第24話 鉄拳の女王と無敗の帝王・後

ハーゲンの蹴りを後ろに跳ぶことで威力を殺して受け、マリアは吹き飛びながらくるりと体を回転させた。

リング際まで飛ばされたところで膝を曲げ、結界を足場にして飛び跳ねる。

その反動だけで結界が魔力の発光現象を起こすほどの脚力での前進は、さながら砲弾じみた威力となってハーゲンを襲った。

しかし直線の読みやすい動きを、ハーゲンは斜め後ろへ一歩下がっただけで避けてしまう。

マリアもそれは読んでいた。着地し床の上を滑るように移動して、側転の要領でハーゲンの頭へ蹴りを放つ。

上体を逸らしてそれを避けたハーゲンは、体勢を整えるために足を大きく開いて姿勢を低くし、そのまま床をとんと蹴った。

蹴りを放った慣性で少し離れた場所に移動していたマリアへ一瞬で近寄り、ハーゲンはアッパーを放つ。

拳が纏う風圧だけで、まるで猛獣が短く唸った時のような音が出るほどの攻撃だ。

マリアはそれを避けず、僅かに体を斜めにし、相手の手の甲を狙ってこちらも殴りかかった。

ハーゲンの右手が威力を殺され、軌道を逸らされる。

代わりにマリアは、意識の外から放たれた左手での、脇腹への掌底をもろに食らった。

体内へ伝わった衝撃で内臓が傷付く。マリアは反射的に痛む個所を庇いそうになる体の動きを理性で制御し、後ろへと飛んだ。

一旦二人の間にできた距離は、どちらかがその気になれば一瞬で詰められる程度のものだ。


ほんの数秒間のうちに幾度もの攻防が行われる濃密な戦いは、かれこれ5分ほど続いていた。

これを長いと捉えるか短いと捉えるかは人によって違うだろうが、マリアはとんでもなく長い時間ハーゲンと闘っているような感覚に陥っている。

これほど深い集中を続けることは、彼女にとって初めての体験だったからだ。

傷は幾度も負わされたが、今までと違い、マリアの攻撃もハーゲンへ当たることが増えた。

けれども、それだけだ。当たるだけで決定打にはならない。

スピードはついていけない程ではない。痛みも何とか我慢できる。

彼我の力量差は確かに縮まりつつあるが、マリアの体感では、やはり自分のほうが押されていた。

マリアは決して歴戦の戦士と言えるような人間ではないが、こうして戦っていれば、見えてくるものもある。

ハーゲンは、戦いというものを心底楽しんでいる。自分と違って。

マリアにはそれがひしひしと伝わっていた。


例えば相手に攻撃を避けられた瞬間や、自分が攻撃を避け切れなかった瞬間、予想外の動きに対処し損ねてダメージを受けたその時、マリアであれば、しまった、と思う。

けれどハーゲンの場合はきっとこう思っていることだろう。

そうきたか、面白い。と。

あまりにも戦いに対する受け止め方が違う。

膠着状態の中でどうにか起死回生の策を練ろうと必死になっている自分と違い、ハーゲンはただこの時を楽しんで、そのうえで自分から戦況を変える手を打つか、それとも相手がどんな手段に出るか観察するか、どちらのほうが楽しいだろうかと悩んでいる。

先程からハーゲンは様々な技をマリアへ見せているが、それもマリアがハーゲンの動きを見て吸収し、対応してくることを楽しんでのことだろう。

ここまで追いついたのに、まるで互角のような戦いをしているのに、まだ足りない。

まだこの男に勝てる気がしない。

この期に及んで、己はまだ弱い!


