52

 季節が冬に片足を突っ込んだ少し肌寒い日の昼下がり、父は仕事で不在、母は友人と遊びに出かけていて、空っぽになったリビングに射すあたたかい陽の光を浴びながら、僕は床で横になっていた。


 傍らには不格好なクッションみたいなシルエットを描く、黒い毛玉が転がっている。クリスだ。


「こんなに晴れたいい天気の空の下でも、どこかに苦しんでいる人間はいるんだ」


 僕はどこにいるとも分からない、なにかに苦しんでいる人を憂いて言った。そういうことを思う気分だったのだ。


 真っ黒な毛玉から、二つの目がひょこっと現れる。


「そうですね」


 クリスがペットロボットに押し込められたAIであることを差し引いても、気持ちがこもっていない返事だった。


「僕はまだ何もできない。大人になって色々な経験を積んで、クリスももっといろんなことを学習したら」


 アクアマリンの瞳に反射した光が僕を照らす。


「――人々を救う何かをしよう」


 僕の崇高な決意みなぎる発言を、クリスは一蹴する。


「思春期ですね」


 確かにそうなんだけど、思春期の少年少女は思春期であることを指摘されると、破門を恐れて許しを請うハインリヒ4世くらいに屈辱的な気持ちになるのだった。


    *


 そして今、僕はまた同じような屈辱を味わっている。全然おいしくないその味は、焦げたパンケーキみたいに幸せからは程遠い。


「ほらほら、はやくはやく。ショーゾーの番だよ」


 急かすクリスは楽しそうだ。


「うるさいなぁ、いま考えてるんだよ」


 久々に広げたオセロの盤面は黒優勢、追いやられた白陣営は苦しい状態。本丸では僕が切腹の準備中だ。


「降参するかどうかを?」


 僕はその挑発を跳ね除けるように、白い石を置いて言った。


「ユキはいまどうなってるの?」


 盤面に集中している僕の顔をクリスが覗いた気がした。


「裁判は終わってるはずだから、そろそろ塀の向こうじゃないかな」


 ユキが警察に連れて行かれた後、僕たちは警察に色々と事情を尋ねられた。うんざりするくらい根掘り葉掘り聞かれるのかと思ったが、クリスがまとめていたデータで捜査情報はほとんど足りていたらしく、ざっくりと経緯を説明して聴取は終わった。


「あの文章はどうするの?」


 ヤナギのデバイスには彼の独白が残っていた。


 そこには彼が歩んできた道のりと、ユキを思う言葉が綴られていた。今、ユキの人生はすべてが復讐の色に染まっていることだろう。それを塗り替えるためにも、ユキには見せておいた方がいい。彼女はまだ若い。このまま人生を棒に振るのはとても惜しい。その父の言葉に、僕も同意だった。


「ユキが刑務所に入ってしばらくしたら、渡しに行こうと思う」

「ふーん、他の女のところに行くんだ」


 クリスがめんどくさい女みたいなことを言ったあと、パチリと音がした。盤面は真っ黒になっていた。


「はい、全部黒にしたから私の勝ち。ほら早く肩揉んで」


 この勝負は、クリスが盤面を全部黒に染め上げれば勝ちという、ヴェルサイユ条約並に一方的な勝利条件だったはずだ。


「一度誰かに肩を揉ませてみたかったんだよね」


 肩を揉むと言っても、彼女は生身の肉体ではない。


「義体にマッサージなんて意味ないでしょ」


 そう言いながらも、僕はクリスの後ろに回って肩を掴んだ。きめ細やかな肌を再現した精緻で華奢な肩は、人の命を預けるには少し頼りない。


「あぁ……気持ちいい、かも?」


 機械仕掛けのお姫様は、肩を揉んでもらいたいなんていうよくわからない願望を抱いていたようだが、満足そうだしまあいいか。


「そういえば、クリスが前に言ってた、かりやどの方針は今も変わってないよね」


 かりやどが掲げる人類救済作戦はまだ終わっていないはずだ。


「うん。また次に救う人を探すよ」


 世の中には、手を差し伸べるべき人たちがまだまだたくさんいる。


「次にターゲットになる人は、こんな問題を抱えていないことを願うよ」

「さあ、どうだろうね。データベースを漁ったときに闇を抱えてそうな人はいっぱい見つけたから」


 それもそうか。簡単な問題なら病む前に自分で解決できるだろう。


「僕たちこんなことしてて良いのかな」


 今更ながら、人の命を救う副業を差し置いてオセロに興じていたことの是非を問う。


「私達が救える人間の数には限度がある。それに、過密なスケジュールで詰め込んだ仕事でいっぱいっぱいの人間が、同じようにあっぷあっぷ言ってる人間を救えると思う?」


 思わない。


 クリスは立ち上がって、解決編で饒舌に語る探偵のような口調で話し始めた。


「軍人が命令に従うように、執事が礼儀を弁えているように、私達も他人の人生に介入するなら、自分の人生を正しく生きている必要がある。同じように苦しんでいる人間の方が向こうも心を開きやすいかもしれないけど、それじゃあ共依存以上の関係にはなれない」


 互いの苦痛を共有して傷を舐め合っているばかりでは、改善には至らない。


「私達は、どん底に吊るされた人を引っ張りあげられるくらいの勢いで、自由奔放に生きてないといけないんだよ」


 共依存では、人生の色を塗り替えられない。塗り替えるには、くすんだ色を消し飛ばすほど鮮烈な極彩色をキャンパスに叩きつける必要がある。


「だけど、それだけじゃあ課題を解決はできない」

「そうだよ。だから私は二人で行動することを選んだんだ。ショウゾウは共依存担当。持ち前の希死念慮を生かして、ターゲットの心に入り込む。そして私は実力行使担当、ハッキングという力を振りかざして、いろんな問題を叩き潰す。こうやって二人で取り組めば、課題を解決するのも早い」


 そんな役割分担、聞いたことが無い。だけどそもそも、夢屋で働きながら人助けをするなんていう事自体が突拍子も無い話だ。だから細かいことはあんまり気にしなくてもいいのかもしれない。というか、気にしても何が正解か分からないし、答えなんて出ない。


「まぁ、それでもいいけどさ」

「ありがとう。ショウゾウは適当な理屈を並べれば納得してくれるから、可愛くて好きだよ」


 馬鹿にしているのか好意を伝えたいのかどちらもなのかどちらでも無いのか、クリスはこうやって人の心を毛糸玉みたいに転がして遊ぶのが好きなのだけは分かった。


「あんまり馬鹿にすると、病みに病み散らかして死んじゃうかもよ」


 僕の言葉に、クリスは見透かしたような、それでいて信頼を浮かべた笑顔を見せる。


「ショウゾウはここにいる限り、死んだりなんてしないよ、だって――」


 次の言葉を待つ僕は、メデューサの目線に射すくめられたように動けない。やがて与えられた言霊は、僕の行動を形作る思考順序を的確に表しており、自然と体に染み込んでいった。


「死のうと思えば、いつだって死ねるんだから」


 そう、ここは夢屋だから。

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