2023年8月13日(日)


 白石川しろいしがわ沿いの河川敷に広がる緑地公園は、公園の名こそ冠しているものの、遊具や噴水を完備した子どもたちの憩いの場──では決してない。

 だだっ広い敷地にあるのは野球場に陸上競技場、そしてゲートボール場。

 すなわち公園と言うよりは、屋外運動場と表した方がしっくりくるていの場所だ。


 俺も確か中学の頃に、全校を挙げた持久走大会で嫌々ながらも公園内をぐるりと走った記憶がある。そうした用途で使われることからも分かるとおり、敷地の大半は芝生やグラウンドとして整備された土地であるものの、すぐそこを流れる川の景観と相俟あいまって、自然豊かと形容して差し支えない公園だった。


 まあ、白石ここでは逆に自然豊かでない場所を探す方が困難だろうと言われれば否定するべくもないのだが、そんな白石川緑地公園が今夜の花火大会の舞台となる。

 運動場として土地がならされているおかげで遮蔽物が少ない公園は、花火大会の会場として打ってつけなのだ。時刻はもうすぐ十九時を回る頃。

 商店街のパレードから流れてきた人も多いのだろう、大勢の見物客でごった返す河川敷で、俺はスマホを片手にうろうろと人混みの中をさまよっていた。


 無論、手にしているのは自前のスマホではない。神明社しんめいしゃで拾ってきた過去カメラ搭載のあのスマホだ。端末内時刻は二〇一九年八月十一日、十八時四十二分。

 四年前のこの場所で、花火大会が開かれた日時だった。

 思えば俺は日頃日記をつけているわけではないし、SNSも友人とのやりとりに使うのみ。愚にもつかないひとりごとをタイムラインに垂れ流してみたり、どこにでもある日常のひとコマを写真として切り取って、ウェブ上で見せびらかしてみたり……という行為にも生憎あいにく興じたことがない。


 だから何年前の何月何日にどこで何をしていたかなんて大抵忘れてしまっているし、記憶をさかのぼるためのよすがさえ持ち合わせていない、というのが実情だった。

 おかげでせっかく手に入れた過去を覗くカメラも、ほとんど宝の持ち腐れだ。

 こいつを使って忘れてしまった思い出を手繰たぐろうにも、肝心の思い出の在処ありかが分からないという始末なのだから。


 かと言って俺は残念ながら、見も知らぬ他人の過去を盗撮して悦に入るたちではない。ならばと俺が巣立ったあとの家族の様子を覗き見ることも検討したものの、白状すると、実はそれにもさしたる興味がない。何しろひとり暮らしを始めたからと言って、家族とまったくの疎遠になっていたわけではないし、俺ひとりが欠けたところで実家の何が変わるわけでもないことは既に承知の事実だからだ。


 強いて言うなら先日霊山へと旅立った祖母の生きた姿を見られるのは悪くないものの、だからと言って写真に収めてみたところで故人がよみがえるわけでもなし。むしろ画面の中では確かに生きている祖母が、スマホを閉じてみるとどこにもいないという現実に言いようのない寂寞せきばくを覚えて、俺は実家でカメラを構えるのをやめた。


 代わりにひとつ、試してみようと思い立ったことがある。

 それが今日、花火大会の会場で、こうしてカメラを回してみることだ。そこに映る四年前の光景は、目下俺が眼鏡を通して見る現在と大して変わらなかった。

 普段は公園内の車道として使われる砂利道にいくつも並んだ祭の屋台と、道行く人々を真っ白に漂白してやらんと言わんばかりのまぶしさで夜道を照らす投光器。

 そうした屋台に群がる人々。そして、喧騒。


 現在俺はスマホのイヤホンジャックに差し込んだ有線イヤホンを右耳にだけ装着しているのだが、何重にも重なった人の声はもはや過去の映像から聞こえているのか、はたまた俺の左耳が直接聞いているものなのか、まるで区別がつかなかった。


 おまけに屋台から放出される照明や調理器具の熱気も手伝って、あたりはとんでもない炎威に包まれている。確か四年前の俺もまた、会場の異様な暑さと騒がしさに辟易しながら、されどあらががたいまでに食欲を刺激する焼きそばや炭火焼きのにおいに誘われて、色とりどりの浴衣の狭間に立ち尽くしていたはずだった。


