第14話 エマおねえさま

「スプリング・ヒル……」

 誰かが唱えた。

 その瞬間、綾をはじめ、その場にいた全ての少女達の頭に一人の車椅子の少女の姿が浮かんだ。

「エンプレス・タワー、だな」

 エマが言って肘掛け付きの椅子から立ち上がり、もう問題は解決したとばかりに、ソフィーに握手を求める。

「――……ああ、〝塔の姫様〟……」

 吐息をついた後、ソフィーもほっとした笑顔を見せて立ち、エマの握手を受けた。全員が拍手して、賛成の意を表す。

――ちょっと待って、わたくし……?

 何かが、おかしい。

 綾一人だけが、何かの歯車が違ってきてしまった気味の悪さで、バンケットホールの隅で蒼くなっていた。

――あおい、碧い、瞳……呑まれてしまいそうな……

――え……?

 エマのことでもない、響也のことでも雅のことでもない、不可思議な不安……



 ことの起こりは何なのだろう。何だっただろう。

 綾は考える。

 今でも記憶が混乱し、ときどき自分に自信が持てなくなる元凶――。

――私、エマ姉様のようになりとうございますわ――

――ああ、お前ならなれるだろう、アヤ――

 二年近く前に出合った、綾のあこがれの上級生。まだそのころは東苑にいたエマ・ヘルフェリッヒ。

――私はまだ中等部三年生で――

「大丈夫ッスか、綾様? 真っ青な顔してますけど」

 エマとソフィー、リリー、雅ら、主立った者が出ていって、一時休憩になった会議場。ざわざわとしている中、長身を精一杯目立たないよう低くして、沙記がやってきた。

「あら本当。綾様、お加減悪いの?」

 隣の芙蓉ふよう組のクラス委員も、ちょうど外していた席にもどってきたところで、綾の顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですわ、気になさらないで」

 綾は、どうにか笑顔を取り繕うと、沙記と彼女ににっこりしてみせた。

――ああ、このようにして笑ってみせるのも、もとはエマ姉様から教わった交渉術だわ……



 平地から突き出た高い丘の頂上に立つ、高い高い優美な塔。

 車で頂上近くの駐車場までつけると、手前の石畳の広場に、いくつの長方形の池。その向こうに、塔を指針に見立てた巨大な日時計のような空中庭園が、黄昏の空の中に広がっていた。

