第五話:NOBODYS HERE

 そんなある日のこと。授業に遅刻した俺は、一限目のクラスの中を見て固まってしまった。

「…あれ?」

 クラスの中に誰一人いなかったのだ。

「…」

 おかしいなと思いつつも、一応一限目の教科の確認をする。やっぱり近代史だからここのはずだ。

 普通、自分の受けるクラスの教室に生徒が移動するこの学校では、授業のない時間はみんなロッカールームの周りやテラスにいるんだけど、いつも遅刻ギリギリの俺はそんな暇がないので、ロッカーには寄らずにそのままクラスに向かう。でも今日は近代史のテキストがロッカーにあるのを思い出して慌てて取りに行ったのだ。その結果、クラスに行けたのは始業してから10分後。そうしたらクラスに人っ子一人いないとは。

「さて、どうするかな…」

 とりあえず廊下に出た俺は当て所もなく歩き出す。その時、俺の耳に聞こえてきたもの。

「「おお〜」」

 なんだ?今の声は。

「歓声…?」

 と同時に拍手が聞こえてきた。ん〜、近代史のクラスとは考えにくいが、行ってみよう。教師のミス・リンダから想像するに、歓声を上げるような授業に思えないんだが。

 それにしても一体どこからだろう。俺はもう一度耳を澄ました。歓声は一度だけでなく、時々上がっているようだ。

「あっちかな」

 歓声のする方に向かってみると、そこには音楽室があった。中から人の声がする。さっきの歓声はここからのようだ。

 俺は近代史のクラスか確認するために、もう一度耳を澄ます。すると、音楽室だから当たり前といえば当たり前なのだが、人の声ではないものの音も聞こえる。加えて、これも当たり前だが、壁は防音質なので、開けてみないとその音の正体は分かりそうもない。この壁を通り越してさっきの歓声が聞こえたのだから、相当大きな歓声だったのだろう。気になってきた。もはや近代史のクラスかはこの際いいような気がしてきた。何か細く、高い音が聞こえる。俺はそっとドアを開いた。

〜♪〜〜♪♪〜

 聞こえたのは、バイオリンの音だった。細く、高く、透き通るような音。俺はドアを背にして、人だかりの中からそっと覗き込む。演奏者を見ようと思ったのだ。

(ダン…?)

 演奏しているのはダンだった。

〜♪♪♪〜♪〜

 なんの曲かは分からない。でも俺は、バイオリンのその美しい音と、演奏するダンの様子にぐっと惹きつけられた。滑らかに、大胆に、楽しそうに体を揺らしながら弾いている。

 それにしても弾けると聞いてはいたけど、ここまでとは。もちろん俺に楽器の云々は分かるわけもないのだが、要するに、素人からしてもその演奏は素晴らしいということを言いたい。生でコンサートを聞いているような、そんな感じだった。その時俺は周りを見渡してみた。近代史のメンバーだった。俺だけでなく、みんなも同じように思っているようだった。特に、壁際にたつミス・リンダは全身で感動を表現していた。

〜♪♪♪♪〜〜〜♪〜

 ダンが、わずかに黒い髪を揺らして、バイオリンの弦をなぞる。フィナーレだった。

 演奏が終わると、しばしの沈黙が流れる。直後、音楽室は大きな拍手に包まれた。当時ちょっとスカした感じがかっこいいと思っていた俺にとって珍しいことなのだが、本当に感動して、俺も思わず拍手していた。

「サム!」

 ダンが俺に気づいてこっちに近づいてきた。ダンの言葉に、周りが一斉に振り返る。

「サム!来たんだね」

 俺はなんと声をかけて良いか分からなかった。周りに人がいるのも気になったけど、実は、何よりも感動して。

「演奏は、どうだったかな?」

 ダンは茶目っ気たっぷりに言う。

「…ああ、すごかった」

 俺がそう言うと、ダンはクスッと笑った。

「そう言ってもらえてよかった」

 俺はぶんぶんと頭を振って、頷いた。周りに見られていることへの少しばかりの緊張の中で、感動していた俺はちょっと変だった。

「ところで、今日君がいないからどうしたかと思ったけど」

 ダンが言う。

「いや、俺もクラスに誰もいないからびっくりして」

「ははっ」

 ダンが笑った。

「それは遅刻したからだろ」

「いや、そうなんだけど、でも、普段こんなことないからさ」

「クラス、探すの苦労したでしょ」

「そりゃあな、見当もつかなくて」

「これからは遅刻できないね」

 いつの間にか俺は周りに人がいるのも忘れて、ダンと談笑していた。その時誰かが言った。

「だよなあ、サムは遅刻常習犯だからなぁ」

「ほんとほんと、いっつもギリギリか、アウトなのよね」

「まあ、俺はマイペースな野郎で嫌いじゃないと思ってたけど」

 口々に、俺とダンの会話に加わってくる。

「サムが遅刻しなきゃ、クラス、探すこともなかったんだぜ〜」

 茶化すように滅多に絡まないマイクが俺の肩に腕をかけてきた。

「う、うるさいな」

 俺はちょっと顔を赤くして言った。

「ハハッ、お前そんな顔もするんだなぁ」

 ケビンが言う。

「可愛いとこあるじゃない」

 リタ・トンプソンが言った。高飛車なイメージで一方的に避けてたんだけど、でも柔らかく微笑んでいる。

「いつもスカしてんのにな」

 そこでジョシュが言うと、笑いが起きた。そこで俺は、遭遇したことのない状況に動きを止めた。

 俺が、人の輪の中にいるのだ。今までの経験上、それはあってはならないことだった。俺は人と関わるのを避けていたし、円満な人間関係なんかに興味がなかったのだから。

 この状況にどう対応しようかと、俺の体は最初戸惑っていた。でもなんだか、その輪の中でクラスのみんなと話しているうち、この感じがそれほど不快ではないことを知るようになった。なんだか嬉しいような、照れくさいような、くすぐったい気持ちになって、とうとう、俺は笑った。ああ、俺は、本当はこんな感じにみんなと絡みたかったのかもしれない。


——パン、パン。


その時、乾いた音が聞こえて、俺は我に返った。

「はいはーい、みんな、今ゴードン君が演奏してくれたのが、『近代史』上有名な…」

 ミス・リンダの声が聞こえて、ああ、そう言うことだったのかと理解する。彼女の声で、周りの人だかりは先生に注目し出し、自然と会話は静まった。

 でも俺は不思議な高揚感に包まれていた。みんなと話すのがこんなに楽しいなんて。興味がないって、思ってた。一人でいいと思ってた。誰も俺のことなんかわからないって、そう、決めつけてた。

「サム、君、そうして笑っていた方がいいよ」

 ダンが俺だけに聞こえるようにそっと言った。俺は、ダンを見た。ダンの持つ、不思議な雰囲気。それに引き寄せられるみんな。ダンが、そこに自然と俺を加わらせてくれたような気がして、俺は心の中でそっと言った。

(ありがとな、ダン)

 いつか口にできるといいと思った。

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