第28話 美しいということ

「僕はね、絵を描いているけれど、描いているのは絵じゃないんだよ」


 僕は、眉を顰める。ジョージの言っていることが分からない。お姉さんも同じだ。ジョージが、ゆっくりと歩き出す。お姉さんの前で腰を下ろすと、胡坐をかいた。不思議そうな表情を浮かべる貴子お姉さんを見上げながら、ジョージは忙しく手を動かす。クロッキー帳には、そんな不思議そうな表情を浮かべる貴子お姉さんが描き出されていた。いつもなら喋りながら絵を描いているジョージなのに、なんだか様子が違う。凄い集中力だ。


「ねえ、ジョージ」


 そんなジョージに、お姉さんが問いかける。ジョージの手が止まった。


「あっ、ごめんごめん。ちょっと、自分の世界に入っていた」


 お姉さんが、そんなジョージを見て、吹き出す。


「クスッ。なに、それ、自分の世界って……それよりも、謎かけしたままじゃ、気になって仕方がないんだけど」


 ジョージが、目を丸くする。


「ええと、何の話をしていたっけ?」


「呆れた~、自分で振っておいて……絵を描いていないとか、なんとか……」


「そうそう、そうだったね。ごめん」


 ジョージは手を止めて、クロッキー帳を膝の上に置いた。両手を地面について、寛いだ格好をする。いつもの剽軽な笑顔を見せて、お姉さんに話しかけた。


「僕は、今、貴子さんが不思議がっている表情を描かせてもらった。不思議がっているその表情は、何かの縁で直ぐに消えてしまうから、僕はそれを掬い上げるので必死だったんだよ」


「必死って、いつも簡単に絵を描いているじゃない。サッサッサッて……」


「ああ、あれは絵だからね」


「だから、それが分からないのよ。どう違うのよ?」


「祭りの似顔絵は、僕が頭の中で想像した絵だからね。似せるだけなら、何枚でも描けるよ。でも、僕が描きたいのは、貴子さん、君そのものを描きたいんだ。君が嬉しいと感じていること、悲しいと感じていること。また、怖がっていることや、怒りに感じていること。そうした君の心の変化を、僕も一緒に感じて描きたい。僕は見てみたいんだ、君の全てを。そして描きたい、その瞬間を……」


 そこまで言って、ジョージは口を噤む。蝉が、相も変わらずワシャワシャと鳴いていた。僕とお姉さんは、呆気に取られてしまった。ジョージが見ている世界が、よく分からない。お姉さんが、困ったような顔を僕に見せた。僕も、困ってしまう。暫くの沈黙のあと、またジョージが語り始めた。


「美しいっていう漢字があるよね。いつ頃出来たか知っているかな?」


 貴子お姉さんが、少し首を捻る。


「漢字は中国の言葉だから、二千年以上は前かな」


「所説はあるけれど、ざっと三千年前に出来たそうなんだ。この美しいという漢字なんだけど、どんな意味だと思う?」


「えっ、どんな意味って、奇麗ってことでしょう」


「うん、そうなんだけれど、その美しいに隠された意味のことなんだ」


 僕は、ジョージの言っていることが、なぞなぞみたいで全然分からない。分からないけれど、引き込まれていく。僕とお姉さんが答えられないでいると、また語り出した。


「ごめん、意地悪になってしまったね。美しいという漢字には、羊という漢字が含まれている。この羊は、実は神様への生贄のことなんだ」


 生贄という言葉に、僕は不気味なものを感じた。ジョージは、一体、何を語るつもりなんだ。


「美しいという漢字は、羊と大という二つの漢字に分けることができる。羊の下の大という漢字には、二つの意味が込められていてね。一つは、羊の足を意味している。足が切り離されていなくて完全であるということ。つまり、全てが揃っていることが、美しいことの、一つ目の定義なんだ」