まるで生まれながらの王のようなハーゲンを見ていると、マリアは試合中だというのに泣きたくなってくる。

いま無敗の帝王と闘っている女王マリアを見て、弱いと言う人間はそうそう居ないだろう。

しかしマリア本人からすれば、自分は誰よりも弱者だと思えた。

魔力の量や腕力の問題ではない。精神の問題だ。

これまで戦ってきた相手や、チームメイトや敵チームの選手たちは、皆自身の前に立ちはだかる敵を倒そうという意志を持っていた。

自らが生きていくために、闘争という手段を選ぶことに躊躇が無かった。

マリアとてこの試合に負けたくないと、勝ちたいと思って挑んでいる。

けれど、それは所詮望みであって決意ではないのだと、マリアは目の前の男に思い知らされた。

勝ちたいと願いを持つこと、勝てますようにと祈ること、それらは必ず勝つという決意とは全く違うものなのだ。

マリアには帝王の持つ技術を見て体得することはできても、その不屈の精神に追いつくことができない。

どこまで行っても情けなさの残る自分自身への苛立ちをぶつけるように、マリアは拳を振り抜いた。


ハーゲンはそれを受け止め、反撃でマリアをリング際まで投げ飛ばしながら、逸る心をどうにか堪えた。

彼はこの戦いが始まってからというもの、楽しくて楽しくて仕方がない。

例えば重心の移動のさせ方や、魔力の込め方、体捌き、視線だけでの僅かなフェイント。そんな些細な動きさえ、見せれば見せただけマリアは学習し、さらに強くなっていく。

時間が進むにつれてお互いの魔力量も体力も落ちていってはいるが、魔力による力場の作り方を覚えて反撃を開始した時よりも、いまこの時のマリアのほうが強いとハーゲンには断言できた。

尋常ではない速度で成長していく彼女に引きずられるように、ハーゲンもまた己の力が高まっているのを感じている。

強敵との戦いによる興奮や集中力の増加が、動きのキレや思考速度に影響を与えているのだ。

ハーゲンは常にコンディションを整えて試合に臨んでいるが、こんなにも調子が良いと感じたのは初めてのことだった。


マリアにとっては全く予想外のことだが、ハーゲンはマリアをとても尊敬している。

この世界において王に最も求められるものは強さだが、それでもハーゲンのように一介の兵士から帝王になるというのは、かなり珍しい部類だ。

戦いが本業ということは変わらなくとも、仕事の種類も付き合う人間も、生きる環境も激変する。

煌びやかで息苦しい権力者という立場になり、慣れない公務に日々四苦八苦しているハーゲンは、苦手なことをする辛さというものを身に染みて理解していた。

だからこそ、王族という立場に生まれ、幼いころから人の上に立つものとして相応しい教養を身に着け、突然の女王即位にも神前試合選手への抜擢にも怯まずくじけず、立派に勤めを果たしているマリアが眩しく見えるのだ。

まあ実態はちょっと違うのだが、とにかくハーゲンの目にはマリアが、素晴らしく強いだけでなく、人間として立派な存在に見えていた。

ハーゲンにとってこの戦いが楽しいのは、マリアが強いからということもあるが、尊敬する相手と戦えるからでもある。


しかし、自分がどんなに楽しいとしても、相手にとっては苦痛に他ならないだろう。

それがわかっているからこそ、楽しいけれど心苦しい。

いつまでも続けていたいと我儘を言うわけにもいかないのだから、いつかは終わらせる必要がある。

ハーゲンはそれを、体力や魔力の限界などという、つまらないもので迎える気にはならなかった。

いや、限界まで消耗した後の、最後の力を振り絞るような戦いというのもそれはそれで楽しいのだけれど、この女王相手にそれはいじめのようなものだろう。

だからハーゲンは、そろそろ決着をつけることにした。


体を駆け巡る魔力量がもう一段上がり、纏っている魔力の鎧の明度が上がる。神々しささえ感じさせる青白い光は、周囲に火花を散らすことなく完全にハーゲンを覆っており、莫大な魔力を彼自身が制御しきっていることを表していた。

