近衛文麿と陸軍と戦争

北風 嵐

第1話 プロローグ


歴史に興味を持っている。それも近現代史。学んで今更何に生かすわけでもない、ただどんな時代に生きて来たかを知りたいだけである。


 近代から現代にかけて、世界史でわたしが一番興味を持つところは、第1次世界大戦からロシア革命、失敗した革命・ドイツ革命を経てナチスが登場するまで、結果、第2次大戦に至る。まさに、『戦争と革命』の時代であった。ノートを取る感覚で、このタイトルでこの時代を書いた。


 ローザ・ルクセンブルク*(独)、赤いローザと呼ばれて、レーニンの論敵として、彼女が亡くなった時、レーニンは彼女に最大の賛辞を送った。そのローザを書いた私の文章の一節を抜粋してみる。戦争というタイトルで、

「極東に血が流れる。ツァー政府(ロシア)の犯罪的政策によって、ロシアと日本の間に戦争がひきおこされたのだ。二つの国のはたらく人民は、ツァーと日本資本主義の繁栄のために、互いに殺し合わねばならぬ。世界中のプロレタリアもブルジョワも、不安のまなざしで、戦争のなりゆきを追っている。これはロシアと日本だけの問題ではないのだ。世界資本主義の運命とツァー方式の絶対主義の運命がかかっているのである」と、出だしでローザはこう書いている。二つの国の戦争とは日露戦争(1904年・明治37年)のことである。

「現在の世界の情勢の中では、二つの国の間のどんな戦争でも、利害をことにする全ての列強の武力衝突に転化し、全面的な流血を引き起こす危険がある・・資本主義の野望の特別の対象となったのは、特に巨大な自然の資源と5億の住民を持つアジアであり、アジアの中でもとりわけ中国であった」

ツァー政府が日本と戦っているのは、中国を手に入れるためであると断言し、この戦争はおそかれはやかれ、資本主義世界全体を渦中に巻き込む危険があると、すでに来るべき世界戦争を予見している

「たとい、どのような結果になろうとも、この戦争は必ずツァーリズムの埋葬に行きつく」とし、「相手にする日本は、4千5百万人の人口を持ち、国力と生命力に充ちた国、すでに多くを学び取り、近代的な十分に武装された軍隊を持ち、この武力を十分に使いこなせる国である」と、ロシアの敗北を予測している。それによってもたらされる混乱を革命に転嫁せよ!と激を飛ばし、そして、ロシアにおける革命は必ず、ロシアより資本主義が発達しているが、やはり皇帝の絶対主義の尻尾を持つドイツに革命的な状況を作り出すであろうと…、ロシア革命を予測し、ドイツの来るべき状態を予見し、労働者・農民が兵士となって殺し合う戦争、帝国主義戦争はプロレタリアートの革命的な連帯によってしか防げないと、彼女は考える。


 さて、そのロシアとの戦争を辛うじて勝った日本であるが、ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権及び東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も得る。いわゆる満州権益という奴である。そして欧米列強に並ぶアジアの強国として認められたのである。この戦争の戦死者数は8万8千人とされ、戦費は18億2千万円、国の一般予算2.6億円の時代である、その負担の大きさが分かるであろう。戦費13億円は外債(英・米)で調達している。戦線では勝利を重ねても、これ以上続けることは国力からして限界であった。

 そのことを知らない(政府もそのことは知らせなかったが)一般国民は「賠償金が取れなかった」ことに不満を持ち、「日比谷焼き討ち事件」*を起こし、戒厳令が発しされた。日露戦争の戦費返済は長く負担となって政府の財政を苦しめる。第1次世界大戦の好況でやっと大部分を返済できたのである。

 

 中国大陸に進出したことがその後どのような結末になったかは、私たちは知っている。筒井清忠氏の『戦前日本のポピュリズム』の中で、面白い人物に出会ったのだ。この人物を知ることを通じて、日本の近現代史を、何故日本はあの戦争に突っ込んでいったのか、学んでみようと思ったのである。本人は日米戦争回避に向けて努力した積りだったが、戦犯に指定され、自殺した悲劇の宰相と云われている近衛文麿である。

 五摂家近衛家は天皇家に次ぐ人臣最高の家格を誇る。京都帝国大学で河上肇(『貧乏物語』で知られるマルクス経済学者)に師事し、政治問題や社会問題に強い関心を示す。スマートで飛びぬけた長身(当時で180センチ)、そして弁舌の爽やかさは、清新で明朗な近衛イメージを作り上げ、若くして未来の宰相候補と目される。本人はゴルフもするし、また息子文隆を「自由な気風の中で学ばせたい」とアメリカの大学に留学させている。

 事実、家族で2、3年アメリカで住もうと真剣に考えた時期もあった。このような開明・開放的な家族イメージが、当時流行しだしたグラビヤ雑誌にも取り上げられ(戦後なら皇室アルバムか)、政治に関心のない女性までが、近衛首相の談話がるというとラジオの前に座ったと云われる。それほどの国民的な人気を博した。首相になる2年前(近衛は貴族院議長43歳)、1934年(昭和8年)には文隆の卒業式参列の私的なものとしたアメリカ訪問であったが、この年大統領になったルーズベルトや国務長官ハルらと会見している。それなのに何故戦犯となったのか、それを知りたいと思ったのだ。


注:ローザ・ルクセンブルク

1871年にポーランドで生まれる。両親はユダヤ人。当時、ポーランドはロシアの支配下にあった。ワルシャワ高等女学校を首席で卒業。卒業後すぐに革命組織のワルシャワ支部に入り活動、当局に睨まれるところとなり、スイスに亡命。チューリッヒ大学で自然科学、政治学、経済学を学ぶ。1893年チューリッヒで開かれた第2インターの大会で報告を行い、注目を浴びる。若干22歳であった。『ポーランドの産業的発展』の論文で博士号を取得。活動をドイツに移すため、偽装結婚してドイツ社会民主党(SPD)に入党。帝国主義戦争に一貫して反対し、レーニンのロシア革命を熱烈に支持するも、前衛独裁理論には個人独裁への危惧を指摘する。4年3ヶ月の大戦中3年4ヶ月を獄中で過ごす。ドイツのプロレタリアートも革命でロシア革命に応えるべきと、スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)で蜂起するも惨殺される。


注:日比谷焼き討ち事件

1905年9月5日、東京・日比谷公園で野党議員が日露講和条約反対を唱える民衆決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出す。しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞の国民新聞社を襲撃、内務大臣官邸を襲撃し、そうして、東京市各所の交番、警察署などを破壊、市内13か所以上から火の手が上がった。東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令を布く。近衛師団が鎮圧にあたることでようやく騒動を収めた。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。民衆が政治意識を持って暴動を起こした最初の例とされる。


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