2019年10月13日(日)


 シエラネバダ山脈の山中には、トラッキー湖と呼ばれる湖がある。

 その湖のほとりには山越えのための山小屋が用意されていて、例年よりひと月も早い降雪に見舞われたドナー隊こと真留子まるこ一行は、慌ててそこへ逃げ込んだ。

 会場のスピーカーからは、聞いているだけで身震いしたくなるような雪山のうなりが響いている。真留子たちは舞台の上で膝を抱えて、為す術もなく吹雪が止むのを待っている状態だ。するとほどなくカランカランとドアベルが鳴り、舞台そでからドナー役の生徒が駆け込んできた。

 厚手のコートにニット帽を被り、マフラーまで巻いた完全防寒の装備で現れた彼女は、体についた雪を払う仕草をしながら、切羽詰まった口調で告げる。


「ダメだ。もう三日も吹雪が続いているが、一向に止む気配がない。まだ日も高い時間帯だというのに外はまるで白い闇だ。おまけに積もった雪もどんどん高くなっている。このままではたとえ吹雪が治まっても、山越えは至難の技だろう……」


 山小屋は絶望の空気に包まれた。何しろ彼らには山小屋にもって雪が溶けるのを待つほどの余裕はない。余裕がないから急いで山を越えようと、散り散りになった仲間を待つのを諦めて山へ入ったのだ。ところがそんなドナー隊の選択は、完全に裏目に出てしまった。旅を続けるのが困難だと分かった時点で、彼らは一度カンザスへ引き返すべきだったのだと今なら分かる。


 ところがかつてゴールドラッシュに沸いたカリフォルニアの夢が、彼らの判断を狂わせた。数日後、ようやくにして吹雪は治まったものの、小屋を出た真留子たちを待ち受けていたのは雪の壁。ドナーの言うとおり、これではとても山越えなどできたものではなく、一同は肩を落として再び小屋へと引き返した。


『それから何日も何日も、小屋から出られない日が続きました。吹雪が止んでも、外ではなおしんしんと雪が降り、晴れの日はほとんどありません。おかげで草木もみんな雪に埋もれてしまい、食べるもののなくなった家畜たちは次々と死んでいきました。そうなると当然、真留子たちが口にできる食糧も日に日に少なくなっていきます。小屋にいる全員が飢えるのは時間の問題です……』


 刻一刻と上演時間のタイムリミットが近づき、依然として焦燥を帯びた横山よこやまのナレーションもこのときばかりはシーンとよくマッチして、真留子たちが置かれた状況の深刻さを掻き立てた。ちなみにこれも後日知ったことだが、実は横山安里子ありこ版『母をたずねて三千里』に登場するドナー隊には、モデルとなった人々がいる。


 彼らの名もまた〝ドナー隊〟。


 西部開拓時代、大陸横断鉄道の開通以前にカリフォルニアへの移住を計画し、シエラネバダ山脈で遭難した開拓者の一団だ。彼らもまた西を目指す旅の間、様々な苦難に見舞われ、最後は真留子たちと同じく冬山に閉じ込められた。そうして食糧が底を尽くや、生き延びるために死んだ仲間の──つまり人間の肉を食らい始め、ついにはまだ生きている人間を食すために殺そうとする者まで現れたという。


 が、さすがの横山も、真留子の物語をそこまで史実に忠実にするつもりはなかったらしい。観劇当時ドナー隊が実在したことすら知らなかった俺は、彼らがここからどうやって窮地を脱するのか想像もつかなかった。しかし横山は知恵を絞って、真留子らが人肉に手を出すことなく事態を解決する展開を生み出したのである。


「──タムセン! タムセン、しっかりするんだ!」


 やがて横山のナレーションが明けると、今度はドナー役の生徒の悲痛な叫びが響き渡った。舞台の上には、ドナーに抱き起こされる形で身を横たえたひとりの女。

 タムセンという名で呼ばれた彼女は他でもない、ドナーの妻だ。


「ああ、あなた……ごめんなさい。私はどうやらここまでのようです……私が神の御許みもとへ召されたら……そのときはどうか、私の肉を食べて下さい。そうして、せめてあなたたちだけでも生き延びてくれたなら……」