 貴子お姉さんが、ジョージを見る。


「ジョージが言いたいのは、私の精神的なものも揃うことで、美しくなる……ていうこと?」


 ジョージが、ニンマリと笑う。


「理解が早くて嬉しいな。怒りを描く場合も、僕が想像した怒りでは駄目なんだ。それは、偽物なんだ。貴子さん、君が怒っている姿を描いてこそ、それは本物になる」


「だから、私を怒らせるって言ったの?」


 ジョージが、お姉さんを見ながら頷いた。


「小林君から、貴子さんが苦労した話を、少し聞かせてもらったよ」


 ジョージの言葉に、貴子お姉さんが、敏感に反応する。僕のことを、鋭くを睨んだ。僕は、思わず首を引っ込めてしまう。でも、それ以上追及することはなく、ジョージを睨んだ。


「それで?」


「僕は、そんな苦労をしてきた貴子さんの、心の底を見てみたい」


 貴子お姉さんが、ジョージの事を冷たく睨む。


「ちょっと、イヤラシイ覗き趣味ね」


 ジョージが、嬉しそうに笑う。


「いいね、その表情。本当に素敵だよ」


 その瞬間、椅子に座る貴子お姉さんが、目の前のジョージを蹴り上げた。ワンピースのスカートが舞い上がる。胡坐をかいていたジョージは、ダルマの様にコロンとひっくり返った。貴子お姉さんは、尚もジョージを睨みつける。ひっくり返ったジョージが、顔を上げた。貴子お姉さんを見て、声をあげて笑う。


「アッハッハッ! 最高だよ。思っていた通りの人だ」


 ため息をついたお姉さんが、ジョージに問い掛ける。 


「どうしようもない人ね。それで、二つ目の意味は?」


 ジョージは、起き上がり、また胡坐を組み直す。お姉さんを見上げた。


「美しいという漢字のもう一つの意味も、大という漢字から来ているんだ。大いなる生贄と読む」


「大いなる生贄? どういうこと……」


 怪訝な表情を浮かべるお姉さんに、ジョージが真剣な表情を見せた。 


「大いなる生贄っていうのは、自己犠牲のことなんだ。つまり、自分を捧げるという意味になる。この自己犠牲の精神が、美しいという漢字の本当の意味になるんだよ」


 胡坐をかいていたジョージが、砂埃を払って立ち上がった。そんなジョージを、椅子に座ったお姉さんが見上げる。ジョージは、片手を胸に添えると、ゆっくりとお辞儀をした。


「この僕に、君の全てを捧げて欲しい。僕も、この身を捧げる」


 お姉さんは、言葉が出なかった。硬直したまま、ジョージを見つめている。ジョージは、そんなお姉さんを覗き込んだ。


「この間、テニス大会があったんだよね」


 途端に、貴子お姉さんが苦い表情を浮かべた。ギュッと両手を握りしめる。再度、僕のことを睨みつけた。僕は、慌てて頭を下げる。


「ごめんなさい」


 貴子お姉さんは、目だけを動かして、横目にジョージを睨んだ。そんなお姉さんに、ジョージが微笑みかける。


「悪いのは、僕だよ。貴子さん、小林君を許してやって欲しい。彼たちは、貴子さんを元気づけようと必死だったんだ」


 ジョージの言葉に、少しばかり安堵した。ジョージは、尚も言葉を続ける。


「聞いた話だと、テニス部の友達たちからイジメを受けていたんだって?」


 ジョージが、貴子お姉さんのデリケートな領域に遠慮なく踏み込む。お姉さんがワナワナと震えた。その怒りが、僕のところまで伝わってくる。ジョージは、そんな貴子お姉さんを見つめたまま、クロッキー帳を開いた。鉛筆を走らせる。


 これが、ジョージのデッサン! これは、お姉さんをイジメているだけじゃないのか?


