死を恋う神に花束を【改訂版】 白百合を携える 純黒なる死の天使

高坂八尋

今を生きるあなたへ

追憶の雪



 ――僕の愛する、けがらわしい猟犬イヌ



 寒さに赤らむ指先が、黒い慰霊碑を一撫でして、そのまま動きを止める。白いその手に雪が一片ひとひら舞い落ちて、形も残さず解け行く。


 無記名の慰霊碑は、酷く冷たくて。――そして、虚しい。


 白百合の花束が、石碑へ寄り添うように手向けられていた。ちらつく雪が、もう、ぽつぽつと積もり始めている。


 十と少し経ったばかりの少年が、軍服をまとい、制帽を携え、外した白い手袋を手に、独り慰霊碑の前に佇む。彼がまとうのは、立襟の最高礼装だった。それも、完全なる黒。最高主権者を表す、純黒の軍服をまとっていた。その、あまりにも年齢にそぐわない、権力を誇示する礼装姿だったが、少年に浮くような柔らかさはなく、威儀を正す軍人のかがみであった。そして、彼自身の褪せた色味で、更に冷たく映り、その姿は心無き独裁者の固定観念を満たした。


 彼が最高礼装で帯剣する姿は、重荷を背負ったようであると、見えかねなかった。だが、彼は既に、重圧に苦しむ単なる子供ではなく、使い従えさせる者として凶器を携えていた。


 剣には純銀で意匠が施されている。の蛇が鞘に巻き付いていた。


 ヨルムンガンド――。


 世界を渦巻くという巨大な蛇。


 後に神々の脅威となりうると、海に捨て去られ、それでもなお生き延び、成長を続け、ついには己の尾にまで喰らいついて、世界を自らの腹へ抱え込んだ。


 伝承を好む人々は、皆、知っているだろう。の蛇が世界へ災害を起こし、毒を振り撒くと。そして、それは相反して永遠に、人間へと牙を立てられないとも。


 少年は慰霊碑に触れていた手を離すと、雪を手で受け止めた。


 降り始めだ、と、雪は数えられるくらいまばらだったのに、少年が息つく僅かな間で、彼は雪片を視線で追えなくなった。


 手の平は氷のように冷えているのに、降り積もる雪は、幾らも経たずに解けて行く。そうしていると、水滴が溜まって、それが更に、次に受け止めた雪が解けるのを誘った。


 もう、指先が感覚を無くし、赤くかじかんでいて、鈍い動きで手を握り込む。不快な感覚に、直ぐ水滴を弾いてしまった。手袋をはめ直しても、一度濡れて凍え切った手には、何の意味もなかった。


 髪を形式的に払って、制帽を被る。


 ――外套を羽織って来なかったのは、我ながら軽率な判断だった。


「ああ、また、死んだな」


 ここに居ない誰かが、今また、少年の手を離した。別段、少年の心に湧き上がるものは何も無くて。


 慰霊碑への虚しいという思いも、吹き曝しの石に、何があるとも思えなかったから。それをよすがにするの心も判らなかった。


 命は際限なく燃え尽きて消え行くから。


 それは、一生出会う事の無い人間の為に。輪郭かたちすら見えない大義の為に。言い募られた言葉の為に。


 お伽話とぎばなしという夢物語の、終わりを夢みて――。


 彼の知るヨルムンガンドは、人間へ空想の喜びと、創作の飛躍だけを、与えてくれるものではなかった。夢を、夢と知る少年に取っては、聞き流してしまう神話ではなく、永遠に縛り付ける呪いだった。


 そのヨルムンガンドは、独りで世界を抱え込んだりしない。時が来るまで、海で大人しく自らの尾を噛む事もしない。


 人間を喰い荒らし、犯し、化物となさしめる。


 そして、現実の世界蛇は双子だった――。


 一匹ならば、人は救われたものか。それとも、伝説と現実が混交するのであれば、人間は世界蛇の支配に、希望すら見い出せなくなっていたか。


 ならば、神々が二匹と与え争わせたのは恩寵か。喰い合い、殺し合い、けして交わらない死の具現。


 神話と名前は同じなのに、全てを現実と重ねる事はできない。伝承がいつしか混ざり合って、既に元のが判らない。


 ――また、光が消えて行く。


 彼は別の場所ヘ向いていた意識を、雪景色へ戻す。近付いて来る気配に、ふっと、遠くを望むと、傘を差さない大男が、走って来る。大男も黒い礼装で外套も羽織らず、白む降雪のなか、大きな身体がなおさら大きく見える。更に近付いて来ると、少年の小ぶりな外套と、傘を持って、走って来ているのが解かった。


 厳つい大男は、少年の元へ来ると、慌てた様子で少年の肩へ外套を掛け、傘を広げた。小さな少年の為に、大男が身体を縮ませて差し掛ける。その世話焼きは乳母のようで、大男の大げさなまでに狼狽うろたえた様子に、少年は珍しく高く笑いそうになった。


「……どうして、来たんだ」


「来るな、と、命令されなかったからだ。雪が降り出して、急に激しくなったから。とにかく、風邪を引いてしまう」


「お前達は相変わらず、似たりよったりな事を言うな」


「……それに、独りで悲しむ姿を見ていられなかった」


「悲しむ? そうか、僕は悲しんでいたのか」


 少年は伏し目がちに、うっすら笑む。


「判らないのか」


「お前達は幾らでもいるから、縋り付いてくる手は絶えはしないから。――そう、思っているよ」


「……なら、今、惜しまれて、悲しんでもらえた奴らが羨ましい」


「死人をやたら、羨ましがるな」


「きっと、あなたは俺が死んだら、ただの記憶として忘れてしまうから。いつか、あなたを苦しめるだけの痛みになる」


「解っているなら、死ぬんじゃない。勝手に迎えに来る、図々しい奴は、お前だけだから……僕が不便になる」


 大男は、その厳つい顔を、少年だけに解る密やかさで、ほころばせた。


 少年は差し掛けられた傘で、もう、雪に濡れる事は無かった。隣で縮まる大男は、それを満足そうに見ている。――自らは、雪に降られながらも。




 巣立つ事がゆるされない獣――。


 永遠に巣立てない幼仔おさなご――。



 ――僕の愛する、こどもたちよ。


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