「何を馬鹿なことを言うんだ! 私は決しておまえを見捨てたりはせんぞ!」

「ですが、ドナーさん。この雪ではもう、麓に助けを呼びに行くことも……まともな食糧だって、あとほんの数日分しか残っていません。こうなるともう、我々が生き延びるためには、ミセスの言うとおりにするしか……」

「君まで何を言い出すんだ、ロッシ君! 今日まで妻がイタリア人の君にどれだけ親切にしてきたか忘れたというのか? これだから無学でいやしいマフィアくずれはまったく信用ならんというのだ!」

「マフィア? マフィアですって? 僕がイタリア人だというだけで、彼らのような野蛮人の同類だと決めつけないで下さい! だいたい彼らがアメリカの治安を乱すようになったのは、あなた方がそうやって僕らイタリア人をバカだ、貧乏人だとさげすんで、虐げてきたせいじゃありませんか!」

「何だと!? 我が国の甘い密を吸おうと、勝手に群がってきた分際で偉そうに!」

「そういうあなた方だって、もとは僕たちと同じ移民よそものでしょう!?」

「ええい、黙れ黙れ!」

「──やめて下さい!」


 瞬間、会場の空気を引き裂くような鋭い制止の声が上がった。

 今にも掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ったドナーとロッシの間に入り、勇敢にも彼らを引き離したのは、言うまでもなく我らが真留子だ。カンザスシティからの長い旅の間に真留子はすっかり英語が堪能になり、ふたりの口論の内容もすべて聞き取れたものと見えた。彼女は不安と空腹によって追い込まれ、いきり立つふたりを平等に睨めつけるや、さながら肝っ玉の据わった母親のごとく言う。


「ドナーさんもロッシさんも、落ち着いて下さい。今は仲間割れなんてしている場合じゃありません! このままじゃタムセンさんだけでなく、ここにいる全員が死んでしまうんですよ。こんなときにみんなで助け合わなくてどうするんですか!」

「しかしマルコ、助け合うと言ったって、僕たちにできることはもうないよ。唯一何かあるとすれば、ひとりずつ飢えて死んでいくのを仲良く見守るくらいかな」

「いいえ。私はこんなところで死ぬつもりはありません。お母さんにひと目会うまでは、絶対に死んでたまるもんですか! それにタムセンさんだって死なせやしません。彼女には五人の子どもたちがいる。彼らが母親を永遠に失うところなんて、私は見たくありません!」

「ではどうすると言うんだ。君には何か、妻を救う妙案があると言うのか?」

「はい。ここで全員飢えて死んでしまうくらいなら、私が山を下りて助けを呼んできます。そのために、ドナーさん、馬車の木材を少々と、死んだ牛の革を私に恵んでもらえませんか?」

「そんなものならいくらでもくれてやるが、一体何に使う気なんだ?」

「雪の上を歩いていくためのを作ります。私の故郷も雪が多くて、冬になると父がよくかんじきを作ってくれたから、きっと私にも作れるはずです」


 〝かんじき〟。そういえば俺も遠い昔に、課外授業か何かで行ったどこかの民俗資料館で見たことがある。日本では古く縄文時代から昭和の頃まで、主に東北や北陸といった雪国で使われていたという、先人たちの知恵の産物だ。

 見た目はガットが緩んだテニスのラケットに似ていて、木で作られた楕円形の枠の中に、縄で編んだ網目が収まっている。こいつを靴の下に装着すると、接地面に加わる体重が分散されるとか何とかで、足が雪に沈みにくくなるそうだ。

 つまりかんじきを履いていれば、深く積もった雪の上でも歩きやすい。


 真留子はこれを見様見真似で自作して単身シエラネバダ山脈を越え、助けを呼んでくると豪語したわけだ。さすがに平時であれば、こんな年端もゆかぬ少女をひとりで冬山へ送り出し、救助を呼んできてもらおうとはならないだろう。むしろ誰もがそんなのは無謀だ、自殺に行くようなものだと言って止めるに違いない。

 されど今のドナー隊が置かれた状況はまさに絶体絶命で、もはや真留子の提案と勇気にすがる以外に活路はないと思われた。するとしばし無言でドナーと顔を見合わせていた青年ロッシが、やがて肩を竦めて首を振り、やれやれと嘆息をつく。


