2023年8月15日(火)


 路上に打ち捨てるように自転車を降りて、石段を駆け上った。

 暗さのあまり何度か段差につまずきながら、されどなりふり構わず、鳥居の端を抜けるのも忘れてひたすらに走る。そうして辿たどいた天辺で、一度膝に手をついて呼吸を整えながら、滝のごとく滴る汗を腕で払った。全身が燃えているように熱い。

 八月の夜の蒸し暑さと相俟あいまって、肌も肉も溶けそうなくらい、熱い。


 けれども立ち止まっている場合ではなかった。俺はほのかに鉄の味がする喉をごくりとやってから、完全に息が整うのも待たずにまた走り出す。

 この時間だと既に門が閉ざされているのではという不安もあったが、無事に入れた。白木造りの二の鳥居をくぐって、高校時代、何度も通った神明社しんめいしゃへ。


「三年前の……三月十七日……」


 と取り憑かれたようにぶつぶつ言いながら、まるで人気のない境内を突っ切る。

 目指した先は言わずもがな参道を抜けた先、正面にでんと威容を構える本殿ではなく、その脇に逸れた小さな社──益岡天満宮ますおかてんまんぐうだった。

 二週間前、天神様に恨み言を言うために佇んだ場所へもう一度足を向けてみる。

 今にも境内を呑み込まんばかりの真っ黒な雑木林からは、昼間の蝉時雨にも負けない虫々の大合唱が聞こえていたが、今は耳に入らなかった。

 そうしてしばし社と向かい合い、互いに無言で膠着こうちゃくする。いや、ひょっとすると社の方は何か言っているのかもしれないが、生憎あいにく俺の耳には聞こえない。


「……だからを寄越したのか」


 と神に尋ねるつもりで言いながら、俺はほとんど無意識にサコッシュからスマホを取り出した。二週間前この社で見つけた、歩叶あゆかの形見そっくりのスマホを。

 そこにきらめく星屑のカバーを開き、眠っていた画面を点灯させる。

 途端に青い夜空の壁紙が浮かび上がってきたのを認めつつ、俺は端末設定画面を呼び出した。しかしてすっかり慣れた手つきで、端末内日時を二〇二〇年の三月十七日へ設定する。時刻は何時にすべきか分からなかったから、ひとまず変えずに過去カメラを起動してスマホをかざした。


 カメラが映し出した過去は暗い。画面右上のデジタル時計は十八時四十七分を示しているものの、カメラの先にあるのは春先の夕刻だ。

 ということは既に日没を迎えたあとだとしても、時期的に別段おかしくはない。そして俺はその夕闇の中に、スプリングコートをまとった華奢きゃしゃな背中を見つけた。


 ──歩叶。


 見間違えるはずもなかった。

 画面の中の彼女は社に向かって手を合わせ、一心に何事か念じている。

 日記に書かれてあったとおりだった。歩叶は本当に、三年前の三月十七日──中三の俺が想いを告げたのと同じ日に、ここへ来てひとり祈っていた。

 自分のすべてをなげうって、ただ俺の幸福を。


『神様』


 と、刹那、スマホのスピーカーから歩叶のささやごえがする。


『神様。私、この二年間とっても幸せでした。一生分の幸せを、二年の間にぎゅっと詰め込んでもらったみたいでした。だから私はもう大丈夫です。願いごとを叶えて下さって、本当にありがとうございました』


 ──嘘だ。


 画面の中の歩叶の背中に、そう投げつけてやりたかった。

 嘘だ。君は全然大丈夫なんかじゃなかったろ。君だって本当は、人並みの未来と幸せがほしかったんだろ。なのにどうしてそんな陳腐な嘘をついてまで、


『だけど、もうひとつだけ……どうかもうひとつだけ、私のわがままを聞いて下さい。熊谷くまがい先生が……私と優星ゆうせいくんが別れたって話を、まだ信じてくれてないみたいなんです。考えすぎかもしれないけど、このままじゃ本当に、優星くんに何かよくないことが起こるんじゃないかって……毎日毎日、すごく怖くてたまりません。だから、神様……お願いします。私はもう、どうなったって構わないから……今度は代わりに優星くんを守って下さい。お願いします……お願いします──』


 瞬間、スマホから零れた歩叶の涙声がついに俺の正気をさらってしまった。

 いや、あるいは過去が見えるカメラなんてものは幻で、すべては俺の狂気の産物であって、二週間前に神社を訪れたときには既に正気なんてものは持ち合わせていなかったのかもしれない。ああ、むしろそうであってくれた方が俺はどんなに救われるだろう。そう思わずにはいられないほどはっきりと理解した。確信した。


 清沢きよさわ優星という男は、当代まれに見る大馬鹿野郎だと。


 だって歩叶が真っ暗闇の中でひとり泣いている間、俺はどこで何をしていた? ああ、答えは簡単だ。フラれた腹いせに彼女を憎み、報復を模索し、記憶から存在を消してやろうと躍起になっていた。歩叶が泣きながら俺の幸福を祈っている間、俺は俺のことばかり考えて、彼女のことなどひとつも心配しようとしなかった。