 そんな朧気おぼろげな記憶だけを頼りに、当時の痕跡を探してみる。見つかるわけがないと本心では自分を嘲笑いながら、しかし一縷いちるの望みに賭けて。

 何しろ四年前のこの日以外に、日付や時間までしっかり覚えている記憶というのが俺にはない。否、より正確には、日付は四年前の花火大会の日程をネットで検索して割り出したものだし、時間も今年の開催時刻に合わせて来れば、恐らく四年前とそう誤差もあるまいと当たりをつけてきたにすぎない。

 それ以外の記憶は日付こそぼんやり思い出せるものの、時刻までは覚えていないというのがほとんどだ。だからこの日を置いて他にはない。


 かつて確かに生きていた歩叶あゆかの姿をとらえられるかもしれない瞬間は。


『──優星ゆうせいくん!』


 刹那、不意に右耳から聞こえた呼び声が、臆病者の心臓を縮み上がらせた。これほどの喧騒の中にありながらその声は、何ものにもまぎれることなく俺を呼ぶ。


『優星くん、こっちこっち!』


 ああ、いっそ聞き間違いかユウセイ違いであればいいのに。他でもないこの声を探し回っていたくせに、まったく矛盾した感情が余計に胸を騒がせた。

 けれども俺は知っているのだ。演劇部の役者として、何度も舞台で稽古をつけた歩叶の声はよく通る。雲ひとつなく澄み切った秋の朝を思わせるほどに冴え渡り、同時に確固たる自己のようなものを感じさせる軽やかな響き。

 神明社の境内で、三年ぶりに聞いたときには動転していて気づかなかった。

 しかし今、気づいてしまったからには認めざるを得ない。ああ、正直に言おう。


 俺はこの声にもう一度名前を呼ばれる日を、ずっと待ち望んでいたのだ、と。


『ああ、やっと見つけた』


 と、耳の穴に押し込まれたイヤホンから、今度は俺の声がする。が、カメラを周囲に巡らせてみても、当時の俺の姿はどこにもない。代わりに足もとを映してみれば、そこには紺地に白い波模様が泳ぐ甚平のすそと、黒い鼻緒を引っかけた足。

 言うまでもなく四年前の八月十一日、歩叶と花火大会を見に行った日の俺の装いだった。それを認めて顔を上げれば、次いで画面に飛び込んできたのは鮮やかな蜂蜜色。振られて蝶のように舞うそでには、淡い色調で描かれた朝顔が咲いている。


 その袖を押さえながら笑っているのは、編んで結い上げた黒髪に、ちりちり瞬く星のかんざしを挿した歩叶だった。

 途端にぼやけていた当時の記憶が、はっきりと輪郭を取り戻す。

 そうだ。あの日、俺と歩叶はふたりでここへ来て、陸上競技場の芝生の上にいち早く席を取ったあと、ふた手に分かれて別々の屋台に並んだのだった。


 確か俺は焼き鳥とたこ焼き担当、歩叶はかき氷担当だったはずだ。

 で、俺の方が先にお目当ての品を手に入れて、歩叶が並んでいるはずのかき氷の屋台を探して歩き回った。ひょっとしたら歩叶の方が先に買い物を終えて、安いレジャーシートでこしらえた特等席に戻っているかもしれない、なんて思いながらも、人混みを必死に掻き分けて歩いたのを覚えている。


 何しろ歩叶がまだかき氷を求めてやまない群衆に揉まれているなら、それをほったらかして先に戻ってしまうのは、何だか男として忍びなかった。だから引き返す前に屋台の前まで行って、歩叶が列にいないことを確認しておこうと思ったのだ。


 そうしたら案の定、歩叶はいた。画面の中で手を振る彼女の前には、まだ四人も順番待ちの客がいる。ゆえに俺も列に加わって、一緒に待つことにしたのだっけ。

 そう思いながらスマホを下ろし、試しに顔を上げてみたら、そこには青地に赤々と大書された「かき氷」の文字はなかった。代わりにあるのはからし色の暖簾のれんの下で、濛々もうもうと湯気を上げる玉こんにゃくの鍋ばかり。


『早かったね、優星くん。絶対焼き鳥の方が時間かかると思ったのに』

『いや、あっちはあんまり並んでなかったよ。先に商店街の方を回ってきた人たちは、向こうで色々食べたあとなんじゃないかな』

『あー、そっか。だからデザート系の屋台の方が人気なんだ。クレープ屋さんの前もすごい行列だったし……』

『クレープはいちいち生地を焼かなきゃいけないから、時間かかるよなあ』

『うん。ほんとはちょっと、チョコバナナも食べたかったけど……向こうにまで並んでたらさすがに花火始まっちゃうから、我慢我慢』

『じゃあ、花火が終わったあとに寄る?』

『んー、でもああいうのって、花火を見ながら食べるからおいしいんだと思う』

『はは、そういうもん?』

『そういうものです』


 そうこうするうちにもイヤホンからは、嫌になるほどなつかしい会話が聞こえてくる。俺はそれをもっと聞くために、ついに両耳をイヤホンで塞いで、さして食べたくもない玉こんにゃくの列に並んだ。


