パンドラの箱をこじ開ける

 緻密なカッティングが施された、青いダイヤモンド。

 わずかな光を浴びただけできらきらと輝く。

 なんて美しい色だろう。


「まるで、あなたの瞳のようね。ティム」


 囁くと、ナタリアの頬にすりっと額を摺り寄せられた。

 柔らかな毛並みが気持ちがよくて、つい微笑んでしまう。

 厩舎生まれのティムは、とても美しい猫だ。

 耳から額と目元を通り背中と四つ足の上部を灰色に色づけされ、つま先には白い靴下を履き眉間から鼻筋を通ってお腹まで白い、いわゆるタキシードやハチワレと呼ばれる柄で、目は白猫の血が強いのか深い海のように青い。


「素敵なあなたには、この首輪がよく似合うと思うの。つけてみましょうね」


 額を撫でながら、すらりとした首に青い皮の首輪を装着した。

 ステキ、という言葉が理解できるのか、ティムは得意気な表情を浮かべる。

 長い尻尾がご機嫌にぱたりぱたりと揺れた。


「うん。本当によく似合うわ」


 頬に手をやり、うっとりと見つめる。


「・・・ナタリア様」


 背後から、おそるおそるアニーが声をかけてきた。


「なあに」

「その首輪・・・。本気ですか」

「ええ。これほどの使い道はないでしょう」

「ですが・・・」


 言いたいことはよくわかる。


「ティムが気に入ったなら、なおさら良いのよ」


 ぴんとしっぽを立てて上品に前足を揃え、『オレ、カッコイイ』のオーラ全開で座っている猫の首には。

 ローレンスから贈られた大きなブルーダイヤモンドの指輪が革のベルトに通されて、きらきらと輝いていた。


「猫にダイヤモンド・・・」

「安心して、今日だけだから」


 ずっとつけていたら、さすがにティムが誘拐されかねない。


「今日は特別なのよ、ねえ」


 こんどは、『トクベツ』に反応したらしいティムが「にゃあ」と応える。


「さあ、行きましょうか。お散歩に」


 ティムを抱き上げると、ナタリアは部屋の出口へ向かう。


「アニーたちは休んで。ちょっとティムに外の空気を吸わせてあげるだけだからトリフォード卿で十分よ」

「承知しました。お気を付けください」


 ほかの部屋係たちも頭を下げた。


「ありがとう」




 今日は良い天気だ。

 秋の空は高く、空気も澄んでいる。

 色づき始めた木々の葉はもうすぐ冬がやってくることを知らせているが、故郷に比べると王都の秋はかわいらしいものだ。

 ティムを抱いたまま本邸近くの庭園を歩きながら、風を楽しむ。


「さて・・・」


 東の区域に差し掛かったところで、ナタリアはティムの額にちゅっと音を立てて口づけた。

 そして。


「あらあら、てぃむ、どうしたの~」


 言いながら、彼を地面へ開放した。

 華麗に着地したティムは一度ナタリアを振り返り、にゃあ、と一声鳴くと颯爽と茂みの中へ突進していく。


「あらあら、てぃむ、いかないで~」


 ゆるく手を伸ばしてゆっくり追いかける。


「ぷっ・・・」


 背後から、こらえきれなくて吐き出された息の音が聞こえた。


「・・・笑わないの、トリフォード卿」

「いや・・・。ナタリア様の、そのあからさまにやる気のない台詞がどうにも・・・」


 そう。

 演技力はあるほうだと自負しているが、やる気はない。

 これは、周囲に対する儀礼だ。


「ああ~、てぃむ、どこにいったのかしら~」


 一応、続けることに意味がある。


「こまったわ~」


 そう言いながら、ずんずんと突き進んだ。

 東の園の中心へ向かって。



「お待ちください、奥様」


 ほどなくしてわらわらと、騎士や侍女が生垣の中から姿を現す。


「誠に申し訳ございませんが、どうか、こちらから先はご遠慮ください」


 これが、彼らの仕事だと承知している。

 東の園へは立ち入り禁止。

 今は特に。


「ごめんなさい、ここに入ってはいけないことはわかっているのだけど…」


 少し、深刻そうな顔をしてみせる。


「実は・・・。猫の首に、ローレンス様から頂いた婚約指輪をかけてしまったの」


 一同、ひっと息をのんだ。

 ここに勤める者ならおそらく全員知っている。

 ローレンス・ウェズリーがナタリアを出迎えるにあたって、仰々しいほど大きなブルーダイヤモンドの指輪をあつらえたことを。



 それを、よりによって猫の首に鈴の代わりにつけた?



「軽い、冗談のつもりだったのよ」


 こてんと首を傾げる女主人に、一気に周囲の温度が下がる。



 正気か、この女。

 使用人たちが一生馬車馬になっても手に入らない金額の石を猫の首にかけやがった・・・!



