第28話

 いつからだろうか、雨が降り出したのは。

 雲一つない快晴の中で、俺の服だけ濡れている。

 顔もびちゃびちゃだ。

 意味が分からない。


 まさか俺の頭上のみに高速追尾式雨雲でもいるのだろうか、と思う始末である。

 しかしながらおかしいのだ。

 だって濡れてるの、頬から下だけなんだもの。

 髪の毛は水気のみの字もないんだもの。


 なんとなく実家には戻らなかった。

 そもそもマンションから自転車を引っ張り出していることもあり、まずはマンションの自室に寄る必要があったのだ。


 駐輪場に自転車をしまう段階で嫌な予感がした。

 なんだか自室のある上の階から闇オーラを感じ取るというかなんというか。

 悍ましい円に当てられているかのよう。

 上にはネコ型の僕っ娘キメラアントでもいるのだろうか。


「おかえり」

「……なんべ、いぶんでずか」

「何言ってるかわかんない。ひっどい顔だし」


 相変わらず容赦がない。

 ただ若干歯切れが悪いな。

 優しげな、心配するような顔が垣間見えるのがこれまたイライラ。


「開けてよ」

「……」


 意味が分からん。

 どうしてこの女はいつも俺の家の前を張って、さらに中へ入ろうとしてくるのか。

 と思いつつ、体は何故かすんなり室内に彼女を上げる。




 ‐‐‐




「ほんと馬鹿なんだ」


 杏音は第一声にそう呟いた。

 この部屋の中には俺と杏音しかいないため、この言葉は俺に向けたモノであること確実だが、なんだか夢見心地で実感がない。


 彼女は他人の家だというのに、やけに自然になじんでいた。

 数回入っただけなはずなんだがな。

 まぁいい。


「なにやってんの」

「何って、何の話ですか?」

「今さっき悠がやってきたことよ」

「……」


 俺が今さっきやってきたこと。

 小倉と芽杏に仲直りの場を提供したことだ。

 これで彼女らは再びカップルとして仲良くなれる事だろう。

 そして俺も今後二人と距離を置く。

 そういうけじめの意味合いも込めた行動だった。


「昨日ね、私はちょっと嬉しかった。芽杏が悠に勉強会に誘われたって言っててさ、ついに告白でもするのかと思ったの」

「……」

「でも蓋を開けてみれば何これ。どういうこと?」

「……どこまで知ってるんですか? ていうかなんでここに?」


 聞くと杏音は目を閉じてため息を吐く。


「特に何も知らない。昨晩芽杏に誘いの話を聞いた。それで今日はちょっと楽し気に出ていく妹を送り出したの。その後たまたま外に出たら、鼻水まき散らしながら一人で爆走する悠を見つけたってわけ。心配で家まで来てみたら、何故か私の方が先に着いてた」

「鼻水まき散らしてたんですか? 俺」

「今もね。マジで不細工」


 言われて慌てて洗面所に鏡を見に行った。

 そこには目が充血し、ぬめぬめした液体でびちゃびちゃになっている俺の顔がある。

 確かに鼻水をまき散らしていた。


「え、どういう……」

「それで、どうして泣いてるの?」

「泣いてる?」


 言われて鏡を今一度凝視する。

 確かに泣き顔だ。

 充血し、若干腫れた目元は号泣した後のそれ。

 なるほど、鼻水は副産物に過ぎなかったのかー。

 でも意味が分からない。


「なんで俺は泣いてるんですか?」

「私が聞いてるんだけど」


 イライラしたようにこめかみをトントンする杏音。

 鏡越しに見る彼女は嫌味なほどに綺麗だった。


「ねぇ、悠は図書館で何してきたの? 芽杏と付き合い始めた……わけじゃないよね?」

「……小倉と仲直りの場をセッティングしました」

「マジで言ってるの?」

「はい」


 言って自慢気に頷こうとして、どういうわけか涙がこぼれた。

 大粒の雫がぼたぼた音を立てて洗面台に落ちていく。


「あれれれれぇ?」

「ほんと、頭おかしいんじゃないのってレベルで馬鹿」


 そこまで言う事ないだろ。

 と思ったが、杏音はそっと近づいてくると、居心地悪そうに目を逸らしながら俺の両手を取る。

 そして俺の胸に頭を押し付けてきた。


「ほんと、馬鹿……」

「いや、なんであんたまで泣くんだよ」


 意味が分からない。

 急に杏音まで泣き始めた。

 レベルカンストした貰い泣きって感じだな。


 狭い洗面所には、しばらく俺と杏音二人のすすり泣く声だけが響いた。




 ‐‐‐




 二人とも落ち着いてリビングに戻った。

 そして特に会話もないまま時間が過ぎる。


「気持ち悪いんです」


 沈黙を破ったのは俺の声。

 杏音はゆっくりと俺の方を向く。


「自分で決心したはずなんですよ。もう芽杏に関わるのはやめよう、今後二人の恋愛に首を突っ込むのはやめようって。これ以上関わると、本気で頭がおかしくなりそうだったから」