 会場の様子を撮影するふりをしてかざしたスマホには、俺に背中を向けた歩叶の横顔が映り込んでいる。しかしどういうわけだか、彼女が笑いかける先に当時の俺の姿はなかった。まるであの頃の俺の方が幻だったみたいに。


『あ、そう言えばね、さっきそこで石本いしもとさんに会ったよ』

『石本、って……ああ、中三のとき同じクラスだった?』

『そう。石本さんも高校の友達と一緒に見に来たんだって。で、歩叶ちゃんは誰と一緒に来たの、ってかれて……つい、優星くん、って答えちゃった』

『えっ。ひょっとして俺と付き合ってること、言ったの?』

『う、うん……ごめん。中学の頃の知り合いに知られるのが嫌って言ってたの、私なのに……』

『いや、歩叶が気にしないなら、俺は別にいいけど。ていうか、最初から知り合いに会うの覚悟で来たようなもんだしね』

『うん……でも、やっぱり今年も仙台の花火大会にしとけばよかったかなあ』

『そんなに嫌? 中学のときの知り合いに見られるの』

『ううん。ただ、私のせいで優星くんまで変な目で見られないかなって……それが嫌なの』

『ああ……なんだ、そんなこと気にしてたのか』

『気にするよ! だって私、中学の頃の知り合いには今もメンヘラストーカー女って思われてるかもしれないんだよ? そのせいで優星くんまでおかしい人みたいに噂されたらと思うと……』

『なわけないじゃん。あんな噂、もうみんなとっくに忘れてるよ。そもそも歩叶はそういうのじゃないし、中学のときだってみんなからかって言ってただけだろ?』

『そう、なのかな……』

『絶対そうだって。仮に本気にしてたやつがいるとしても、そいつに何か言われたところで俺は全然気になんないし』

『……本当に?』

『ああ。だって誰になんて言われようが俺は俺で、歩叶は歩叶だろ』

『私は……私?』

『そ。何の罪も犯してないのに〝あいつは犯罪者だ〟って言われたところで、別に本当に捕まるわけじゃないんだし。だったら堂々としてればいいんだよ。やましいことなんか何にもないんだから』


 ところが高二の俺が取り澄ました口調でそんな風にうそぶくものだから、現在の俺は何やら無性にいたたまれなくなってきた。

 何が「やましいことなんか何にもない」だ。あの頃の俺はむしろやましさが人の皮を被って、悪びれもせず清沢きよさわ優星ゆうせいを名乗っていたようなものではないか。


 そう、つまり俺は本心では、当時の俺たちを知る者に、歩叶と付き合っていることを自慢したくてたまらない気持ちだった。だからこのときも、歩叶がついに俺たちの関係を周囲に言い触らしたと聞いて内心では浮かれていたのだ。

 だのに口ではよっぽど格好つけて、恥ずかしげもなく大人ぶった台詞を並べ立てているのだから、我ながら詐欺師だなと思う。


 けれども歩叶は俺のあさましい虚栄を果たしてどう受け取ったのか、それきり何も言わずに黙りこくると、不意に指を絡めてきた。そうしてぎゅっと握り込まれた彼女の指の、しっとりと湿った感触を、今ならはっきりと思い出せる。


『歩叶?』

『……あのね、優星くん。私──』


 そう言えばあのとき、歩叶は俺の手を握る指先に決然と力を込めて、確かに何か言いかけた。ところが直後、目の前の屋台から俺たちを呼ぶ声が上がって、会話は中断されてしまったのだ。気づけば前に並んでいた客は皆いなくなり、次は俺たちがいちご色やメロン色に化粧した夏氷を受け取る番だった。


 それに気づいた歩叶がはっと顔を上げ、さっきまで何か言いかけていたのを忘れたように俺を急かす。いつもの笑顔といつもの声で。

 だけど当時の俺も気がついていた。直前、懺悔ざんげの前の祈りのように俺の名を呼んだ歩叶の声が、微か震えていたことに。


「お次のお客様どうぞー」


 結局あの日、歩叶は俺に何を伝えようとしていたのだろう。今となっては知るべくもない答えを探しながら、画面の中でピンク色に染まったかき氷を受け取る歩叶の横顔に見入っていたら、現実の呼び声が俺を過去ゆめから連れ戻した。


