第十章

第22話

 中間テストも無事終わり、六月には滞りなく体育祭が行われた。残念ながら優勝とはいかなかったが、夜には打ち上げと称して同じ所属だった隣のクラスと合同で近所の河川敷に集まり、各々が酒や菓子を持ち寄った。


 これは持月の高校に代々続く伝統行事のようなもので、普段は交流を持たない連中も今夜だけは無礼講と言わんばかりに混ざり合い、どんちゃん騒ぎを繰り広げた。


 そんな非現実的な交流を可能にしたのは、ひとえにアルコールという存在が大きかった。正常な判断能力を麻痺させるあの液体は容易に皆の警戒心を緩め、耐性のない者から順に本来の姿を晒し始めると、グループの垣根を越えて男女の区別すらなく乱れ狂った。


 その光景は周囲の者にとっては何とも心踊る体験に映っているようだったが、持月には混沌とした空気がどこか恐ろしく感じられた。


「お前、あんま飲んでなくねぇ?」


 生ける屍のごとく身体をふらつかせながら持月を指差したのは、普段ならば教室で挨拶すら交わしてくれそうにない運動部の男だった。


「ぼ、僕は……」と言葉を詰まらせる持月は、実は一度もアルコールを口にしていない。


 初めはジュースの缶を持っていても特に違和感を持たれなかったが、徐々に皆が酔い始めると次々に一気飲みや飲ませ合いが始まり、その空気に危機感を覚えた彼は誰かが飲み干した空き缶を手に、ひっそりと周囲の様子を伺っていた。


「ほら、それもう入ってねーからこれ飲めよ」と新しくプルタブを開けたばかりの缶チューハイを手渡された持月は、これを口に含めば自分もあんな風に幼児化を、ないしは野性化を遂げてしまうのではないかとひときわ恐ろしくなった。


 すると、それを少し離れた場所から見ていた嶋田が「おっ、それ一口貰える?」と彼の手から素早く缶を奪い取ると、一口含んだ途端に大袈裟な反応で味を賞賛し始めた。


 その発言が周囲の注目を集め、何人かで回し飲みを始めてさらに大きな盛り上がりを見せた。


 吐しゃ物を吐き出す者や所構わず眠り始める者、大泣きする者の隣で腹を抱えながら笑う者など、まるで理に適わない行動を取る者たちの荒れ狂う様子は、持月には欠陥だらけの人形劇のように映った。


 ようやくそれらの騒ぎが一段落すると、その後はいくつかのグループに別れて各々が話に耽っていた。持月が座った付近でも、何人かの男子が集まって女子を見ながら卑猥な話に花を咲かせている。


「百瀬ってさ、顔はガキっぽいけど意外といい身体してるよな」


「さっき小宮がパンチラしたんだよ、すっげーエロい下着履いてやんの」


「いやいや、それより大森のデカパイだろ。それこそ大盛りだぜ」


「つまんねぇ」


「でもやっぱ、須藤が最高だよな。物を見るような冷たい視線がたまらん。理想のツンデレさんだわぁ」


「デレはいつ出るんだよ?」


「それな!」


「きゃっはっは」


 私利私欲にまみれた会話を繰り広げる彼らは、本能を曝け出している。その光景は持月が憧れにも近い感情を抱いた非道徳な存在のはずだったが、何故だか彼の心は全くといって良いほど揺り動かされなかった。


 彼らの心に、罪の意識はあるのか。


 危機感の希薄さゆえ、彼から見れば目の前の行為は非道徳を真似た『おままごと』にしか過ぎず、引き寄せられることはなかった。


 会がお開きになると、それぞれが同じ方角へ向かう複数のグループに別れた。唯一の同伴者である嶋田は酔いのひどい連中をまとめて引き受けることになってしまったので、持月は一人で帰ることになった。


「待ってぇ。そっち同じ方向だぁ」


 お道化た様子で背後から彼に話しかけたのは、頬を赤らめた百瀬だった。肌にフィットしたサマーニットに薄手のロングスカートを履いた彼女は、制服姿よりも胸が強調されて見えた。


「良かったじゃん、モモ。一人で帰るよりはマシっしょ」


「そうそう。強そうなボディガードだわ」などと周囲の女子たちにからかわれながら、彼女は持月の元へと歩いてきた。


「いいの? 僕と二人で帰っても」と持月がこっそりそう尋ねると、「いいのいいの。多分あいつら覚えてないし」と彼女は小声で答えた。


「それに君には悪いけど、ちょっとした罰ゲームみたいに思われてるから」


「……そう」


 彼女の言葉に俯いた持月は、一人で先に歩き出した。それに慌てた百瀬は背後から彼のTシャツの裾を掴むと、「怒った?」と上目遣いに横から覗き込んだ。「……私は、そんな風に思ってないよ?」


「わ、わかってるよ」


 普段の攻撃的な物言いと違い、どこか必死に言い訳をするような彼女の姿を見た持月は、不覚にもときめいてしまった。


「そう? なら良かった」と笑みを浮かべた百瀬は、彼の隣を歩き始めた。


 今日は至近距離に寄っても香水の甘い匂いが感じられず、顔に化粧をしている気配もない。そんな彼女の姿を健全だと捉えた持月は、同時にどこか無防備な姿のようにも感じていた。


 彼らは人気のない畦道を並んで歩いた。約束の場所とは似てもつかない平凡な田園風景だったが、こんな形で二人きりの散歩が実現するとは思ってもみなかった持月は、緊張で身体が強ばっていた。一方で彼女は無邪気に鼻歌を歌い、軽快にステップを踏んでいる。


「うっ、気持ちわるぃ」


 その勢いも少し歩くとすぐに失われ、彼女の足運びは徐々に乱れ始めた。他の者の前では正気を保っていたが、恐らく我慢していたのだろう。今では壊れかけの糸人形のように足元がおぼつかない。


「飲みすぎだよ」


「だってぇ、みんなが煽るんだもん」


 持月の肩に掴まってゆらゆら揺れる彼女からは、仕事帰りの父が纏うものと同じお酒の匂いと、ひと仕事終えたような清々しさが漂っていた。


「今日は特に過剰な演技だったね」


 持月がそう言うと、彼女は「ひっく……」と一度しゃっくりをしたのち、「この間から玲奈ちゃんに睨まれてるから、ちょっとでも挽回をと思って」と答えた。


「えへへ。君にだけは嘘をつくのが下手みたいだね。余興は楽しんでもらえたかしら?」


「うん。百瀬はすごいよ」


 彼は本心でそう言ったつもりだったが、「別に、すごくなんか……」と小声で答えた百瀬はどこか複雑な表情を浮かべている。


 その後は無言で持月の肩に掴まって歩いていた彼女だったが、しばらくすると吐き気が治まったのか、「私のお父さんはね――」とぶつぶつ一人で語り始めた。

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