湖畔でのひととき


 ウェズリー邸での日常が、また始まった。


 パール夫人とリロイたちが引き上げると、西の館はがらんどうとなり、寂しくなった。

 そしてグラハムは謹慎が解け、何事もなかったかのように差配している。

 いや。

 ナタリアとすれ違うたびに鋭い視線を必ず一瞬向けてくるので、心を入れ替えたわけではない。

 ようやく謹慎部屋から出たというのに、いくつか権限を取り上げられている上に、規律が厳しくなり侍女に対して憂さ晴らしもできなくなっている。

 それらは全てナタリアの仕業だ。

 恨まないわけがない。

 しかし、あの騒ぎの直後に行動を起こすほど彼は馬鹿ではない。

 今はかりそめの平和、といったところだろうか。

 警戒しつつ、問題山積みの女主人としての仕事をこなしていく日々だ。



「癒されるわあ・・・」


 ナタリアは山羊を抱きしめた。


 羊ほどではないが、ダドリーで交配した山岳地帯系の山羊は良質な毛を有し、それを集めて糸を作ることができる。

糸を縒って編んだ毛織物は絹のような光沢と滑らかな手触りがなんとも素晴らしい。

そもそもこうして触っている時点でとても心地良く、山羊を困惑させるほどにナタリアは撫でまわしてその感触を楽しんだ。

ちなみに、念のため雌を三頭送ってもらった。

子ヤギもいずれ生まれ、厩はすぐにぎやかになるだろう。


猫のティムとは違う呼吸の速さ、筋肉の付き具合、そして匂いを堪能し、ふーっと息を吐く。


「はい、ありがとう」


 腕を広げて解放してやると、めえええと一声鳴いて山羊は駆け出した。


「嫌われちゃったかしら」


 ナタリアが唇を少しとがらせると、傍らに立っていたトリフォードが困ったように笑う。


「・・・まあ、その、ほどほどに・・・」


 今日は風が穏やかで心地よい。


「私の愛が重いということかしら」


 だからつい、軽い冗談をトリフォードに吹っ掛けて、ますます困らせてしまった。


「いえ・・・、その」

「冗談よ、ごめんなさい」


 ナタリアは、馬丁が連れてきてくれたブライトにまたがる。

 ウェズリーには多くの馬がおり、当主お気に入りの三頭以外ならどれを選んでも良いと言われていたが、ここのところブライトが専用馬になりつつあった。

 若い牡馬で気分屋だが、そういうやんちゃなところもナタリアは気に入っている。


「じゃあ、ちょっと気晴らしに外へ出てくるわ」


 トリフォードももう一人の馬丁が連れてきた馬に乗った。

 あたりを見回すと、朝日はもう上がり、使用人たちも起き出して働いている。


「今日は遅くなってしまったけれど、少しだけ、湖へ行きたいのだけど良いかしら」


 朝食を用意してくれる料理人たちに迷惑はかけたくない。

 しかし、外の空気が吸いたかった。


「はい。もちろんです」


 使用人たちはおおむねナタリアに優しい。

 今は少し、甘えさせてもらうことにする。


 

 ブライトは相変わらず門を出た瞬間に開放的になるのか気持ちが逸る馬で、じれったそうに前へ前へと足を進める。

そんな彼に合わせているうちに立ち上る熱気とともにだんだん身体が温まってきた。

 次々と変わる景色、そして冷たい空気。

 ダドリーとは違い、平坦で穏やかすぎる道だけど、駆けている瞬間は里にいるような気持ちになれる。



「はーあ。いい気持ち・・・」


 湖畔でブライトを解放し、ゆっくり伸びをする。


「彼のことが気に入りましたか」


「そうね。粗削りなところがダドリーの馬たちに近くて好きだわ」


 それに、扱いやすい馬を緊急のために残しておいた方が良いとつい思ってしまう。

 たとえ、この治安に関しては万全と言われる王都でも。


「あの子が仕事に馴れてきたら、また別の子に変えるのは構わないわよ。どんな子でも私は大丈夫」


「ナタリア様は調教師としてもやっていけそうですね。その知識は旅の一座で習得されたのですか?」


 一瞬、きょとんと眼を見開いたナタリアは、しばし空を見つめた後ゆっくり頷く。


「ああ・・・。パール夫人かしら。それともリロイ?そういやこの間、三人でひそひそ話していたわね」


 リロイが木剣と真剣を持ち込んでくれた日、少し離れたところから二人が見ていたのを思い出した。


「いえ・・・。その。・・・勝手にナタリア様のことをお聞きして申し訳ありませんでした」


 慌ててトリフォードが謝罪する。

 おそらく、ぽろりと出てしまった言葉だったのだろう。


「別に構わないのよ、誰もが知っていることだから。ただね」


「はい」


「ギルフォード一族のやったことは、あなたには全く関係ないことだから。それだけは承知してほしいの」


 ナタリアはトリフォードの正面に立ち、彼の漆黒の瞳を下から覗き込む。


「ダドリーはね。最初からギルフォード一族を疑っていたの。だって、不自然でしょう。せっかく温暖で肥沃な地を手に入れたにもかかわらず、痩せて冬は寒くしょっちゅう略奪に遭う方に残るなんて。愛着があるとか当主と仲が悪いなんて言葉、信じてなかった。そもそもずっとうさん臭かったらしいし」