 なのに今更、やっぱり歩叶のことが好きだった、なんて寝ぼけたことを言い出して。彼女を救えなかったくせに。救おうともしなかったくせに。

 本当に俺という男はどうしようもない。今、握り締めたシャツの下でドクドクと泣き喚いている心臓をえぐして叩きつけ、粉々になるまでにじってやりたかった。こんなことなら歩叶の代わりに、おまえが死んでしまえばよかったのだ、と。


「消えちまえ、馬鹿野郎……!」


 誰もいない境内で、絞り出すようにそう叫んだ。

 昼からつけっぱなしの眼鏡の内側に、ぼたぼたと涙が落ちて氾濫はんらんする。

 ああ、たぶん、これは罰だ。歩叶を見捨て、助けようともしなかった俺に対する罰なのだ。だから天神様とやらが過去カメラこんなものを俺に掴ませた。

 そう考えればすべての辻褄つじつまが合うような気がする。そもそも過去が見えるカメラなんてものがこの世に存在するはずがないのだから。

 こうまでされれば、さすがの俺も考えを改めざるを得ない。すなわち「いない」と頑なに信じようとしていた神なるものは、実在するのかもしれない、と。


「歩叶……ごめん。俺は──」


 今更謝ったところでもう遅い。そんなものは何の償いにもならないし、彼女にも届かない。頭ではそうと分かっていながら、俺は画面に映る小さな背中に懺悔ざんげせずにはいられなかった。ところが次の瞬間、誰もいないはずの境内に軽快な電子音が鳴り響き、不意をかれた俺はびくりと肩を震わせる。


 その音色はサコッシュに入れたままの、自前のスマホの着信音だった。

 だが俺の意識は突然かかってきた電話よりも、驚きのあまり手放してしまった過去カメラに持ち去られる。とっさに両手で受け止めようとしたが叶わず、手の上で何度か跳ねた過去カメラは、硬い音を立ててあえなく地面に衝突した。


 俺はそれを慌てて拾い上げる。自前のスマホはなお必死に持ち主の気を引こうとしていたが、呼び声は耳に入らなかった。カメラや液晶にひびが入っていないかどうか、暗い中で懸命に確かめる。うつぶせに落ちた画面は砂にまみれてしまっていたので、すぐに手で払い除けた──ところが、だ。


「……え?」


 落下の衝撃を受けたあとも、画面には過去カメラが映し出す三年前の景色が投影されていた。カメラにも液晶にも罅割れはなく、正常に動作している。

 それを確かめてほっとしたのも束の間、砂を払おうと触れた指先の熱を感知して過去カメラが常にない挙動を見せた。映像の中で天満宮に祈り続ける歩叶の背に触れるや否や、にわかに画面が暗転ならぬ明転し、皓々こうこうと輝き出した白背景に080から始まる十一桁の電話番号が表示されたのだ。


 しかも画面の表示とアイコンを見る限り──発信されている。

 つまり勝手に電話がかかり始めたということだ。

 俺は我が目を疑った。そんな馬鹿な。

 過去カメラの電波受信状況は今なお「圏外」を主張しているのに。

 電波なくしてどうやって、どこに電話がかかるというのか。


 さては誤作動かといぶかりながら、試しに受話器を耳に当ててみた。小さなスピーカーの奥からはプルルルル、とごく一般的な電話の呼び出し音がする。

 要するに、通じている。そう悟った瞬間、背筋を冷たいものがなぞった。

 一体何がどうして、どこに向かって発信されているのか分からない。


 けれどこれ以上得体の知れない事態に巻き込まれる前に、情報を遮断しろと本能が叫んだ。今日はとにかく色々なことが起きすぎて、脳が思考することを放棄したのだ。ゆえに俺も本能の警告に従い、パニックに陥る前に電話を切ろうとした。

 が、スマホが耳から離れようとした刹那、プツ、と通話のつながる音がする。


『……もしもし?』


 次いで鼓膜を震わせたのは、不審と緊張をはらんだ少女の声。

 途端に心臓が縮み上がった。動転のあまり息が止まる。


 ──歩叶?