 気づけば玉こんにゃくの屋台は目の前で、白い湯気が暖簾の下の売り子の顔をほとんど隠してしまっている。今夜も扇風機の助けなしではよほど寝苦しいだろうと予感されるこの熱帯夜に、地獄の釜のごとき気炎を吐き出す大鍋を見て後込みしながら、しかし今更きびすを返すわけにもいかない俺はあえなく百円を支払った。


 かくて白銅硬貨一枚と引き換えに手渡された発泡スチロール製のトレーを片手に屋台を離れる蜂蜜色の浴衣を追いかける。ついて行った先は言わずもがな、一夜限りの観覧席へと早変わりした陸上競技場の芝の上だった。画面の中でも外でも、あたりは既にレジャーシートやアウトドアチェアで埋め尽くされている。足もとをよく見て歩かないと誰かの靴やら荷物やら、果ては足まで踏んづけてしまいそうだ。


 ところが無秩序という言葉が寸分の狂いなく体現されたような景色の中、俺がなおも歩叶の背中を追っていくと、やがて彼女がチェック柄のポリエチレンに腰を下ろした。ちょうど競技場の真ん中あたりに広げられた玉こんにゃくと同じ値段のレジャーシートは、高校生ふたりが並んで座るともう窮屈そうだ。


 けれども確か当時の俺は、その方が隣に腰を下ろした歩叶との距離が近いからとまったく無邪気な下心まえむきさを発揮して、得した気分になっていた気がする。さて、しかし二〇二三年現在の俺はと言えば、とにかくここへ来て四年前の痕跡を探すことにばかり気を取られて、座席代わりのシートも何も用意してこなかった。


 というかそもそも、既にこれだけの人で埋め尽くされた会場で、過去の俺たちが座った場所にそう都合よく陣取れるわけがない。

 そう弱り果ててスマホを下ろしたところで目を丸くした。

 何故なら俺がカメラを向けた先には、まるで誰かが仕組んだのではないかと疑いたくなるほどぽっかりと、無人の空間が口を開けていたから。


「では、打ち上げの前に市民の皆様へ、白石夏まつり実行委員長よりご挨拶をさせていただきます──」


 と、どこか遠くのスピーカーから知らない誰かの声がする。俺はそれを聞くともなしに聞きながら、人々の熱気と喧騒の狭間に取り残された空白へ腰を下ろした。


「えー、皆様、どうもおばんでございます。市の財政と担い手の減少により開催が危ぶまれておりました白石夏まつりですが、今年も皆様の温かいご支援の下、こうして無事開催の運びとなりました。えー、ですのでまずはこの場をお借りして、市民の皆様のご理解とご協力に、厚く御礼申し上げます──」


 ほとんど周囲の談笑とハウリングに掻き消されそうになっている、しわがれた実行委員長の声はやはり遠い。

 俺は両耳に差し込んだままのイヤホンを改めて押し込みながら、カーキ色のカーゴパンツの生地越しに、川辺の水気を吸った土と芝の湿り気を感じていた。


「実行委員長、ありがとうございました。それではいよいよ皆様お待ちかねの、打ち上げの時刻となります──」


 明らかに会場の人出と釣り合っていない拍手がぱらぱらと鳴ったあと、無視され続けた実行委員のアナウンスがようやく人々の耳目を掴む。

 直前までスピーカーから流れる音声にはまったく興味を示していなかったはずの群衆が「打ち上げ」の四字を聞くや否やにわかに熱狂し始めた。


「皆様、どうぞご一緒にカウントダウンをお願い致します! では早速参りましょう! 十、九、八、七──」

『優星くん』


 ああ、やっぱり何もかも、ありる隙もないほど完璧に仕組まれたような気分だ。だってそうでなければ、イヤホンから聞こえる四年前のカウントダウンと、現在のそれがぴたりと重なるなんて偶然が起こり得るだろうか。


 会場の熱気に浮かされた歩叶が俺を呼ぶ。もはや画面を覗かずとも、こちらを振り向いたのだと分かる。すべては過去の幻だと、そう言い聞かせる俺の右手に、彼女の指先が不意に触れた、ような気がした。


