第14話

「持月くんは、ルールを破ったことってないの?」


「校則なら、きちんと守ってるけど」


「そうじゃなくて」と彼女は一度言葉を切り、「もっと些細なことだよ」と答えた。


「例えば信号を無視したり、誰かの家の呼び鈴を鳴らして逃げたり、歩きスマホとか、買い食いとか、万引きとか」


「しないよ! 万引きなんて」


 彼女は窓枠に凭れながらうふふと含み笑いをすると、「私も万引きはしないよ」と笑顔で答えた。「単なる例えだから。でも、他人に対して後ろ暗いことって何かあるでしょ? それこそ隠し事とか、嘘をついたりとか」


 嘘……。


 それについて、持月には思い当たるところがあった。放課後ここへ来ることを嶋田に隠し、先生に呼ばれていると嘘をつき、さらに今しがたも後輩に対して嘘をついた。恐らくそれは彼らにとって何の害もない些細な嘘だったが、それでも彼はどこかで後ろめたいものを感じていた。


「あるんだね、やっぱり」


 口元を緩ませて悪戯っぽく微笑んだ彼女は、「嘘や隠し事のない人なんて、この世にはいないもんね」と言って彼の方に歩み寄る。


「それで、どうだったの?」


「な、なにがさ?」


「嘘をついた瞬間の気持ち」


「気持ち……」


 心苦しかった。胸が締め付けられ、身体が熱くなり、どこか気持ちも落ち着かず、汗が出て、呼吸が荒くなって、それで――。


「ドキドキしたでしょ」


「え?」


 感情の昂ぶりは、確かに感じられた。けれどもそれが自らの罪を自覚するからこそ訪れる緊張からなのか、嘘が通用したことによる高揚感であるのか、持月には分からなかった。


「それが意外と快感なんだよ。きっとクセになるから」


 目を細めてそう言うと、二本目の煙草を箱から取り出した彼女は持月の目の前でこれ見よがしに火をつけた。


「適度な背徳感は人生を味わい深くし、謂わば、<スパイス>となりうるものである」


「それは、誰の言葉?」


「もちろん、私」


「へ、へぇ」


 窓からは風が吹き込み、彼女の背後でカーテンがそよいでいる。風上に立つ彼女からは煙草の臭いと共に、華やかな香水の匂いがほんのりと漂った。その組み合わせはお世辞にも良い香りとは言い難かったが、視界に映り込む妖艶な表情と不吉に舞い踊る紫煙、背徳に満ちた色香は彼にとって初めて体験する類の高揚感を与えた。


 彼は小学生の頃、嶋田に連れられて一度だけ近所の不良が屯するゲームセンターを訪れたことがあった。その場の埃っぽい臭いや、薄暗闇の中に凝縮された欲望、怒り、暴力の気配。そんな荒んだ空気に怖気づいた彼は、嶋田がゲーム機に齧りつく後ろ姿をおずおずと眺めていることしかできなかった。


 彼女から発せられる空気や、嘘をついた際の気分はその時の感覚にも似ていた。心が落ち着かず、そわそわとするこれが、快感?


 知りたい。


「どんな味、なの?」と彼は尋ねた。


「気になる? 試しにやってみなよ」

 そう言って目を輝かせた百瀬は、「好奇心は人間の根源的な欲求だもの、全然悪いことじゃないよ」と言った。


 彼女の差し出した煙草の箱を前に彼はまたも選択を迫られたが、今回は少なからず早い決断だった。未知の領域へと潜り込み、腕を伸ばす。まるで深海に続く道のりを生身で泳ぎ進むような不安と焦燥、そして、胸の圧迫。その中にあって彼女は、一筋の光であるように彼には感じられた。


 煙草を口に咥えると、樽のような木材の匂いに加えて薄荷の香りがした。ライターで火をつけた彼女は、目の前に炎を近づける。


「ゆっくりね。初めは深く吸い込まないように」


 息を吸い込むと、味ではなくまず感触が訪れた。何かが喉を伝い、体内を渡る。続いてやってきたのは。


「げほっ。げほっ」


 ひどい眩暈だった。煙が喉を逆流し、同時に吐き気を催した。ぐらつく身体と、視界がぐるぐる回る感覚。頭の重みに耐えられなくなった彼は、思わずバランスを崩した。


「大丈夫? ほら、座って」


 持月の身体を支えた彼女は、ゆっくりと椅子に座らせた。その際に柔らかな胸の感触が背中に伝わると彼は咄嗟に身体を強ばらせたが、他にできたのは指示されるまま椅子に腰掛け、彼女の潤った口元を物欲しげに眺めることくらいだった。


「慣れないうちは深く吸い込まず、少し吸ったらすぐ吐き出すの」


 持月は涙目で頷くと、試しにもう一度煙を吸い込んだ。やはり先ほどと同様に息が苦しくなり、彼はひどい眩暈に襲われた。


 これが、未知の味わい。堪らず目を閉じた彼は、目まぐるしく回転する暗闇の中で、その余韻を噛みしめていた。

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