「本当に、私を怒らせたいのね……」


 ジョージは、手を止めない。まるで時間に追いかけられているように、忙しく描き続ける。


「美しい肖像画を描くって言っただろう。これは、必要な道のりなんだ」


「信じられない。ジョージの考えていることが分からない」


「貴子さん、君は美しい。でも、その美しさは、まだ雛の状態なんだ。今回のイジメはね、君が更に美しくなるための試練なんだよ」


「試練?」


「美しさっていうのは、磨いて育てていくものなんだ。特に、内面的な成長こそが重要でね。内側から滲み出る美しさに、僕は惚れ惚れしてしまうんだ」


 お姉さんが、ジョージの事を忌々し気に睨む。


「分かったような、そのお喋り。もうウンザリ」


「確か……君をイジメていた女の子たち。男の子に殴られたんだよね」


 貴子お姉さんが、目を大きく開けた。ジョージを睨みつける。髪の毛が逆立つような怒りのオーラを感じた。


「まだ、喋るつもり!」


 ジョージは動じない。更に、火に油を注ぐ。


「その男の子が、自分の代わりに殴ってくれて、嬉しかったんじゃない。ザマアミロって……」


 ジョージの言葉がナイフとなって、貴子お姉さんの胸をグサグサと突き刺した。


「そんなことない!」


 お姉さんは、今にも立ち上がりそうな勢いで、否定する。そんな、お姉さんを、穴が開くほどに、じっくりと観察するジョージ。デッサンをやめない。


「自分が、手を下すことなく、あいつらは制裁を受けた。自分は、悲劇のヒロインのままでいられる。そう、思ってしまっても、誰も責めないよ。それは、受け入れてもいいんだ」


「違う、違う、違う!」


 貴子お姉さんは、立ち上がると、被っていた麦わら帽子を右手で掴み、大きく振り上げた。顔を歪ませながら、その帽子でジョージの顔を叩きつける。ジョージは叩かれたのに、貴子お姉さんを見つめる視線を外さない。その瞬間すら見逃すまいと、貴子お姉さんをじっと見つめた。ジョージは、ゆっくりと立ち上がる。


「人間はね、心の中では、何を感じても良いんだよ。それはね、止められない。汚いことも、恥ずかしいことも、自分の気持ちを自分でコントロールすることは出来ない」


 貴子お姉さんは、固まったようにジョージを見上げた。ジョージは、優しい表情を浮かべて、更に言葉を続ける。


「大切なのは、そこからさ。そうした自分の、認めたくない感情を、認めた時から、人間はね、やっと歩き出すことが出来る。嘘、偽りで塗り固めた自分の世界を破壊して、歩き出すんだよ」


 貴子お姉さんは、ただ、ジョージの顔を見つめている。


「貴子さん、君の美しさは、今、ここから始まるんだ。心の殻を脱いで、素直になるんだ。僕にその姿を見せて欲しい。ありのままで、良いんだ。君をイジメた女の子たちは、君が美しくなるためには、必要な存在だったんだ。そう認めてごらん。そうすれば、彼女たちですら、感謝したくなる存在になるんだよ」


 僕は、二人の様子を見ながら、動けなかった。意味は理解出来ないけれど、踏み込んではいけない、そんな空気を感じた。


「認めるの」


「そう、認めるんだよ。彼女たちのしたことなんか、些細な事さ。そんなことに、煩わされている余裕はないよ。君は、認めることで、磨かれる。もっと美しくなれる」


 貴子お姉さんの目から、涙が流れた。両手で顔を覆うと、肩を震わしながら、泣き始めた。ジョージが、そんな貴子お姉さんの肩に、労わる様に手を置いた。すると、お姉さんは、ジョージの胸に飛び込んだ。さめざめと泣き続けるお姉さんを、ジョージは優しく抱きしめた。ジョージが、お姉さんに、囁きかける。


「君は、よく頑張った。一人で、戦い続けた。それは、本当に凄い事なんだよ」


 貴子お姉さんは、しばらく泣き続けた。ジョージは、泣くに任せて動かなかった。お姉さんが落ち着き始めた頃合いを見計らって、再び、椅子に座らせた。落ちていた麦わら帽子を拾い上げて、埃を払う。お姉さんに被せてあげた。クロッキー帳と鉛筆も拾い上げると、先程と同じように胡坐をかいて座った。お姉さんを見上げる。


「ごめんね。デッサンを始めるよ」


 その言葉に、貴子お姉さんが、ジョージを睨みつけた。力任せに、また、蹴り上げる。スカートが舞い上がった。ジョージは、先程と同じように、ダルマの様に転がる。そんなジョージを見て、お姉さんが笑った。ジョージも笑う。二人は、意気投合したように笑い続けた。でも、そんな二人を見て、僕は笑えない。一人疎外感を感じて、立ち尽くしていた。

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