 いや、そんなはずがない。だけど、今の声は、


『もしもし……どなたですか?』


 彼女の日記を読んだときと同じ震えがよみがえり、再びスマホを取り落としてしまいそうだった。脳はやはり躍起になって現実を否定しようとしている。


 されど俺の記憶は知っているのだ。


「あ……歩叶……?」


 そう、受話器から聞こえた硬い声はここ数日、過去カメラを通じて何度も聞いた彼女の声だった。

 ゆえに俺が震える声を絞り出せば、電話の向こうではっと息を呑む気配がする。


「あ、歩叶……なのか?」


 そんなことありえないと分かっているのに、尋ねずにはいられなかった。

 俺の完全なる思い違いならば、即座に否定してほしくて。

 けれど電話を挟んだ両者の間には、しばし気まずい沈黙が落ちる。

 心臓が早鐘を打ち、額からは汗が流れ、ごくりと喉仏が上下した。その一連の事象は果たして何秒の、あるいは何分のうちの出来事だったのか。時間の感覚が消失し、冷え切った指先がしびはじめた頃、不意に境内の闇を震わせていた虫の声がふっつりと途切れた。そうして生まれた静寂に彼女の声が浮かび上がる。


『優星くん──?』


 直前の俺と同じくらい震えた声だった。

 そこに宿った感情は驚きか恐怖か、はたまたもっと別の何かか。

 しかし確かに俺を呼んだ。

 それは俺の投げかけた問いに対する、これ以上ないほど明確な答えだった。

 この電話の先にいるのはやはり、歩叶だ。


「あ、歩叶……俺──」


 そう確信した途端に、俺は口がきけなくなった。こうなったら夢や幻覚でも構わない。とにかく歩叶に伝えたいことがたくさんある。ありすぎる。

 おかげで感情と思考が喉のあたりでせめい、渋滞し、話したいのに声が出ないという奇妙な事態に陥った。無理に喋ろうとすると形のない何かが喉につかえて音にならない。息もできない。苦しさのあまり、またも視界が滲んでくる。


『優星くん……優星くん、だよね?』


 すると今度は歩叶の方から尋ねてきた。

 が、答えようにも声が出ないので、スマホを耳に当てたままこくこくと頷く。

 とはいえこれはビデオ通話ではない。とすると当然歩叶には俺の姿など見えようはずがないから、どんなに頷いたところで伝わるはずがない。

 だのに歩叶はもう一度、今度ははっきりと確信した口調で俺を呼んだ。


『優星くん』


 ──ああ、歩叶。君は知らないだろ。


 俺がこの三年、その声にもう一度名前を呼ばれる日をどれほど待ち望んだか。


 おかげで余計に声が出ない。今にも零れそうになる嗚咽おえつこらえるのに必死で、こんなときまで格好つけたがる自分にうんざりしながら、されど泣いているのをさとられまいと、とっさに腕で口を塞いだ。

 すると電話の向こうから、震えた吐息が微か聞こえる。ひょっとして彼女も泣いているのだろうか。そう胸を衝かれた矢先、歩叶がせきの切れた様子で話し出す。


『優星くん……優星くん、ごめんなさい。私、優星くんのことすごく傷つけた。本当はあんなこと言うつもりじゃなかったのに、他にどう伝えればいいのか分からなくて、取り返しがつかないくらいひどいこと言っちゃった。本当にごめんなさい』


 違う。違うだろ。本当にひどいのは俺の方だ。

 君の気持ちも真実も知ろうとしないで逃げ出した俺の方だ。

 そう伝えたいのに、やはり喉がって声が出ない。だからまたがむしゃらに首を振る。こんなことをしたって伝わらない。伝わらないと分かっているのに、どうして俺はこうも間抜けで知恵も甲斐性もないのだろう。


『あんなこと言ったくせに、馬鹿げてるって分かってる。だけど、私……やっぱり優星くんが好き。世界で一番、大好きだよ。なのにあんな言い方しかできなくて、ごめんなさい……』

「歩叶」


 いいんだ。もう全部分かったから。大丈夫だから。

 だから謝らなくていい。君は何も悪くない。俺の方こそ、謝らせてほしい。

 だって俺も君が好きだ。世界で一番、大好きだ。

 胸の底から猛烈に突き上げてきたその想いが、声帯のあたりに引っかかっていた有象無象を蹴散らして、やっとのことで声が出た。

 けれども俺が次の語を継ぐより早く、嗚咽混じりで君が言う。


『優星くん……会いたい。会いたいよ……』


 ──俺も。


 会えるものなら、今すぐにでも飛んでいきたい。どこへ行けば君に会える?

 後先も考えず、そう尋ねようとした。

 ところが俄然がぜん、耳もとで聞こえていた歩叶の泣き声がぷつりと止んで、代わりにプーッ、プーッという無機質な電子音が虚空を衝く。通話が途切れた。

 歩叶が電話を切ったのか、はたまた俺の指が知らぬ間に画面に触れてしまったのか。そう思いながら焦って画面へ目をやると、想定外の文字が飛び込んできた。


『バッテリー残量がありません。この端末は30秒後にシャットダウンします』


 この野郎。そんな悪態が漏れそうになるのを切歯して堪えた。過去カメラが異様に充電を食うことは分かっていたが、よりにもよって今バッテリー切れを起こすだなんて。俺はまだ何も伝えられていない。もう一度歩叶と話がしたい。

 その想いに突き動かされ、即座に身をひるがえした。

 走り出した背中を、じっと佇む天満宮に見送られながら。

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