対戦相手がラストスパートをかける気になったのを察して、マリアもまた、自分の中のギアを一段上げる。

ハーゲンよりは魔力制御に難のある魔力の鎧は、それでも彼に匹敵するほどの高密度だ。

先程知ったばかりの技術だというのに、もう使いこなしていると言って良いマリアの様子に、ハーゲンは思わず苦笑した。

己が30年近くかけてたどり着いたこの場所へ、この子は今日たどり着いた。

そのなんと悔しいことか。

そのなんと、いとおしいことか。


戦いというものは、敵がいなければ成立しない行為だ。

だからハーゲンは強敵に出会うと、この世の全てに感謝したくなる。

必死で磨き上げてきた己の何もかもが無駄ではなかったのだと、報われたような気分になるからだ。

ぎちりと音が鳴るほど強く拳を握り締め、それから少し、ふっと力を抜く。力み過ぎて体をうまく使えない、などという失敗をハーゲンは犯さない。

戦いの興奮や緊張の中であろうと、どこで力を籠め、どこで抜くのか、最適解を理解して己を制御できることが、幾多の戦士を打ち破ってきたハーゲンの強みだ。

一呼吸のあと、示し合わせたように同じタイミングで、ハーゲンとマリアの足が床を蹴る。

一瞬で間合いを詰め、床を踏み締め、体を捻って拳を振るう。

お互いリーチの差で優位を取ろうだとか、体の小ささを利用して回避しようだとか、そんなことは一片も考えていなかった。

狙うのは頭でも胴体でもない。

突き出された拳だけだ。


巨大な力が真正面からぶつかり合い、発生した衝撃波がお互いの体に叩きつけられる。

拳の骨が砕け、腕が折れ、体中がダメージを負い、それが一瞬で治っていく。

これでもまだ倒れないのかと、ハーゲンは嘆息した。頑丈すぎるというのも考えものだ。

二人はぐっと眉間にしわを寄せ、厳しい視線をお互いへ向けている。

睨み合っているわけではない。先程の衝撃波で一度眼球が破裂し再生したため、一旦視界が滅茶苦茶になってから回復した違和感に、思わず顔をしかめているのだ。

ハーゲンも消耗していたが、マリアのそれは見て取れるほどに深刻だった。

冷や汗を流し、震える息を吐く少女に、ハーゲンは素直に同情をしてしまう。

全身が一度砕かれて治る感覚などというものは、神前試合という特殊な環境でなければまず間違いなく一生味わわずに済むものだ。

ここに上がると、今までの人生で経験したことのない、それこそ即死レベルの怪我の痛みというものを嫌というほど知る羽目になる。

正直言えばハーゲンだって、普通に怖いし嫌だ。それを我慢できているのは、ひとえに戦いへかける情熱のおかげだ。

いままで戦いとは無縁だった、そしてそれを好いていない人間がこんな体験を何度もするのは、さぞつらいだろう。


「……きみのためには、早く終わらせたほうがいいと思ったんだがな」


だからハーゲンがこう言ったのは、彼の純粋な優しさゆえの気遣いだったのだ。

その一言で、目の前の少女が顔色を一層白くし、その目に絶望と言ってもいい色を滲ませるなんて、ハーゲンは思ってもみなかった。

