安を感じた。

 と、さっき真っ先に声をかけてきた睡蓮クラス長が、

「美耶姫は、今はどうしていらっしゃるのでしょう?」

 突然、『綾姫』なら当然知っているはず、といわんばかりの問いを無邪気に投げられ、綾は、ズキリと、胸が痛んだ。

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