 ダドリーの一族の尽力でゆっくりと領地は回復していった。

 そもそも、前領主たちはこの地を嫌い王都で贅沢を極め、難癖をつけては税を上げ、領民の生活の面倒は一切見なかったのが原因だ。

 改善点はたやすく見つかる。


 やがて北国からヘンリエッタがダドリー辺境伯次期当主ジャックの元へ婚約者として入国した。

 月の女神の化身のような美貌と知性は王都でも評判で、辺境伯の妻にはもったいないと高位貴族たちは歯噛みした。

 そんな『若奥様』を会うたび舐めるように見つめるギルフォード男爵。

 何か良からぬことを企むのは明白だった。

 なので、常に警戒はしていた。

 ただ。

 あの日は少し気が緩んでいたのだ。

 領民とは仕事を通してかなり打ち解け、諸所順調に進んでいた。

 まさか土着信仰である豊穣の神に感謝する祭りの日に、主催の農民たちを巻き添えにして反逆するとは思わなかった。


「まったくあのエロおやじときたら…。あ、ごめんなさい」


 ぱっとナタリアは口元に手を当てる。


「いえ、いいですよ。その通りです。ギルフォードもトリフォードもその根底は似たような感じです。本家のトランタン伯爵は相変わらずで、その子息たちとも馬が合わなかった。だから、私はずっと主家のことも実家のことも無関心で、何も知らなかった。知っておくべきことも。今は後悔しています。ダドリー辺境伯の皆様の苦しみを知らないままでいたとは・・・」


「そこよ、アベル・トリフォード」


 びしっとトリフォードの鼻に向けて指をさす。


「はい?」


「気の合わない親や遠い親族のことであなたが責任を感じる必要は一切ないの。そもそも十二年前はあなたも子どもでしょう」


 確かナタリアより三歳くらいしか上ではないので当時十一歳くらいだ。


「そうですが、ナタリア様と弟君はもっと幼かった。なのに親から引き離されて旅に出るのは大変だったでしょう」


「別になんともないわ。むしろ毎日新しい発見ばかりで楽しかったわよ。弟と一緒なら何も怖いことはなかったし」


 身体を動かすのも知識を吸収するのも、二人でどん欲に楽しんだ。

 多少飢えても雨風に打たれても、それを乗り越えたことに何とも言えない達成感があった。

 そのせいで、ルパートはちょっと自分に懐き過ぎてしまったような気もするが。


「それにね。貴方は私が貴族の娘としてあり得ない苦労をしたと思っているようだけれど、それは違う。辺境の貴族の娘なんてどこも同じよ。隣国のサイオンとキニーネの辺境令嬢たちは私よりもっとたくましくて、馬上で大鉈振り回してがんかん傭兵の首を狩っているくらいだし、わが国の北の国境伯の令嬢も熊や大狼を相手に負け知らずらしいもの」


「それは…すごいですね。ナタリア様はその方たちと交流があるのですか」


「ええ。主に文通と本の貸し借りね。商団や旅芸人が彼女たちからの親書と耳寄りな情報を運んでくれるし」


 パール夫人主催の読書会の力は計り知れない。


「私は・・・。本当に何も知らなかったのですね」


「うーん。そんなに落ち込むことではないと思うのだけど…。敢えて言うならウェズリー騎士団にいるせいもあるかもしれないわ」


「それは、どういう・・・」


「多分、王都でばかり暮らす上位貴族たちは平和ボケしているのね。領地経営は家臣に丸投げ、軍も重職はそんな人たちばかりが就いている。自分の生活は潤ったままだから、お仲間以外のことに関心がないの。そうしたら付き従う人々も自然とそうならざるを得ない」


 手を上げて、ぽんっとトリフォードの堅い肩を叩く。


「トランタンも捨てたものじゃないわね。血族にあなたのような人がいるのだから。私もまだまだ世間知らずだわ」


「そんな。買いかぶりすぎです」


「いいえ。私はなんどあなたに救われたかわからない。いつも感謝しているの。ことあるごとに私を助けてくれてありがとう」


「ナタリア様・・・」



 さあっと二人の間を風が通った。

 枯草のざわめきが走り抜けていく。

 高いところで括っていたナタリアのとび色の髪が朝日に照らされながらつやつやと光を放ちながら舞う。

 


 あの髪を。

 ひと房手に取り、口づけできたなら。



 トリフォードはつい思ってしまう。



「そろそろ帰りましょう」


 屈託のない笑みに、従順な騎士の顔を作るよう努めた。


「はい」


 唇に指をあて、口笛で馬たちを呼ぶ。

 散歩に飽きたブライトたちはあっさり寄ってくる。


 手綱を握りしめて、トリフォードは浮かんだ情に蓋をする。


「どうぞお乗りください」


「ありがとう」


「どういたしまして」



 その指先に、触れることができたなら。


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