そしてそんな反応をしたマリアもまた、自分が相手の一言にここまで傷付くとは、思ってもみなかった。

早く終わらせたほうがいい。

いろいろな意味で、それはその通りだ。

マリアは戦いが嫌いだ。

痛いのも嫌いだ。

大勢の前で何かするのも好きじゃない。

こんなつらい時間はさっさと終わって欲しいのに、目の前の相手にそれを言われた瞬間、マリアは気遣われたことに対してひどく傷付いたのだ。

大げさと言ってもいい自分の反応を自覚して、マリアは気が付いてしまった。

自分はこの男に戦えないと思われることを、弱いと思われることを、耐えがたい苦痛だと感じているのだと。

そしてそれはマリア自身が、自分を強いと思っていることの裏返しなのだと。

戦いの最中だというのに、マリアはあっけにとられてぽかんと口を開けた。

つらそうな顔から一転して間抜けヅラになったマリアを見て、ハーゲンもきょとんと眼を瞬かせる。


「だ、大丈夫か?」

「あぇ。あ、はい。大丈夫です!」


呑気極まる受け答えをして、二人はその場で固まった。

いつのまにか二人とも魔力の鎧を解いてしまっている。

急に集中力を失って立ち竦んだ選手たちに、会場内は困惑し小さくざわめきだした。

帝国チームサイドのベンチでは、ヴィオラが二人の様子を怪訝そうに見つめ、反対にロルフは興味深そうににこにこしながら見守っている。

王国チームサイドでは、トエットがため息をついていた。マリアの集中力が何らかの理由で切れたのだなと察したからだ。

元々マリアはあまり集中力やら根気やらというものがある人間ではない。戦闘が長引けばこういうこともあり得るとは、最初から予想できていた。

けれども、それに帝王も付き合っているのは不思議ではある。

トエットは空気が急に間延びしたリング上から、隣で観戦しているリョウへと視線を向け、そして少々ぎょっとして目を見開いた。

てっきりこの事態に不機嫌になっているかと予想していたリョウが、楽しそうに微笑んでいたからだ。

何故だかわからないがご機嫌なリョウの姿に、トエットは首を傾げ、それからリングへ視線を戻した。

人の感情の機微に非常に敏いこの女が笑うのであれば、それはきっと面白いことが起こるからなのだろうと思ったからだ。


様々な種類の視線を一身に浴びながら、マリアはぼんやりぽやぽやとした頭を一生懸命に回転させていた。

マリアにとっての自分とは、怠惰でおっとりして引っ込み思案で、暖かいところでおやつを食べつつ日向ぼっこしているのが好きな、大人しくて弱い人間だ。

リョウに言わせれば図太いし、トエットに言わせれば優しい、けれどマリアとしてはそんなんじゃない、もっとへにゃへにゃしてしょうもない生き物なのである。

人と争うのが嫌いで、できるだけ誰とも衝突せずに生きていたくて、周りと自分がほどほどに平和に健やかに過ごせていればそれでよく、各種問題の解決は他の強い人に任せておきたい、そんな人間なのだ。