「……」

「正直心のどこかではまだ芽杏の事が好きだったんだと思います。だから彼女と縁を切るのは怖かった。だけど、いつまでも逃げ続けるわけにはいかない」


 姉に言われた言葉がきっかけだった。

 付き合うか縁を切るか。

 多分前者を選ばせる気で姉はあの言葉をくれたのだと思う。

 でも、俺にはできなかった。


「告白する気にはなれませんでした。小倉から奪うって形になるのも気持ち悪かったですし、単純に度胸もないですし。そして……」


 俺は杏音の顔を見て、そして自嘲気な笑みを浮かべて言った。


「なんかもう、好きだとかわかんなくって」

「……」

「恋愛とか、そういう感情が理解できない、気持ち悪い……って」


 もう俺には恋愛というものが全くわからない。

 それについて考えると気持ち悪いの一言しか出てこないのだ。

 おえっ……

 急激な吐き気に俺は口を押さえて我慢する。


「……終わったね」


 杏音はそんな俺の様子を見て短くそう言った。


「おめでとう。こちら側へ」


 彼女の顔は無だった。

 今までぎりぎり超えていなかったラインを、俺は今回踏み越えてしまったのだろう。

 ただの失恋拗らせから、病気の次元に到達してしまった。


「杏音、一つ聞いていいですか?」

「なに?」

「この前最後まで聞かなかった話の答えを聞きたくって。今まで俺に恋愛を強要してきた理由は何ですか?」


 一昨日の初詣でのこと。

 彼女は矛盾したことを言ったのだ。


 今まで彼女は恋愛嫌いな俺に、これでもかという程恋愛展開に持ち込ませようとしてきた。

 ダブルデートしかり、この前の初詣もそう。

 あの手この手で俺と芽杏をくっつけようと。

 恋愛恐怖症、さらに言うなら恋愛を——芽杏と付き合うことを望んでいない発言を表面的に繰り返していた俺に、その行動は不自然極まりない。


 彼女はすぐには答えなかった。

 しかし、脱衣所に視線を運んだ後に口を開いた。


「恋愛恐怖症は辛い。それはもう、事あるごとに死にたくなるレベルで毎日の生活が憂鬱になる。あの日の私もそうだった。世界が全て自分の敵に見えてて、悠にドブから拾い上げてもらわなかったらどうなっていたか、自分でもわからない」


 彼女はあの日壊れていた。

 急に泣き出し、情緒が狂ったいたのは話し方や表情からも明白。

 そしてそれは、今の俺も同じかもしれない。


「お節介なのはわかってた! でもね、どうしても悠には同じようになって欲しくなかった。一応感謝してるの、命の恩人と言っても過言じゃないし」

「大げさですね。ドブ汚水で溺死とか……」

「違う、それだけじゃない。私にとって悠は心の拠り所なの。恥ずかしいし、冷静になったら悠なんかになんでこんなことをって思うから今一回しか言わないけど」


『悠に救われてるの』

 彼女は消え入りそうな顔でそう呟き、俯く。

 昼だというのにカーテンを閉め切っているため、はっきりは分からないが顔を真っ赤に染めているだろうことはなんとなく想像できた。


「私なりの、恩返しのつもりだった」

「俺の恋愛恐怖症を治し、芽杏とくっつけて人生の正規ルートに戻してあげようって事ですね」

「ごめん。何様って感じだよね。ごめん。ごめん……」


 謝らないで欲しい。

 というか、この女に謝られると罪悪感が凄い。

 いつも通り死ねだのなんだの言ってくれないかな、まじで。


「杏音は悪いことしてないです。俺があなたの親切を全部無視して踏み躙って……悪いのは俺なんです。ごめんなさい」

「なんで悠が謝るの……」


 お節介だなんて思わない。

 実際俺はこの人みたいにはなりたくなかった。

 ただ嚙み合わなかっただけだ。


「これで今日から俺も、晴れて恋愛恐怖症を名乗れるわけですね、本当の意味で」


 今までとは違う、もっと病的なアレだ。

 ダークサイドで厨二な部分が、可哀想な俺かっけぇという都合のいい解釈をし始めた。

 あぁ、これダメなやつだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る