10
時間に、生という概念は当てはめることはできるだろうか。
僕は、時間に濃淡があるような錯覚を覚えていた。風に揺られ、形の安定しない大きなシャボン玉のように、時間が歪みを強弱させながら流れているような気がしたのだ。そのせいで、時間は生きているんじゃないかという妄想にうつつを抜かしていた。
仮に時間が生きていて意識があったとしても、人間には何ら影響は無いだろう。人類が時間軸という物差しに触れることは、技術的特異点を迎えた今でも許されていない。
人間には干渉することができない時間という概念が僕の願いを聞き入れてくれたならば、僕は今この時をどう進めるだろうか。
その詮無き思考はさらに時間に対する認知を歪め、時間の濃淡を演出していた。それは逃避でしか無かった。
僕は、音のない無機質なこの空間に、無言で、ただ存在している。自分の輪郭が滲んでいるような気分だ。現実感が喪失している。夢を見ているのは僕の方なのではないかと思うほどに。
夫婦揃って二人で夢を見るという取り決めが成されている以上、奥さんにとって、僕の言葉は意思を曲げるほどの意味を持たない。長年連れ添った夫婦の関係に介入するなど、もともとが無茶な企てだったのだ。
意識の外では、ただ時が過ぎていく。均一に、機械的に、つまり無情に。
肩を叩かれた。
外部からの刺激によって、無意識に遮断していた外界の情報がなだれ込んでくる。
眠っていたわけでは無いのに体が重い。いったいどのくらいの時間、思案していたのだろうか。錆びついたように軋みながら震える首を動かして、顔だけを右へ向けると、キクコが屈んで僕を見ていた。
目が合うと彼女は薄っすらと安堵の表情を浮かべた。
奥さんはもう帰ってしまったかもしれないなと、視線を前へ向けて確認する。まだそこにいた。
「今ならまだ間に合いますが、本当によろしいのですね?」
何の確認なのか分からず、僕に言っているのかと反射的にキクコへ目を向けた。彼女の目線の先には、処置を受けるはずの奥さんがいた。
「はい、私には夢は必要ありません」
「……え?」
言っている意味が、よく分からなかった。
「分かりました」
夢が必要無い?
「ご主人の安楽死処置は三日後の予定です。脳死が確認されると、ご遺体はご遺族もしくは葬儀業者にお連れしてもらう必要があります」
「存じております」
二人で一緒に夢を見る約束は?
「遺された財産は諸手続きの後、然るべき分配でご遺族に渡ります。分配に関しての詳細は、当施設ではお答え出来ません。市役所か、葬儀業者にご相談ください」
何故こんな事後処理の話をしているんだ?
「はい」
「他に、何か聞いておきたいことはありますか?」
「……あの!」
自分でも思わぬ声量でやり取りを遮った。
普段なら小恥ずかしくて赤面していただろうが、そんな余裕は今は無い。
「夢が必要ないって……どういうことですか?」
奥さんは顔を背けた。
「ご主人と約束してたんですよね。一緒に夢をみるって。それなのに必要ないっていうのは、どういうことですか」
僕は叩きつけるように疑問を投げかけた。まるで首輪を引いて前を向かせるように。
「ごめんなさい……」
口から出た謝罪の声はかすれていて、彼女の積み重ねた年月を想起させた。僕へ向けたにしてはあまりに重い。ならばこの謝罪は、僕ではなくご主人に向けられたものか。
「あなたにもお話しするべきだったわね。私は、主人と一緒に夢を見るつもりは元々なかったの」
「……何故ですか」
「それが前の夫の言葉だから」
誰のことか分からなかった。
彼女は続ける。
「前の夫は亡くなる直前に言ったの、僕の後を追ってはいけない、そして自ら命を断ってはいけないよ、と」
「……だからって、ご主人は一人で夢を見ているんですよ。あなたのいない孤独な夢を」
そこまで言って、今更気づく。頭に血がのぼり、目前の子細が目に入っていなかった。奥さんの頬に一筋の涙が伝っている。
「そうよね。ずっと迷っていたわ。でも主人が二人で見る夢の話をする度に、前の夫の言葉を思い出すの……いいえ、思い出すというのはちょっと違うかしら。彼の、自らの命を断ってはいけないという言葉が、私の生き方を決めてしまったの」
死んだ人間の言葉は、墓石に刻まれる家名なんかよりも深く人の心に刻まれる。
「命は尊いものだから? それとも周りを悲しませるから? 命を捨てちゃいけない理由なんて深く考えなかった。ただ、それが彼の言葉だったから。刷り込まれたように信じて、縋るように生きてきた」
「なら、あなたは、前の夫のことが忘れられないと……?」
「そうね。彼のことは絶対に忘れられないわ。でも、その言葉が心にあるからと言って、主人を愛していないなんてことは、決して無い。とっくの昔に、今の主人との愛の方が大きくなったと言える程に。それでも……」
次の言葉がすぐには出てこない。僕とキクコはじっと待った。
「それでもね、ずっと心のなかで私を支えていた、彼の言葉を裏切ることは出来なかったの」
二律背反に生きる苦しみは嗚咽に変わり、嗚咽は、やがて慟哭となった。
「貴方まで私を置いていってしまうの!」
彼女もまた、言霊に縛られているのだ。
「どうしてなの……!」
答えるべき者は、もう居ない。
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