「分かったよ、マルコ。君がそこまで言うのなら、僕も一緒に下山しよう。さすがに君のような小さい子をひとりで行かせるわけにはいかない。そのカンジキというのは、僕の分も用意してもらえるかな?」

「もちろんです。でも、ロッシさん……本当にいいんですか?」

「ああ。どうせここにいたって、僕にできることといえば神に祈るか死を待つのみだ。だったらたとえわずかでも希望のある方に賭けてみようと思う。どうせ死ぬかもしれないのなら、少しでも後悔が小さくて済む方を選ばないとね」


 激しい飢餓と命の危険に晒された極限状態にありながら、ロッシが笑って告げた言葉に、真留子も幾分か励まされた様子で頷いた。

 かくしてドナーから譲り受けた馬車の部品と細く裂いた牛の革をうまく使って、真留子はふたり分のかんじきを用意することに成功する。


「それじゃあ、ドナーさん、タムセンさん。私とロッシさんのふたりで、きっと助けを呼んできます。ですからどうか耐えて下さい。ここまで連れてきていただいたご恩は、必ずやお返しします」

「ああ、真留子。今の君は誰よりも強く勇敢な英雄だ。我々にはもはや祈ることしかできないが、何があっても君たちの生還を信じているよ」

「はい。行ってきます!」


 そうして迎えた別れの朝、真留子がドナーに返した答えは、奇しくも彼女が日本の家族に別れを告げたときと同じ言葉、同じ調子のものだった。

 されど今は、そのひと言に込められた覚悟の質が違う。背負ったものの重みが違う。気づけば観客はみな手に汗握る思いで、真留子の旅を最後まで見届けようという気になっていた。否、誰もがそういう気に


 しかして真留子とロッシの、命を懸けた山越えが始まる。ふたりは互いの体を綱でつなぎ、かんじきを履いた上に即席の杖も用意して、一歩一歩慎重に雪上を進んでいった。ところがあたりは一面の銀世界。目印になりそうなものはすべて雪に埋もれてしまい、ただでさえ土地勘のないふたりの方向感覚を狂わせる。


 おまけに真冬の山中は吐く息で睫毛まつげも凍る寒さだ。

 山小屋を出て一日が過ぎ、二日が過ぎ……時間の経過が照明色の移り変わりで巧みに表現される中、自分たちの今いる場所が正しいルートなのかどうかも分からない真留子とロッシは、ただがむしゃらに歩き続けた。

 そしてとうとう恐れていた事態が起きる。連日の寒さと飢えと疲労に打ちのめされたロッシが途中で力尽き、動けなくなってしまったのである。


「ロッシさん、ロッシさん、しっかりして下さい! 麓はきっともうすぐですよ。私たち、あと少しで助かるんですよ!」

「ああ、マルコ、すまない……僕はもう体が動かないんだ。君と共に行けるのは、ここまでのようだね……」

「そ、そんなのダメです! ほら、頑張って一緒に山を下りましょう! 私が肩を貸しますから。ロッシさんの分の荷物も、代わりに私が背負いますから……!」

「いいや……マルコ。君には病気のお母さんに会いにいくという、大切な使命があるだろう? だからどうか僕のことは置いていってくれ。君まで一緒に命を落とす必要はない……」

「ロッシさん……!」

「さあ……僕の荷物の中から残った食糧を持っておいき。僕にはもう、必要のないものだから……その代わり、マルコ。どうか約束してほしい。僕の分まで生きて、生きて、生き抜いて、君は必ず幸せになるんだ。お母さんを大切に、ね……」


 それがロッシの最後の言葉だった。真留子はついに帰らぬ人となった彼の傍らに膝をつき、さめざめと氷の涙を流す。されどそんな彼女に追い討ちをかけるかのごとく、山の天気は荒れ出した。あたりは再び白い闇に包まれる。

 轟々ごうごうと吹きつける極寒の吹雪の中、真留子はなおも歩き続けた。足を踏ん張り、歯を食い縛って、荒れ狂う風雪の只中にあってなお、前だけを見据えながら。


「アメリカに来てからここまで、たくさんの……本当にたくさんの人たちが私を助けてくれた。だから私は、何があっても諦めない。絶対に……絶対に、もう一度、お母さんに会う日まで……!」


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