けれど、本当にそうなのだろうか。

いましがた自覚してしまった、この胸の奥の激情はなんだろう。

練習試合でハーゲンに負けた時の、次はこんな情けない試合はしたくないと胸に誓ったあの気持ちも。

トエットがうじうじしていた自分の心を軽くしてくれたあの夜に、火花のように小さく灯りはじめた闘志も。

そしてリョウが。

自分が呼んだ、誰よりも勝ちにこだわる、強くて美しいひとが、マリアなら勝てると信じてくれた、期待してくれた、あの時の喜びも。

全てどうしようもない自分の中に、たしかにあり続けている大切なものなのだ。

マリアははくはくと口を動かし、ほとんど衝動的に言葉を紡いだ。


「あの、ハーゲン様」

「お、おう、どうした」

「ハーゲン様はどうして、そんなに戦うことが好きなのですか?」


まさしく戦いの最中にそう問いかけられて、ハーゲンは困惑しながらも、思うところを素直に述べた。


「そうだな、強敵と闘う時の緊張感だとか、予想もしない手を相手が使ってきたときの未知への興奮だとか、好きな点はいろいろあるが……。

一番は、自分を試せるからかな」

「自分を……?」

「ああ。これまで自分が磨き上げてきた技術を、経験を、判断力を、精神力を、あらゆるものを極限の中で試せるからだ。

俺は、俺がどこまでやれるのか、それが知りたいから戦い続けているんだと思う」


そう言った後、ちょっと照れくさそうに唇をへの字に曲げて自分を見るハーゲンが、マリアには不思議ときらきら輝いて見えた。

そして自分の中にあったもやが消え、すとんと納得が胸に収まるのを感じ取った。

ああ、そうか。

自分が負けたくなかったのは、勝ちたかったのは、弱い自分自身だったのだ。

怠惰で臆病な自分にずっとずっと打ち勝ちたくて、なのにその気持ちにすら気付かず、わけもわからないまま不安や焦燥感を抱いて。

けれど自分も強くなれるのだと信じたいから、だからきっと自分は、あれほど苛烈で自信家で、誰よりも強くありたいと願うひとリョウを呼んだのだろう。

信じて呼んだ勇者は、自分をここまで導いてくれた。

まあ、あそこまで女王様な性格である必要があったのかは、ちょっとわからないけれど。

マリアはぱっと笑顔になり、ハーゲンへ深々とお辞儀をする。


「お答えくださってありがとうございます。とても有意義な時間でした」

「うん、そうか。まあ時にはこんなこともあるよな……」

「ええ、こんな時が、こんな日が、人生には訪れることもあるのですね」


嬉しそうにそう言うマリアに、帝王はわけがわからないなりに、彼女が何かを吹っ切ったことを悟った。

そしてそんな人間は思いもよらないほどの力を発揮するのだということを、この歴戦の勇士は知っている。

小さな子供の頃へ戻ったような晴れやかな気持ちで、マリアは微笑みを浮かべた。

ハーゲンもそれを見て、胸に溢れる期待と喜びに、笑みをこぼす。


「ハーゲン様」

「うん」

「わたくしは、貴方に」


そして自分に。


「勝ちます」


静かな声とともに、マリアの体から魔力が迸った。

強く、柔らかな、まるで凪いだ海のような魔力だ。

それに一瞬見惚れた後、ハーゲンも自身の体を魔力で覆う。

仮に観客席とリング上が結界で遮られていなかったのなら、観客たちはこの場に満ちた重く密度の高い魔力の余波だけで、息が止まりかねない程の重圧を感じていたことだろう。

これから二人が決着をつけるのだと、この場にいる全ての人間が理解していた。

息を飲む人々とは裏腹に、リングの上で見つめ合う二人の視線は穏やかだ。

トン、と床を蹴った音は、驚くほどに小さかった。

ハーゲンが気が付いた時には、既にマリアは音もなく目の前まで距離を詰めている。

魔力の鎧を流線形に変化させ、極限まで空気抵抗を減らした状態で動いているのだ。

そう気付いたハーゲンは驚愕に目を見開いた。

魔力を完璧に体に纏い続けるということは、ハーゲンに勝てる人間が今までいなかったことからもわかるように、簡単なことではない。

それこそ頭の天辺からつま先まで常に意識し続け、自らの動き全てをコントロールできるだけの集中力が必要になるのだ。

そのうえで高速で動きながら、体を覆う魔力の密度を場所ごとに細かく調整していくなどということは、ハーゲンですらできることではない。


マリアの攻撃をハーゲンは掌底で相殺する。が、消費された魔力はハーゲンのほうが多い。

先程までより更にスピードを増し、相手に当たる瞬間だけその位置の魔力の鎧を分厚く調整しているマリアと違い、ハーゲンは鎧全体の魔力量を増加させなければいけないからだ。