 ・・・と、内心思っていることだろう。

 ナタリアは腹の中でにやりと笑った。

 東の別邸に詰めている使用人たちはローレンスおよび家令のグラハムの支配下にある。

 あまり好意的でない彼らにはとりあえず、頭の悪い田舎の伯爵令嬢という認識で十分だ。

 と、考えていたところで、なーおう、なーおうという猫の鳴き声が聞こえた。


「あら・・・。あれはティムの声かもしれないわ」


 正確には、雄猫が縄張り争いの時にあげる鬨の声だ。


 『やあやあ我こそは、この地域最高の雄猫である』と、古式ゆかしき猫の口上を述べている。


 普段は優しい声で甘えるティムだが、やるときはやる。

 雄々しく、猛々しく、吠えている。

 もちろん相手は…。


「ああ、ティム、今行くわ!」


 長いスカートの裾を翻し、ナタリアは声の聞こえる方角に向かって駆けだした。

 もちろん、本日の足元は走りやすい編み上げブーツを仕込んである。


「お待ちください、奥様・・・!」


 誰が待つか。

 ダドリーで鍛えた脚力で走る。

 慌てた声たちを背後に捨てて、迷路のように入り組んだ植え込みを突き進むと、急に開けた場所に出た。

 目の前には優雅な装飾が施されたガゼボ。

 白いテーブルセットと、最高級の食器で構成されたアフタヌーンティー。

 そして。

 そのテーブルの端に灰色の滑らかな毛並みの猫が、四肢をつっぱり、尻尾を膨らませて声を上げてた。


『おうおう、オマエ。この前のオトシマエをつけてもらおうじゃねえか、ああん?』


 きっと、彼ならそう言っているだろう。

 なぜなら、呪詛のように続くティムの声の先には。


 ローレンス・ウェズリーがいるから。



「あら・・・。ごめんなさい。私の猫が失礼を」


 ちょっと息を切らしているのも、髪が乱れているのも演技。

 だけど、これだけは。

 驚いた顔だけは素だった。


「お邪魔・・・してしまい申し訳ありません」


 ここに、ローレンスがいるのは想定内。

 膝の上に女性が乗っているのも、もちろん。

 そして、挙式の折に見かけた女性だというのも、もちろん。

 だけど。

 これだけは、想定外だ。


「ああ・・・」


 ローレンスの膝の上に乗ったままの、薄い桃色のドレスの女性が小さく声を上げた。



 よりによって、この方だとは思わなかった。

 よりによって。



「お初にお目にかかります。ジャック・ダドリー伯爵の娘、ナタリアです」



 すかさず、ナタリアは最高の女性に対する挨拶をローレンスたちに向けて行った。

 腰を折り、低く頭を下げ、地面を見つめて深く呼吸をする。


 落ち着け。

 何事もなかったかのように、なにかも心得ているふりをしろ。


 何度も何度も己に言い聞かせる。

 

「この度は、お二人がおくつろぎのところ、大変失礼をしました」


 ナタリア・ルツ・ダドリーは、偽装結婚のためにこのウェズリーに滞在している。

 そう、言われているはず。

 ならば、ナタリアが彼女より下位だ。


「・・・どうか、頭をお上げください、ナタリア様」


 か細い、頼りない声が耳に届く。

 もう一度、深く息を吸ってから姿勢を元に戻した。

 視線を上げた先には、寄り添う二人。

 いや。

 ローレンスは膝に乗せた女性の、お腹に手をやったまま彫像のように固まっている。


「はじめまして、ナタリア様。マリア・ヒックスと申します」



 マリア。


 その名前を聞いたのは初めてではない。


 ローレンスが微動だにしないので、気の毒なことに彼女は困惑した表情を浮かべて膝に乗せられたまま自己紹介をするという喜劇が優雅な庭園で展開されていく。


 ヒックス子爵。

 彼は資産がないのに女癖が悪いことで有名だ。

 聞いた瞬間にナタリアの頭の中で情報がざっと流れていく。


「いや」


 ここにきて、ようやくローレンスの乾いた声が耳にようやく届いた。


「もうすぐ手続きが完了する。これからはマリア・バンクス伯爵令嬢だ」


 なるほど。

 ウェズリーの分家筋のバンクスの養女に経歴を書き換えたか。

 それよりも。

 重要なことはそこじゃない。


 マリア・ヒックス改め、マリア・バンクス伯爵令嬢は。

 とても美しい。

 長く波打つ金色の髪。

 ブルーダイヤモンドのような瞳。

 白くて小さな顔に、細くて長い優美な手足。

 春の妖精が地上に舞い降りたなら、このような姿だろう。


 ただ。

 人の姿になって舞い降りたその妖精は、あまりにも若い。

 いや、幼いのだ。

 骨格から推測しておそらく、十三歳か十四歳。

 なのに、マリアのお腹は膨らんでいる。


 ああ。


 ナタリアは心の中で深くため息をついた。


 これが、パンドラの箱の中身か。

 身分が低いだけなら、ウェズリーにとって造作もないことだ。

 いくらでもやりようがある。

 しかし、この国の法で結婚は十六歳からと決まっている。

 これだけは、どうにもできなかった。

 おそらく、彼女はすでに王都で知られた存在なのだろう。

 しかし生まれてくる子供が男子ならば、ローレンス・ウェズリーの嫡子として届け出を出したい。

 そのために多額の金を積んだ、偽装結婚。


 誰もが知っていて、ナタリアだけが知らなかった、真実だった。


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