第四章 西の苑へ

第16話 エマはなぜ東苑から西苑へ

 綾はふわふわしながら、『聖女会館』の廊下を流れていく東苑・西苑の生徒代表の人波の間を漂っていた。

 メインロビーはごった返し、車寄せから、車の来た生徒を呼び出すボーイの声が、ひっきりなしに響いている。

 平均標高二〇メートルほどの、平らに広がる学院の全体像が、遙か眼下に見下ろせる、車寄せ。やっとそこまで出て、外の空気を吸う。一息ついていると、沙記が目ざとく駆け寄ってきた。

「うわ、まだ顔色めちゃめちゃ悪いっすよ」

 緑したたるポーチの端に出ていたパラソルの下、白い丸テーブルに綾を座らせると、

「ボク、水でも貰ってきます――!」

 沙記は、ロビーに飛び込んでいく。けだるくて、制止することもできない。その間に、マーガレットとリリーも心配顔でやってきた。

「やっぱり、しんどいんか……?」

 リリーは、隣のチェアを引き出してかけ、無造作に脚を組み、マーガレットは無言で反対側のチェアに、そっと綾を真ん中に守るように腰掛けた。

 綾は笑って見せて、

「大丈夫よ。久しぶりの響也様のお顔が、ちょっと胸に響いちゃっただけ」

 おどけたが、

「アヤ……」

 二人は、綾の動揺の理由に察しがついている顔だった。

「……心配かけて、ごめんなさい。でも、私も覚えているようないないような……どうしようもないことで……」

 考えないで日々が送れるなら是非そうしたいが、やはり、直視しなくてはならない、ということなのだろうか?

 マーガレットが、白くて柔らかな両手をそっと、綾の手の甲に重ねた。

 おだやかな微笑。勇気づけられた気がして、綾は、言った。

「ありがと、マーガレット。とりあえず、西苑へ行きましょ?」



 平らな土地から急に七〇〇メートル近くも盛り上がっているスプリング・ヒルは、とにかく登りだしたらどんどん登る丘で、蛇行につぐ蛇行が続く。しかし、東苑と西苑の間を行き来する道は他になく、七合目近くの『聖女会館』へ一旦登ってから降りるのが、最も近い。

 臨時にバスも回されたらしく、対向車線には、西苑から東苑へ向かう賛成派の生徒達の車がびっしりと流れている。

 西苑へ向かう綾達反対派の車線も数珠繋ぎ。

 一緒に乗ったマーガレットは、気を使っているのだろう、話しかけてこない。

 綾は、バックミラーに映る沙記のジャンプスーツ姿を眺めていた。バイクにまたがり、ついてくる。

 西苑に降り、その中心近くの西苑高等部学舎へ。

 綾は、心にざらついた感覚を味わっていた。

――エマ姉様も、辿った道――?

 いいえ、『転苑』のときは、西の苑の門から入り直した筈ね――。

 一年以上前、東苑から西苑へ転籍したエマ。

――わたくしが、追い出したようなものですわ……

 綾自身も、何がどうしてそうなったのか、分かっていない。けれどおそらく、始まりはあれだ。エマに突然、別れを宣告されたこと。

 半年も続いた蜜月のあと、突然忌避され、エマの取り巻きに遠ざけられて、混乱した綾は、自ら命を絶とうとした。

 その頃の綾にとって、エマというのはそれほどの人物だった。

 恐ろしく重要で、その人を失って生きていけるとは到底思わなかった――ような気がする。

 気がする、と言ってしまうくらい、その前後のことを、綾は覚えていない。

 学院内で自殺未遂事件を起こした綾は、発見が早く一命を取り留めたが、主治医の治療を受け、式部邸の自室で意識を取り戻したとき、深刻な記憶障害を起こしていた。

 忘却したのはエマの存在、エマと過ごした時間の記憶だけだったとはいえ、それは実に、半年前までに遡るほとんど全てに相当する欠落だった。

 記憶は、時を置いて徐々に戻ってきたが、綾の記憶回復の混乱期には、エマはもう東苑からいなくなっていた。

 自宅での静養後、学院に戻っても、綾がエマのことをしばらく思い出さなかったのは、彼女の姿を全く見かけなかったから――。

――エマ姉様……――

 痛い別れをした後でも、慕わしい気持ちは失われていない。

 まだ、綺麗な想い出ばかりが胸にある。

 それは、綾が完全に記憶を取り戻していないせいなのかもしれないが……

――それは、自殺未遂など起こされたら、同じ苑に居づらくなるのも当然ですわ。

――でも、初めに私から去って行こうとしたのは何故だったの、姉様……?――

 それを知れなかったことが、きっと、傷をとても深くしている。



――いやね、最近思い出していなかったのに。

 ふぅ、と綾はため息をついた。

 車を降りて、歩き出す。運転手には再び駐車場で待機して貰うことになるが、仕方がない。

 全く左右逆に転写しただけのように、東苑と同じ建物、中等部や高等部の学舎が並んでいる。造園業者も同じなのだろうか、植わっている木々まで一緒で、目眩がするような光景。

「ねえ、アヤ?」

 ロータリーから学舎へ続く小道を歩き出してやっと、マーガレットは明るく口を開いた。綾の腕に手をからませてくる。

 車内では、運転手がいたため黙っていたのだろう。

「わたくし、ずっと黙っていましたけれど、響也様とのこと、一ヶ月近く前から聞いておりましたの」

「え……」

 一ヶ月前と言えば、本当に振られた直後だ。

「どうして、黙って…… そんなに前から知ってて、リリーにも黙っててくれたの?」

 しかし、マーガレットは穏やかに笑って首を振った。

「今は関係ないことですわ。あのね、アヤ、ですからわたくしずっとあなたのことを始終気にして参りましたの。……だから自信を持って言うのだけど、アヤはあの頃より、ずっとずっと強くなっていると思います」

「マーガレット……」

「長らく、あこがれてらっしゃったでしょ? 振られた時、辛かったでしょう? わたくし達にも泣きつかないで、よく我慢なさいましたわね?」

 手を伸ばして、クララにするように、綾の額の前髪をナデナデする。

「大丈夫。あなたはもう、痛みから立ち直れる術を身につけているようよ?」

 こういうとき、この友人には敵わない、と綾は心底思う。名前に負った花の姿と同じように、どこまでもさりげなく、優しい少女。

「あ、ありがと……」

「振られたことを親友にも話さないあたり、さすがはプライドの塊のあなただとは思いましたけどね?」

 にっこりするマーガレット、綾は目を丸くしたあと、

「――くくぅううっ! オチはそれっ?!」

「あ、元気になったんですね、綾様っ」

「あっ、ずるうういっ、マーガレットちぁぁんっ、クラらんにもなでなでして~~」

 溌剌とした声と甘ったるい声が飛んで、人波の向こうから、スレンダーな長身と、大袈裟な金のツーテールが目立つ二人の一年生が現れた。

 今の話は聞かれなかったらしい。綾はマーガレットと顔を見合わせた後、微笑した。

「ええ、心配かけたわね」



――

この物語はフィクションであり、実在の団体・個人・事件とは一切関係ありません

また、この物語は自殺・自傷を推奨するものではありません

――

お読みいただきありがとうございます。

これからも面白い物語にしていきます。ぜひブックマーク・応援・レビューをお願いします。作者のモチベーションに直結します。



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