第十八章

第39話

 一人きりで猛勉強したにも関わらず推薦入試に落ちた持月は、両親から放課後すぐの帰宅命令を受けた。端から勉強以外の用事など持ち合わせていない彼にとってその制約はおよそ何の罰にも当たらず、好都合とばかりに放課後は自室に篭もり続けた。


 時おり玄関の呼び鈴が鳴り、嶋田が自宅を訪れることもあったが、母親の判断で追い返されるのをこっそり耳にしていた。


 やがて冬が訪れ、冬休みになった。年が明けると窓から眺める景色は代わり映えしない枯れ木ばかりが覆っていた。その年は雪が積もるほどに寒い日もあり、そんな日は外で雪だるまを作る近所の子供を眺めて過ごした。


 すべてが作り物みたいに映っていた。すべてが幻で、自分は今までずっと部屋のベッドで眠りながら悪い夢を見ているだけなのではないかと思った。


 閉鎖的な空間で過ごすうちに頭の中は英単語や数式で覆いつくされ、徐々に彼は何も感じなくなった。食事を摂り、眠る。自分は受験をするために生み出された生き物で、それ以上でも、それ以下でもない。


 最後に受けた模擬試験でついに持月が合格圏内の点数を叩き出すことに成功すると、幾分か安心した様子を見せた両親は食卓に座る彼を般若のような形相で見つめることもなくなった。


 それは珍しく両親が上機嫌に酒を煽っていた夜のことだった。机に向かって追い込みを行っているとそばに置いた携帯電話に着信があり、どうせ嶋田だろうと彼は放っておいたが、いつまで経っても鳴り止まないので電源を落としてやろうと乱暴にそれを掴み取ると、液晶には未登録の番号が表示されていた。


 きっと間違い電話か、嶋田が番号を変えただけに違いない。そうは思ったが、どうにも気がかりになった持月は通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。


「もしもし」


「…………っ……」


 通話口の向こうからは、静かにすすり泣く声が聞こえてきた。鼻を啜り、時おり空気を震わせながら息を吐き出している。耳に広がるその感覚には覚えがあり、彼は声の主にすぐ思い当たった。


「百瀬……?」


 彼の問いかけによって空気の揺れは僅かに治まったが、その直後にひときわ大きなため息が漏れ聞こえると、氷柱のように鋭利なもので突き刺されるような感触があった。


 彼の中に眠っていたはずの刺激が、瞬時に呼び覚まされる。


「……今から、会えない?」


 どこにいるのかと尋ねると、彼女は掠れた声で高校の最寄り駅を口にしていた。持月は反射的にコートを羽織ると、乱雑にマフラーを巻いてすぐ家を飛び出した。


 その日の夜間の気温は氷点下を下回り、今にも雪が降り出しそうだった。自転車を走らす指先が寒さに震えて次第に感覚を失ったが、彼は構わずにペダルを漕ぎ続けた。


 自宅の最寄り駅に着くと自転車を放り投げるように降りた持月は、発車直前の電車に飛び乗って目的の駅を目指した。


 約束の駅に到着した彼は構内を探し回ったが、百瀬の姿は窺えない。ひとまず改札を出て電話をかけてみるものの、呼び出し音が延々と続くばかりで繋がる気配はなかった。


 表に出ると寒風が吹き荒れ、一瞬にして鳥肌が立ち始めた。真っ直ぐに歩けば商店街の入口がある。この辺りには深夜まで営業するカフェがいくつか点在しているため、その中のどこかにいるのかもしれないと考えた持月は急いで歩き出そうとしたが、視界の右端に映ったベンチに一人ぽつんと佇む人影が目に入った。


 薄暗がりの中、ひっそりと忘れ去られたように置かれたそのベンチに近づいてみると、俯いたまま身体を抱えて小刻みに震えている百瀬の姿があった。


「こんな寒いのに……、なんでそんな所にいるんだよ!」


 彼の怒鳴り声に驚いた百瀬は身体をびくりと強ばらせてから顔を上げると、涙の跡が残る頬を見せながら、「あぁ、……持月くんだ」と言って微笑んだ。「――そういえば、寒いね」


 彼女は明るく答えようとしたが上手くいかず、両手で身体を抱いたまま、「……こんな姿、人に見られたくないもん」と震えながら話した。


 持月は巻いていたマフラーを彼女の首に掛け、近くにあった自販機で温かい飲み物を買った。それを手渡した際に触れた指先はひどく冷え切っており、隣に腰掛けた持月は肩に腕を回しながら彼女を抱きしめた。


「嫌なら、言ってよ」


「ううん、暖かい」と答えると、彼女は持月に身を寄せ始めた。


「…………」


 一体、何があったの?


 喉先までその言葉が出掛かったが、それを飲み込んだ持月は訳も聞かずに彼女を抱きしめ続けた。あの日の高揚した温もりとは打って変わり、今の彼女はまるで死人のように熱を失っている。


 しばらくして凭せ掛けていた頭をどけると、彼女はすっかり冷めてしまった飲み物を一口含み、「家に、帰りたくないの」と呟いた。

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