「五、四、三、二、一──ゼロ!」


 喝采。歓声。

 空から降ってくるはずなのに、地の底から突き上げるような破裂音。

 そのすべてが同時に夜空で弾けて、七色の光の雨となり、俺たちの頭上へ降り注いだ。雷太鼓というものが実在するのなら、きっとこんな音色でとどろくのだろうと思うほどの大音響が奏でられるたび、地上からは拍手やはしゃぎ声が上がっている。

 俺は次々と飛び散る光が眼鏡に反射するのを感じながら、燐光りんこう瞬く夜空を見上げて、ひとり、四年前の歓声を聞いていた。


『わあ~! 綺麗だね、優星くん!』


 夜空を埋め尽くす──と形容するにはいささか足りないテンポと大きさで、ぽつぽつと上がるひなびた花火。

 まあ、田舎の花火大会なんてこんなものだよなと内心苦笑していた当時の俺は、青いシロップのかかった氷の山を崩しながら生意気に言った。


『でも、やっぱ仙台の花火と比べると物足りないよね』

『あー、うん。さすがにあれとは規模が違いすぎるかなあ。でも去年、仙台まで見に行ったときは人出がすごすぎて花火どころじゃなかったじゃない? 会場に辿たどくのもひと苦労だった上に、どこに行ってももみくちゃにされて……』

『はは、確かに。一時間も早く行ったのにあの状態だったもんなあ』

『うん。だから今年もあんなひどい思いするくらいなら、地元の花火大会でいいかなって思ったの。知ってる人に会うのはちょっぴり恥ずかしいけど、途中で優星くんとはぐれる心配もないし……』


 そうだった。そう言えば五年前、背伸びして仙台の七夕前夜祭を見に行ったときには、帰りの人混みで歩叶とはぐれてひどい目に遭ったんだっけ。田舎育ちで会場周辺の土地勘もなかった俺たちは、白石の人口なんて軽く呑み込んでしまうほどの人出に目を回し、帰りの電車を一本逃して、親にこっぴどく叱られたのだった。


 でも、そんな失敗談も今となってはいい思い出だ。

 なつかしい会話に耳を澄ましていると、不思議とそう思えてくる。

 つい二週間前までは思い出すことすらひどく嫌って、パンドラの箱の奥深くに封じ込め、決して開けてはならないと戒めていたくせに。


 まったく現金で虫のいい男だと、いっそ画面の中の彼女が呆れてくれでもすれば踏ん切りがつくのだろうが、過去カメラが映し出す四年前の歩叶の横顔は少しも俺を責めてはくれない。むしろ思わず触れたくなるような笑みを浮かべて、


『何より私、やっぱり白石が好きだから』

『え、こんな何にもないとこが?』

『うん。だってこの町は、私と優星くんを出会わせてくれた大切な場所だもの。だから白石の花火大会も、少子化とかで開催されなくなっちゃう前にちゃんと見ておきたかったの。優星くんとふたりで、ね』


 咲いては散り、咲いては散りを繰り返す花火の音の狭間にあって、されど歩叶の声はやはりどこまでも玲瓏れいろうと俺の鼓膜を震わせた。


『ねえ、優星くん。私ね。優星くんと出会ってなかったら、きっと今、こんな風に笑えてなかったんじゃないかなって思うんだ。中学のとき、みんなからかってるだけだよって言われても……やっぱり、危ないストーカー女って言われて避けられるのはつらかったから』


 と、歩叶がすっかり溶け始めたかき氷を見つめて呟く間にも花は咲く。


『そもそも私が演劇を始めたのは、なのに……これじゃ逆効果だって、やっぱり私は普通じゃないんだって落ち込んでた。でもあの日キューブで、優星くんが何でもないみたいに話しかけてくれて……そのあと、噂を知っても変わらずに接してくれたのがほんとにほんとに嬉しかったの。だからね──ありがとう、優星くん。大好き』


 刹那、金色に閃く雪のように降り注ぎながら、万雷の拍手に似た響きを奏でた花火は名をなんというのだっけ。

 そいつに照らされてはにかんだ歩叶の顔が、今も網膜に焼きついている。

 舞台の上では、どんな歯の浮くような台詞だって平然とそらんじてみせた彼女が。

 あの瞬間、頬を染めてへたくそに笑ってみせたのが、俺はどうしようもなく照れ臭くて、いたたまれなくて、泣きたいくらい嬉しかった。


 ああ、今になってやっと言える。


 歩叶、俺も君が大好きだった。


 平凡で何の取り柄もない俺を、まるでヒーローみたいに慕ってくれた君が。

 だけど俺は、本物のヒーローにはなれなかった。だって君を守れなかったんだから。それどころか今の今まで、三年もその現実から逃げ回って。

 やっぱり君のことが好きだったと、認める勇気さえ持てなかった。


 なのにこんなの今更だよな。

 今更泣いて謝ったって、もう遅いよな。頭ではそう分かっているのに、涙が溢れて止まらない。ああ、こうなる予感に従ってよかった。そう思いながら俺は眼鏡をはずし、ぐしょ濡れになった顔面を黒いシャツの肩で拭った。

