第8話

 白い粉雪がハラハラと空から舞い落ちる。

 恵美は自分の一歩を歩くまさやの白い背中を追っていた。


 ついてくるのが当たり前だと思っているのだろう、斎藤家を出た後、まさやは恵美を一切振り返らずダッフルコートに両手を突っ込んだまま無言で歩き続けている。

 態度こそ冷たいようだが、その歩調はゆったりとしたもので、恵美のペースに配慮していることが伺えた。


 近くの児童公園に差し掛かかった時、まさやは何も言わずその中に入っていくが、そこでもそのまま恵美を振り返らずに歩いていく。


 少し躊躇った恵美だが、仕方なしにその後に続いた。


 クリスマスシーズンということもあり、夜中にも関わらず大勢のカップルがいる。おそらく目当ては公園中央にある時計塔。


 今日だけは特別な日、深夜0時に鐘を鳴らす演出があるのだ。


 まさやは噴水近くの時計塔に辿り着くと、ようやく足を止めて恵美を振り返った。

 表情は読み取れない。笑っているようにも、怒っているようにも見える。


恵美えみさんの願いは何?」

「え?」

「クリスマスだから。何か願いがあるのかと思って。聖夜の奇跡ってやつ」


 恵美はしばらく考えた。


 適当に答えようかとも思ったが、無性に疲れていた。何もかもが嫌になっていた。全て終わらせたい、そういう衝動に駆られていた。

 寒さのせいで感覚が麻痺していたのかもしれない。この時は、素直に言葉が出た。


「……私の願い……本当の自分に戻りたい」


 知らずに恵美の頬を涙が伝い降りていった。


 体は寒いのに頬の辺りだけほんのり暖かくなっていて、なんだか妙だった。

 まさやは塔のてっぺんにある時計に目を向けて「あと、3分」と微笑んで、恵美に手紙を投げて寄越した。


「それ、明日香あすかさんのプレゼントに添えられてた手紙。さっき見つけたんだ」


 渡された手紙を何気なく目にした恵美は、自分の手が震え始めたのを感じていた。


<クリスマスプレゼント。バイトして買ったから大事にしてね。 恵美>


「そのネックレスを恵美えみさんにプレゼントしたのって、本当はお父さんじゃないみたいだよ」

「……冗談言わないでよ。これ以上あなたに付き合いきれないわ」


 恵美の頭の中は混乱していた。


 この手紙によると、ネックレスは恵美から明日香に贈られたものだった。

 何も知りたくない、この残酷な現実を受け止めたくない、そう感じた恵美はきびすを返して公園を出ようとした。


「戻りたいんだろ? 本当の自分に」


 懇願するでもなく、怒鳴るでもなく、まさやの心地の良い声はすんなり恵美の中に落ちていった。


 恵美は足を止め、立ち止まった。


 戻りたい? 本当の自分に? 


 そう戻りたい。戻れるのなら、恵美じゃなく、本当の恵美に戻りたい。

 恵美は震える声で呟いた。


「……見つけて欲しいの、誰かに、本当の私を……」


 まさやは何も言わなかった。

 恵美も何も言わなかった。

 刻一刻と時間ときだけが流れていく。


 噴水の周りで喋っていたカップル達が、次第に時計塔の側に集まってくる。

 


 鐘が鳴るまであと3秒。



 その寸前、ざわついていた周りの音が魔法のように掻き消えた。


 その瞬間を待ち詫びていたかのように、聖夜を告げる鐘の音が、厳かに、けれど涼やかに、全てを浄化するように鳴り響いた。



 ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン



 その音に耳を傾けていると、誰かが優しく恵美の手を包んだ。



「メリークリスマス。――恵美さとみさん」

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