第1輪⑤ 

 音が聞こえる。規則正しいリズムで頭に響くそれはこの場所では聞き慣れた音で、僕が瞼を開くとこれもまた見慣れた景色があった。洗剤の匂いがする肌触りのいいシーツ。程よい涼しさが肌に触れて、僕の意識は時間をかけて浮上していく。布の擦れる音を聞きながら上半身を起こすと、カーテンに仕切られた空間に閉じ込められていた。ここに至るまでの記憶がない。

「お目覚めかな?」

 カーテンの外から聞き慣れた男の声が聞こえる。今は何時だろうか。ぼんやりして僕が返事をしないことが気にかかったのか、保健室の主はベッドのカーテンを少し開けた。

「やっぱり起きているね。気分はどう?」

 主は僕のそばに来て、ベッドの近くに常備されている丸椅子に腰かけた。大きな欠伸をひとつついて、カーテンの隙間から見えた時計が午後を周っていることを知った。

「なんで僕、ここにいるんですか?」

「体育の授業中にサッカーボールが顔に当たって気絶したんだよ。っていうのは建前で、本当は軽い熱中症」

「熱中症」

「ただでさえこんな暑い日に外に出て運動なんてどうかしてるよ。まぁ、ちゃんと休憩と水分は取っているみたいだから問題ないけど、君の場合は寝不足と栄養失調と貧血のスリーコンボだからね」

 主はほら見たことかという顔をした。夏は生徒の生活習慣が乱れやすく、主はこのことについて以前からしつこく警告していた。それに従っている人がいるかは不明だが、僕はその警告を無視してこの様である。

 これはまた寝ないで昼食を食べろということか。今日はお弁当を持ってきたので、たしかに食べないと作ってくれた母に申し訳ない。しかし、身体が言うことを聞かない。そのまま意識の方もだんだん沈んできて、脳も身体も心地よくなってきた。

「!冷たっ」

 突然、眉間に冷たくて硬いものを当てられた。その衝撃のおかげで神経が逆撫でされ、心拍数が上がって僕の眠気は吹っ飛んだ。

「やっぱりまだ痛む?腫れてはいないから薬だけ塗ったんだけど、一応保冷剤持っていく?」

 主は僕に保冷剤を差し出した。そうだ、顔がボールに当たったんだった。今日の出来事なのに昨日のことのように感じる。少し痛むが、顔に大きな損傷はないようだ。

「それじゃあ、一応」

 保冷剤を受け取って、再び眉間に当てた。小さな痛みなら次第に慣れてくるものだ。

「そうそう。君に一つ言い忘れていたことがあるんだ」

 主は足を組み直して言った。

「夜行生物部のことでね。活動日を伝え忘れていたよ」

 主はポケットから紙を取り出した。四つ折りのそれを開いて僕に見せると、そこには「夜行生物部」の文字があった。部活勧誘のビラだろうか。

「活動日は月、水、金曜日の二十五時から。火、木、土曜日の午前一時ともいえるね」

「ということは、今日は活動日なんですね」

 昨晩は活動日ではなかったようだ。居心地の悪い夜は僕の被害妄想に終わった。

 怪しいけど気になる。楽しそうだけど怖い。そんなジレンマに挟まれて思考放棄したままだ。昨日は断ったが、この紙を渡してきたということは、主はまだ僕の勧誘を諦めていないようだ。かくいう僕も、未だ決めかねたまま。やっぱり見学だけでも行ってみるべきか。昨日の昼は頭も身体も心も余裕がなかったが、今になって考えてみればそれがいいのではないかと思う。

「ビラがあるってことは、結構勧誘しているんですか?」

「いいや。夜行生物部への入部には条件があるんだ。一つは不眠症とか昼夜逆転とか、何らかの事情で夜に眠れないこと。もう一つは……」

 そう言いかけて、主は指を顎に当てて考え始めた。入部条件とはなにか試験があるのだろうか。しかし、主の返答はそんな頑ななものではなかった。

「それは入部してから見つけてもらおう。条件といっても、そんな難しいものじゃないよ。だからと言って、誰でも入部できるわけでもないけど。そもそも、夜に活動なんて危ないし、健康にもよくないからね」

「危ないとわかっていながら、どうして活動をしているんですか?」

 率直に思ったことを聞くと、主は僕をじっと見て笑った。

「それは俺が魔法使いだからだよ」

「……は?」

 昨日もこんなことがあったな。

「質問の答えになってません」

「理由は色々あるんだよ。でも、やる意味はちゃんとあるし、必要としている人がいるから存在しているだけさ」

 深い意味を含んだその言葉は、まるで意味不明な答えの背景を映しているようだ。この人は嘘をついているわけでも、甘い言葉で僕を惑わせているわけでもない。ただ、そこにある事実を語っているだけ。それなのに、どこか蠱惑的な魅力を感じてしまうのは、彼が魔法使いだからだろうか。

 僕と同じように、夜にしか呼吸ができない人がいる。その人たちのために夜行生物部は存在しているのだろう。それが必然であるかのように、言葉が流れていく。

「見学、行ってもいいですか?」

「……うん、いいよ。大歓迎」

 主は驚くことも喜ぶこともなく、まるで最初からこうなることがわかっていたかのように、ただ静かに優しく肯定した。それは夜長の月の静けさがあった。

「来週の月曜日でいいかな?今日突然来られたら部員がびっくりしちゃうかもしれないから」

「わ、わかりました」

 突然、見慣れない顔が現れたら誰だって驚いてしまうだろう。それが秘密裏に活動している部活ならなおのこと。どんな人たちがいるのか心を弾ませながら、溶け始めた保冷剤を片手にベッドから出た。

「昼食べてきます。お世話になりました」

「大丈夫だよ。また辛くなったらいつでもおいで」

「はい。失礼します」

 軽く会釈をして保健室を出ようとドアに手を伸ばすと先に扉が開いた。扉を開けた人物も驚いただろう、三秒間くらい見つめ合って、互いに動じなかった。気まずくなって先に口を開いたのは僕の方だった。

「あっ、すみません」

「……ああ、こっちこそごめんな。どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 ぎこちないやり取りを後に、僕は突然もどかしくなって廊下の曲がり角まで早歩きした。

 早く教室に戻らないと昼休みが終わってしまう。教室に戻ったら怪我の具合でも気にさせるのだろうか。気にしてほしいような、ほしくないような気持ちがあって、戻ることを少し躊躇ったが、いい加減お腹が空いたので欲求に従うことにした。

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