 コンタクトをめたままで来ていたら、きっと大惨事になっていたことだろう。


 あの日の歩叶を輝かせていたのと同じ、虹色の光が今も咲く。

 歓声を上げる地上の人々はみんな夜空のキャンバスに釘づけだ。

 ただひとり俺だけが、彼女がもうどこにもいないことに気づかず咲き続ける大輪を許せないままそこにいる。うなだれて膝を抱えながら、イヤホンから漏れ聞こえる彼女の笑い声だけをよすがに。


「以上を持ちまして、白石夏まつり二〇二三は終了となります。大変にありがとうございました!」


 やがて腕時計の表示が二十時を過ぎた頃、花火の打ち上げ終了を告げるアナウンスが響き渡り、会場から最後の拍手が上がった。

 白石の年間行事の中で、文字どおり最も華のあるイベントを堪能し尽くした人々は、賑やかに笑い交わしながら三々五々帰り始める。


 ……俺もそろそろ行かないと。


 まるでそこだけ切り取られたみたいにぽっかり開いた空白の中、泣き疲れた俺がようよう重い腰を上げた頃には、スマホの電池が切れていた。

 どうも過去カメラはその驚異の力ゆえか、起動しているだけで相当のバッテリーを食うらしく、フル充電して臨んでも一時間程度しか電池が持たない。


 とは言えこれ以上過去を追い回したところでせんがないから、今夜は帰ることにしよう。未だピンピンしている自前のスマホでゆいと連絡を取らなくては。

 しかし男泣きに泣いたあとで、妹と再び対面しなければならないというのは少々ばつが悪い。さすがに花火大会が終盤を迎える頃にはたかぶっていた感情もいくらか落ち着いて、身も心も平静に戻ったつもりでいるのだがどうだろう。


 まあ、白石は自然が多いことと水がうまいこと、そして街灯が少ないことが売りの町だ。その恩恵にあずかれば、多少目が腫れていたところで何とかうまく誤魔化せるだろう。そう腹をくくって踵を返し、いよいよ俺も帰宅の途に就く人波に乗って歩き出そうとした、直後だった。


「──清沢くん?」


 と突然、くるりと背を向けかけた方角から声がする。「え?」と思って振り向くと、そこには仲良く肩を並べたふたり分の人影があった。

 相手の顔は照明が遠いせいでよく見えない。

 けれども俺の苗字を呼んだ声は、確かに女の声だった。

 が、何やら記憶に引っかかる呼び声にますます目を凝らそうと思ったら、今度は背の高い方の影がひょいと気安く手を挙げて、


「おおっ、ユーセー! マジでユーセーじゃん! 何、おまえも来てたの?」


 と、酔っ払っているのかと眉をひそめたくなるような奇声を発する。

 しかしこのやや調子っぱずれで甲高く、遠慮というものを知らない声色には、俺も嫌というほど覚えがあった。


「……のぞむ? おまえ、望か? なんでここにいるんだ? おまえ、今年は白石には帰らないって、こないだLINEで……」


 と、俺が東京にいるはずの、かれこれ十年来の付き合いになる悪友に尋ねかけたとき、ようやく花火のあとの暗闇に慣れた両の眼が、もうひとつの影の正体を判別した。髪の色こそ明るくなっているものの、化粧っ気のない二重瞼ふたえまぶたと、主張の小さい鼻には見覚えがある。他でもない、かつて歩叶と互いを「親友」と呼び合っていた同級生──横山よこやま安里子ありこだ。


「あ、え……もしかして、横山さん?」


 と、俺が半ば呆気に取られながら誰何すいかすれば、小柄な彼女はやはり見覚えのある仕草で鼻を掻きながら頷いた。されど途端に俺の心臓が、地上の何ものにもたとがたい、不穏な軋みを上げたことは言うまでもない。


 何故なら横山は三年前、俺に彼女の死を知らせてきた最初の人物だ。


 ──平城ひらき歩叶あゆかが殺された、と。

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