第17話

「ただいま」


 すっかり陽も落ち、部室を後にした百瀬が帰宅すると、玄関には見慣れた黒いチャンキーヒールブーツの隣りに、ひと回り大きなワークブーツが並んでいた。今日は両親ともに帰りが遅くなる予定なので、あの人がまた男を連れ込んでいるに違いないと予想した彼女は、すぐに二階の自室に逃げ込もうと足を忍ばせて階段を上った。


 腹を打つような騒音。二階に近づくにつれて大きくなるそれに耳を塞ぎながら、百瀬が自室の前までたどり着いた時だった。ドアノブに手を掛けたところで隣室の扉が開き、中からキャミソール姿の義姉が姿を現した。コテで毛先を巻いた長い金髪を掻き上げながら目の前の階段を降りようとする彼女は、視界の端に百瀬を捉えると素早くそちらを振り返った。


「なんだ、びっくりさせないでよ」


「あぁ、……ごめんね」


 そう言って百瀬が部屋に退散しようとすると、それを呼び止めた彼女の義姉は手招きしながら、「ちょうど良いや、二人分の飲み物とお菓子用意してきてよ」と言った。


 学生鞄を抱きしめるように持っていた百瀬がそれを床に置き、「うん。飲み物は何が良い?」と笑顔で尋ねると、彼女は大きな欠伸をしながら「コーヒーかなぁ」と言った。「あ、こないだの煎餅みたいなやつとか出さないでよ、ダッサいし」


「あぁ、うん。……ごめんね」


 俯いて百瀬が階段を駆け下りようとすると、すれ違いざまに義姉は彼女の腕を掴んだ。「ねぇ、さ。そんなに何でもかんでも謝らないでよ。まるであたしが責めてるみたいじゃない」


 壁際に押し付けられた百瀬は青ざめた表情で首を振りながら、「ち、違うの。これは口癖みたいなものだから、美優ちゃんが悪いなんて別に全然思ってなくて……」


 百瀬がそう言うと彼女は手を離しながら「ダッサい口癖」と呟き、「早くお願いねぇ。あたし眠くて死んじゃいそう」と扉の方へ戻って行った。


 義姉がのそのそと室内に入る後ろ姿を見送った百瀬は、階段を降りて台所に向かった。義姉とその父親がこの家にやって来たのは百瀬が高校に入学して間もない頃で、その時の義姉は高校三年生だった。


 母親の再婚を機に我が家に住み移った義姉の美優は、高校三年生にして転校を余儀なくされたことに対してひどく腹を立てていた。それもあってか、そもそもの性格の問題なのかは分からなかったが、美優は横柄な態度で百瀬に接することが多かった。それも両親のいない日に限ったことで、母親の前では少々お茶目な性格をした快活な女の子を演じているものの、百瀬と二人きりになると途端に本性を露わにし、使い走りのように彼女を使った。


 昨年から大学に通い始めた義姉は両親の留守を狙い、何人もの男を部屋に連れ込んでいる。隣室で過ごす百瀬にとってそれは堪ったものでなく、見知らぬ男と廊下で遭遇してしまうことや、義姉の喘ぎ声を聞かされることが多々あった。


 二人分の珈琲を淹れ、母親がストックしていたマドレーヌを皿に盛ると、それらをお盆に乗せて百瀬は二階に上がった。扉をノックするとすぐに顔を出した義姉が「おそい」と不機嫌な声で応え、ちょうど視界の先に座って煙草を燻らせていたトカゲ顔の男性は「お、制服じゃん!」と声を上げて百瀬の身体をまじまじと見つめ始めた。


「なに、お前。妹なんていたの?」


「まぁね」


 鬱陶しそうに答える義姉を近くに呼び寄せた男は、彼女の耳元に向けて何やら囁き始めている。「……ごゆっくり」と言い残して扉を閉めた百瀬は、廊下に置きっぱなしになっていた学生鞄を拾うと急ぎ足で自室に入った。


 部屋の鍵を閉めてベッドに腰を下ろした百瀬は、深いため息を漏らすと鞄を開けて煙草の箱を取り出した。その拍子に目に留まった文庫本を掴んだ彼女は、そのまま背表紙に書かれたあらすじを読み始めた。持月におすすめされて借りた本だったが、「つまんなそう」と小さく漏らした彼女は、それでいて顔を綻ばせている。


 そこへ唐突に扉を叩く音が聞こえ、百瀬は急いで鞄に煙草を隠してから立ち上がった。廊下に立っていたのは予想した通り義姉で、彼女は指で毛先をくるくると巻きながら、どこか不服そうな表情を浮かべている。

「どうしたの?」と百瀬が尋ねると、義姉は彼女の身体をじっと見つめ、「ちょっと彼氏にお願いされてさ、貸して欲しいんだけど」と言った。


「うん。えっと……、何を?」


 義姉の視線は変わらず百瀬の胸元の辺りを捉えており、それを見ながら彼女が首を傾げると、「――だから、制服」と相手は言った。


「制服?」百瀬は自身の纏う制服を眺め、「でも、それなら美優ちゃんも高校の時のやつまだ持ってるよね?」と顔を上げて尋ねたが、義姉は目を背けながら、「あたしのはセーラー服だし」と答えた。


 それを聞いた瞬間、隣室の男の性癖を察した百瀬は思わず全身に鳥肌が立ったが、態度には出さず、「うん、分かった」と笑顔で答えるとその場で脱ぎ始めた。


 しばらくすると隣室からは姉の喘ぎ声が聞こえ始めた。百瀬はそれを聞きながら、下着姿のまま部屋の灯りもつけずに窓際で煙草を吹かしていた。

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