 庭園の果てに、つづら折れに一五メートルほどにわたって登っていく急な石の階段があり、それだけが、塔の根本へ続いていた。

 大理石の手すりは、高度のためか、地上の七月の熱気とはうって変わって、ひんやりと湿っている。

 塔は直径一〇メートル足らず。真下に着いて見上げると、まるで天へ昇る階梯のようだった。

 頭の禿げあがった庭師が、無言で、鎧戸の錠前に鍵を差し込んで回し、外してポケットへ入れる。

 ――エンプレス・タワーには、人が棲んでいる――。

 源聖女館学院の生徒達にとって、いつからか認知されてきた、不可思議な現実。

 学院長にエマとソフィー、リリー、雅らが交渉した結果、〝塔の姫さま〟に対決方法を決めてもらいたいという要望は、聞き入れられた。

 ただし、この庭師がよこされただけで、学院長は同行していない。

 庭師が重い扉を押し開けると、中は洞穴のように暗かった。入口から差し込む陽と、庭師の手にしているカンテラ型の明かりだけが頼りだ。

 エマ、ソフィー、リリー、雅、東・西部長会長の六人だけという厳選された一行は、暗がりの中をついてゆく。

 コツ、コツ、と足音を響かせて庭師が先頭に立ち、十歩足らずで立ち止まる。壁のハンドルを回すと、グググ、とくぐもった音と共に、格子戸が横へスライドした。

 その向こう、幅二尺ほどの片開きの戸を押して、中へ入る。

 そのころやっと、背中で入り口ホールに電灯がともった。

 リリーと雅は振り向いた。

 昔は大層なシャンデリアだったらしい燭台に、蝋燭を模した電球がついている。

 照らされた室内は、何か西欧中世の城塞内部を思わせ、四方の壁から持ちあがる交差アーチめいた天井には、ギリシャ神話の一挿話らしい場面のフレスコ画が施されていた。

 ゴトゴトと、分厚い木の床の踏み心地の小さな一室に入り、戸を閉めると、庭師は室内の壁のボタンを押した。

 エレベーターは、ゆっくりと上昇を始めた。

「外見は真っ白でポストモダン風ですが、中はゲームに出てくる古城みたいですね」

 伊能雅が言う。

 庭師は学院生と会話することを禁止されているのか、口が不自由なのか、答えない。

「新任の分際でこんな栄誉にあずかれるとは、幸運だなぁ――」

 軽口を続ける雅に、少女達の咎めるような視線が集まる。

 それでも雅はへらへらした調子を通していたが、エレベーターが止まって扉が開かれ、向こうの鉄格子がするすると脇へ滑ると、その空間に、息を呑んだ。

 深い藍色に沈んだ一室。一面、壁が藍色だっただけではない。

 縦に細長い窓が、八方向に切られていた。人の背丈の肩の辺りから、高く頭上の天蓋までの細長い窓。その分厚い色ガラスまでもが、壁と同じネイビーブルーだったのだ。

 それを通して見る外の陽光は、まるで、水面の明かりを水底みなそこから眺め上げているかのように遠く、弱々しく見えた。

 合成樹脂でも流したかのようにつるつるの壁とガラスはあいまって、紺青こんじょうの陰影がぐるりを取り囲んで回り出すような錯覚におちいる。

 博物館のように落とされた照明と、博物館のようにひんやりしている空気。少し違うのは、その空気が全く清浄で、味も匂いもないことだったが、確かにここには、博物館よろしく、中央に人形が展示されていた。

 人形にしか見えない少女が。

 展示されているようにしか見えないかたちでそこに居た。

 学院長が直接顔を見せず、庭師にまかせたのは、万が一何か質問をされたらと、恐れてのことだろう。

 平たい円形の台座の上、一段高い位置で、車椅子にかけている、純白の衣服に身を包まれた少女。

 金糸の髪は、薄闇の中でもきらきらと輝き、波打ち、睫の上でばっさりと揃えた前髪の下には、上質の陶器でできているような顔、通った鼻筋。

 二粒の、こぼれ落ちそうに大きな宝玉の瞳。

 温かい南洋の珊瑚礁の色と同じ、ペパーミントブルーの炎がゆらゆらと燃えたっているような瞳だった。

 口許には、謎めいた微笑をうかべている。

 歳の頃は一〇歳前後か。

 彼女をアンティークドールそのものに見せているのは、そのかおと、女王朝期のロンドン・シティに流行したような少女服と、鳥の翼。

 模型の天使の羽を、彼女はその背に負っていた。

 エマやソフィーすら、塔へ昇るのは初めてだという。リリーや部長会長達は、いわずもがな。しかし誰もが、この少女のことは知っていた。

 いつもこの部屋に閉じこめられているわけではない。

 人形じみているとはいえ、生身の人間だった。眼下の少女達の苑へ降りて、車椅子で散策でもしているかのような姿が、ごくまれに目撃されていた。

 高等部を卒業するまでに一度遭遇するかしないかという、半ば伝説と化した少女。不思議な学院の住人――一説によると永遠の住人なのだともいう。

 『歳をとらない少女』。

 初めて聞いた者は、誰もが不審な表情か、笑い出しそうな表情をする。けれど、彼女についての疑問や揶揄などを口にすることは、タブーとされてきた。学院生の不文律のひとつだ。

 少女の住居がエンプレス・タワーらしいときては、学院長のプライベートな関係が匂い、深く追求するのは憚られるし、また、一目でも彼女を見れば、どんな疑いを持っていても、何故か存在を容認する気になってしまう、そんな少女だったからだ。

  無口なのか、さながら天上の音楽に違いないと噂されるその声を聞いた者はいなかったが、大きな瞳は圧倒的に雄弁で、万人が即座にその哀しい美しさの虜となってしまう。

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