常人では目で追うことも難しいラッシュを繰り返す中で、ハーゲンは確実に魔力を削られていった。

このままでは自分が先に音を上げることは確実だと気付いた時点で、ハーゲンは一旦後ろに跳んで距離を取る。

自分が逃げさせられたのだという事実を噛みしめながら、ハーゲンは喜びに打ち震えた。

戦いの中で成長していく天才というものを、ハーゲンは世界最高峰の戦士が集まる神前試合を繰り返す中で、幾度か見たことがある。

しかし目の前にいるこの相手は、優しく気弱でありながら、不屈の精神を胸の内に潜めていたこの女王は、これまで出会った中でもその最たるものであることは間違いない。

今日はなんとよき日なのか。

この最高の敵に、恥じない戦いをしなくては。

ハーゲンは己の全てを賭してなお勝てるかわからぬ戦いに、目も眩むような幸福を感じた。


ハーゲンが追い詰められる一方で、マリアもまた、魔力操作による極度の集中による疲労によって精神力を削られていた。

相手の魔力量を削れたことは大きいが、この戦いかたは極端に気力をすり減らす。長く行えるようなものではない。

しかも、こうして魔力量でアドバンテージを取ったとしても、相手にはこれまでの戦いの中で蓄積した経験というマリアにはない強みがある。

極限の状態から底力を振り絞る方法というものを、ハーゲンは戦士としての人生の中で体得しているのだ。

つまり、ここまで苦労して相手を追い詰めてやっと、マリアは彼と互角になれる。


――対戦相手がこの人で、本当に良かった。


マリアは心からそう思った。

無敗の帝王と謳われる最強の敵。普通に考えれば高すぎるハードルだが、彼が敵だからこそ、きっとリョウはあそこまで努力してマリアを鍛えてくれた。

マリアも、この戦闘狂のくせにお人好しな男が相手でなければ、ここまで食らいつくことはできなかった。

トエットが、リョウが、そしてハーゲンが、マリアは強いのだと信じてくれなければ、ここまで頑張ることはできなかった。

だからここで彼を倒し、自分自身の強さを信じることが、自分にできる一番の恩返しなのだとマリアは思う。


先に動いたのはハーゲンだった。

たった一歩の助走でトップスピードに達したハーゲンは、その勢いを完璧に伝わらせ、拳へ威力を上乗せする。

マリアはそれを正面から受け止めることにした。

右手を、固く握りしめる。

足を広げ、重心を下げる。

大きく息を吸い、少しだけ留め、ハーゲンを見つめてマリアは腕を大きく振りかぶる。

幼いころに教えられた通り、彼女は腰をしっかりと捻り、体全体の力を正確に腕へと収束させ、鋭い呼気とともにあまりにも美しい動作で拳を振り抜いた。

力と魔力とこれまでの経験と、想いを乗せて、二人の拳が激突する。


会場全体を揺らすような轟音と閃光が広がり、結界がそれを押さえ込もうと更に眩く光を放つ。

神前試合のために神が精製方法を古の神官へ伝えたという、頑丈なリングの表面が、二人の衝突によって発生した負荷で削れ、宙へと舞い上がった。

魔力を浴びて白い光を反射する破片が舞い落ちる中、リングの中央で二人の戦士が拳を突き合せたまま、そこだけ時が止まったかのように佇んでいた。

静寂のなか、両者の体がぐらりと傾く。

鍛え上げられた戦士がかすかに微笑み、倒れる間際にありがとうと声なき言葉を紡いだのを、極度の疲労で霞む視界の中で、たしかにマリアは見つめていた。

無敗の帝王と讃えられていた男が、どさりと音を立てて倒れ込む。

震える足でリングを踏み締め、最後まで立っていたのは、華奢で力強い相反した拳を持つ女王だった。


「第三試合勝者、マリア・リュステリア・イルグリア!」


審判の宣言とともに、会場内に音が戻ってきた。爆音すぎて鼓膜が破けて再び静寂になりそうな勢いだ。

王国民たちが泣きわめきながらマリアの名を叫び、帝国民が倒れ伏す帝王を呆然と見つめ、そして静かに健闘を称え涙を流す。それ以外のお祭り気分で神前試合の観戦に来ていた人々は、歴史に残る接戦を見れた喜びに歓声を上げた。

そしてマリアは、無敗の帝王を倒した強き女王の名を呼ぶ声が響き渡る中、リングの上へ駆けてきたトエットにとんでもない勢いで抱き着かれ、床を滑りながらぐへぇと悲鳴を上げていた。


