第六章

第12話

 休憩室で持月が読書をしていると、珍しく携帯電話が鳴った。近頃は目覚まし時計以外に役割を持たないこの端末が自発的に活動する際は決まって広告の通知か、あの男からの連絡である。


「もしもし」


「おう、薫。会ってきたぜ! 情報もばっちりだ」


「何のことかな?」


 分かりきった話題に対し、持月は惚けたふりをした。同窓会は先週末に行われ、今日は火曜日。どのような内容だったのか(何より百瀬が出席したのか)が気がかりで、彼はやきもきしていた頃合だった。


 嶋田は表向き呑気に受け答えをする彼に対して興奮した声で、「おいおい、百瀬の事だろうが!」と一喝した。


「あぁ。その様子じゃ、百瀬も同窓会に出席したんだね」


「したんだね……、じゃないよ! すっげー垢抜けててさ、マジで一瞬誰だか分かんなかったわ」


「へぇ」


 あくまでも興味のない風を装うべく持月は煙草を掴み、煙を吸い込みながら心の安寧あんねいを図る。それでも空いた方の手は、指先で文庫本の表紙を忙しなく叩いていた。


「何て言うかなぁ。妙に色っぽくなったっていうか。昔はそんなに目立たない感じだったろ? この前会った時なんて、ノッティングヒルの恋人に出てた頃のジュリア・ロバーツ並みだったぜ」


 何を言う。彼女は昔から艶っぽい女だったじゃないか、と持月は咄嗟に言い返しそうになったが、そこはぐっと堪えて平静を装い、「へぇ、ハリウッドクラスとは驚きだね」と調子を合わせて答えた。「代表作で言うなら、プリティ・ウーマンの方が妥当じゃない?」


「それはさすがにちと若過ぎだろ」と嶋田は笑いながら、「とりあえず、詳しい話は会ってしようや!」と答えた。「ま、何か奢れよ」


「商社勤務がアルバイトに金をせびるのか? 僕には君をデートに誘えるだけの余裕はないよ」


「まぁ聞けって。聞いて驚けってぇ!」と叫んでから嶋田は一度咳払いをすると、「今回、わたくしはなんと、彼女の現住所をゲットするのに成功致したのでございます」と静かに伝えた。


「…………」


 灰皿に落とすつもりが、気づけば持月は誤ってコップの中に煙草の灰を落下させていた。それを見てさらに動揺した彼は、灰皿に煙草を押し付ける際に溜まった灰を机の上にまき散らした。


「よくもまぁ、そんなことができたもんだね」


 探偵に転職すれば相当稼げるのではないかと思いながら持月は急いで机の上を布巾で拭くと、コップの水をシンクに捨てた。彼女は自分について何か話をしていなかったか。そう尋ねたい衝動を必死で抑えつつ、持月は携帯電話を肩で支えながら布巾を水で洗った。


「それで」と濁った水を眺めながら言葉を発しかけた瞬間、視界の端に人の気配を感じた彼はそちらに視線を遣った。入口付近にはいつの間にか綾香が立っており、口元を押さえて彼を見つめている。


 持月は慌てて彼女から目を逸らすと、「ごめん。そろそろ休憩時間が終わるから、また今度ね」と早口に言った。


「おう、そっか。それじゃ今度改め――」と嶋田はまだ何か言いかけていたが、持月は構わずに電話を切った。


 扉に凭れてそれを眺めていた綾香は電話が終わると彼の方へ近寄り、出しっぱなしの水道の栓を締めながら「吸うときは、窓開けてね」と言って微笑んだ。


 綾香はそのまま椅子に腰掛けるとすぐに携帯電話を取り出したが、画面をじっと眺めながら、「ご機嫌だね。もしかして彼女できたの?」と独り言のような調子で尋ねた。


「何言ってんだ。災難続きで参ってたところだよ」


 それを聞いて顔を上げた綾香は、からかうように笑みを浮かべ、「焦って煙草の灰をばら撒いちゃったもんね」とテーブルを拭く彼の動きを真似して見せた。「私、吹き出しそうになっちゃったよ。薫さんって、実はホールの方が向いてるんじゃない?」


「別に、焦ってなんか」


「あはは。珍しいね、取り乱しちゃって」


 そう言って頬杖をついた彼女は、洗った布巾を机の上に放り投げる持月を上目遣いに眺め、「同窓会、行かなかったんだ?」


「初めから聞いてたんじゃないか」と諦めたように持月が肩を竦めると、綾香はまたも声を上げて笑いながら彼を指差し、「ねぇ、今日は来れるでしょ?」と言って立ち上がった。


「ああ」


「じゃあ、今夜はうちに泊まってよ。新しい下着買ったの。見る?」


「おい、よせよ。誰か来たら――」と持月は答えつつ、目の前でワイシャツのボタンを外そうとする彼女を制止した。


「それで、……泊まってくれるの?」


 彼女から宿泊を勧めてくるのは、初めてのことだった。最近では、彼氏からの電話を合図に持月が部屋を出て行くのがお決まりになっている。それは行為の途中でも例外ではない。何度か通話を終えるまで待っていたこともあったが、やはり一度途切れたムードを盛り返すことは容易ではなく、通話後にどっと疲れた表情を浮かべる彼女が見たくないこともあって、彼は電話が鳴ると帰り支度を始めるようになった。


「別に構わないけど、彼氏は大丈夫かい? 定時連絡があるだろ」


 慎重な綾香にしては珍しく大胆な発言に、持月は違和感を覚えていた。彼氏と喧嘩でもしたか、それとも……。


「だからやめてよ、その言い方」と煩わしそうに答えた彼女は、目を逸らしながら俯き、「たぶん、平気」と小声で言った。


「…………」


 彼らは個人的な干渉をしないと決めている。そのため持月はあえてそれ以上の問いかけをしなかったが、今日の綾香は彼に何かを訴えたがっているように思えた。彼が部屋を立ち去る際に見せる表情と同質の物憂げな空気。それはどこか傷を負ったように弱々しく、言葉に出せないことにもどかしさを覚えている。


 彼女は、僕が欲しいのかもしれない。


 持月はふと、そう思った。


 彼らの間では、隠し事はあまり意味をなさない。互いの心の機微を瞬時に察知してしまう彼らは、決まって相手が必要とするものをさり気なく分け与えることができた。綾香に出会って以降、持月は何度も彼女のそういった細やかな気遣いに助けられた経験がある。しかしながら、その感覚を果たして愛と呼んでも良いものか二人には確信が持てず、互いが一歩引いた位置で見つめ合う日々が続いていた。


 綾香は前に進もうとしている。どこへ続く道かも定かでないまま、それでも本能に従って身体が動き出そうとしている。その感覚を持月が初めて経験した記憶にもまた、やはり百瀬冬華が関わっていた。


「強い酒でも買っていこうか」


 優しくそう答えた持月は、新たに煙草を引っ張り出して窓際に移動した。窓を開いて煙草を吹かし始めていると、背後から彼に近寄った綾香は腰に手を回しながら身体を密着させた。


「今日はあれ作ってよ、……美味しいやつ」


「ああ」


 彼が小さく頷くと、綾香は一度大きく息を吸い込んでからそれをゆっくり吐き出し、素早く椅子に戻った。それからの彼女は持月が休憩室を去るまでの間、無言で携帯電話を眺めたまま顔を上げなかった。

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