「へ、陛下ぁ!! やった、ほんとに勝ったんだ……!!」

「勝ちま、オゥ、内臓がすごい圧迫されてる……!」


普段のマリアならトエットに締めあげられても死にはしないが、気力体力魔力を振り絞りまくった今は普通に効く。

どうにかトエットを引きはがし、リングの上にぺちゃりと女の子座りをしたマリアは、強くて主人思いなメイドの頭をふわふわした手つきで撫でた。


「へへへ。勝ちましたぁ」

「ううっ、このアホヅラ、見慣れた陛下だなぁ。しみじみしちゃうな」

「あっそんなふうに思われてたんだ……」


元気に馬鹿をやっている二人のそばに、長い黒髪を靡かせて、ため息をつきつつリョウが歩み寄る。

二人の首根っこを掴んでグイと引っ張り、強引に立たせた彼女には、やっぱりこの人がチームリーダーなんじゃないかなという迫力があった。


「あらあらまあまあ。うちのチームメンバー達はどうしてこう格好がつかないのかしらねえ? とっても不思議だわぁ??」

「アッ……もうしわけありません……」

「勘弁してください……」


辛うじてつま先が床につく高さにぷらんとぶら下げられ、途端にボケ担当たちは大人しくなる。やれやれと下ろしてやり、リョウは改めてマリアに向き合った。

仁王立ちで見おろしてくるリョウに対して、マリアはもはや習慣じみた動きで少し頭を下げる。

叱られて耳を引っ張られる時も、褒めて撫でられるときも、こうしておいたほうがリョウがやりやすいからだ。

その姿へトエットがなんとも言えない生温かい視線を向ける中、リョウはマリアへもう一歩近寄った。

ふわりと自分を包んだ体温に、マリアはきょとんと瞬きをする。

マリアより背の高い、けれど華奢な腕に抱きしめられ、ぽんぽんと頭を撫でられて、歴代最強の女王はすっかり固まってしまった。


「やればできるじゃない。さすが、私が見込んだひとだわ」


いつもより優しい声でそう言って体を離したリョウは、いつもの不敵で偉そうな、けれども魅力的な笑顔を浮かべていて。

それを見たマリアの、きらきらした明るいライトグリーンの瞳が大きく見開かれ、ぶわりと浮かんだ涙が次々に頬を伝って零れていく。


「がっ、がんばりまじた! がぢましたあ!」

「ほんとこの子しまらないわね」


容赦ない感想を言われていることにも気付いていないのか、顔をべしゃべしゃにしてう゛ええと絵にならない泣き声を上げているマリアの目元を、トエットがハンカチを持った手でぺんぺんと軽く叩いて雑に涙を拭っていく。

衆人環視のリングのど真ん中だということも忘れ、マリアはこのひと月の色々なあれそれに対する感情が決壊して溢れ出したような、発作的なボロ泣きをしまくった。

哀れさすらあるその背後に、こっそりと遠慮がちな誰かがが近寄っていることにも気付かない。

だからリョウは親切心から、マリアのうなじのあたりを、さわさわと絶妙な力加減でくすぐってやる。

ビョッと擬音が付きそうな動きで小さく跳ねたマリアは、思わず奇声を上げた。


「ひょおう?!」


強制的に泣き止ませたマリアの肩を掴み、リョウがぐるりと方向転換をさせる。

目の前に立つ、気絶から回復したハーゲンの姿を、マリアはぽかんと見上げた。

それからはっと慌てて頭を下げる。


「あっ、こっ、この度はまことに、あの、たいへん実りのあるというかあの有意義な戦いでして」

「あっ、いや、その、こちらこそ本当に礼を言っても言い足りないくらい良い戦いができたのでその」

「あなたたち腰の低さでも競ってるの??」


リョウの呆れたような呟きにも気付かずぺこぺこと頭を下げて礼を言い合っているあたり、明らかにハーゲンとマリアは似た者同士であった。

ハーゲンはマリアの、先程自分を殴り倒したのと同一人物とは思えない緊張ぶりに苦笑し、自分に似て気の小さいらしい様子に親近感を抱いてしまう。


「その……。負けた俺がこういう提案をするのもなんだが、……もしよければ、これからも俺と闘ってくれないだろうか。神前試合ではなく、練習試合、というか訓練というか稽古というか、そういうもので」

「えっ、あっ」


思いがけない申し出に、マリアはあたふたと無意味に両手をフワフワさせた後、ごほんと咳払いをして、できるだけきりりと女王らしい顔をつくってみせる。


「ありがとうございます。わたくしはまだまだ実戦経験が足りていませんから、とても助かります」

「よかった! ……けれど、いいのかい? きみはその、戦いはあまり好きじゃないだろう」


そう言われて、マリアはぱちぱちと瞬きをした。

気遣われたことがいまは単純に嬉しいと思えて、せっかく作った女王らしい顔はすぐに崩れ、へにゃりとした笑顔になってしまう。

マリアは気負いのない柔らかな仕草で、ハーゲンへ片手を差し出した。


「大丈夫です。貴方と闘うのは、きらいじゃありません」


その言葉とふわふわした笑顔に、ハーゲンはつられたようにへにゃりと笑い、優しくマリアの手を取る。

どこかぎこちなくてくすぐったい握手をする帝王と女王を、会場中がほのぼのと見守っていた。戦いの後に生まれる友情の尊さを、脳筋率の多いこの世界の人々はたいへん好いているのだ。

ちなみにヴィオラはこのとき、チームメイトである男性二名を見比べて深々と頷いていた。あっちが成功例でこっちが失敗例だな、などと思われていたことを剣聖は知る由もない。


こうして、女王マリアは無敗の帝王を打倒した比類なき戦士と称えられ、鉄拳の女王と呼ばれるようになる。

ハーゲンとマリアはその後も度々プライベートで試合をする仲になり、この世界に親善神前試合というややこしい名前の制度が生まれるようになるのだが、それはまた、別のお話。

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