第五章

第9話

「――でさぁ、彼氏がみんなの前でもうちのお尻触ってきたから、思いっきりひっぱたいてやったわ」


「えぇ、ウケる」


「さすが!」


 教卓の前で年上の彼氏について自慢げに語っていたのは、クラスの女子の中心的存在である須藤玲奈れいなだった。


 艶のある長い黒髪に秀麗な顔立ちをした彼女は、教師陣からも一目置かれるほど清楚な佇まいの女生徒でありながら、それとは裏腹に仲間内では言葉遣いが汚らしく、厭らしい性格をしていた。彼女の周りを囲む数人の女生徒は、必死に合いの手を入れている。


「すごいねぇ。大胆な彼氏さんだねぇ」


「いやいや、モモちゃん、そっちに注目しちゃう?」


「モモは天然だからね、仕方ないよ。それより彼氏さんってさぁ」


 百瀬は彼女らの中では<モモ>という愛称で呼ばれ、少々頭の弱い女だと認識されているようだった。彼女は持月と二人きりで話した際の姿からは想像もつかないほど間抜けな声を発し、印象がまるで異なっている。そのため彼は百瀬という人物の本質が全く見えて来ず、よく目で追ってしまうことがあった。


「この教室さぁ、自販機がマジ遠すぎぃ」


「そうそう、各教室に設置しろって感じ」


「各教室って! ウケる」


「さすがに各階が限度じゃないかなぁ」などと取り巻きが口々に話すなか、須藤玲奈は艶っぽい仕草で赤いネクタイを緩めると、ワイシャツの第一ボタンを外しながら「何か、喉渇いちゃった」と呟いた。


 その冷淡な声色に周囲の女生徒達は静かなざわつきを見せ始め、自販機の種類も最悪だ、値段をタダにしろなどと大袈裟に不平を連ねることで彼女の気を紛らわせようとしたが、須藤玲奈はまるで輪の中に針を突き立てるように、「ねぇ、何か買ってきてよ」と一人を指差した。


 それは愛美あいみと呼ばれる小柄な女生徒で、戸惑う彼女をよそに取り巻きの女子たちも便乗してお使いを頼み始めていた。


「あっ! あたし先生に呼ばれてたんだった」

 惚けた声でそう言いながらグループ内に蔓延する不穏な空気をぶち破ったのは、百瀬だった。「じゃあ、あたしも一緒に行こっかな」


 百瀬は愛美に付き添い、二人でそそくさと教室を出て行った。残った連中は大声で騒ぎ立てながら、時おりケラケラと下品な笑い声を上げている。中でも異彩な空気を放つ須藤玲奈は、まるでそれら下劣な民衆を率いる女王のような存在だった。彼女が何かを発言すると周囲の空気が一瞬にして凍りつき、気づけば何者かは鎌鼬かまいたちのように鋭利な刃物で切りつけられている。


 一見親しげに思えるグループ内にも、確かな上下関係は存在する。観察をするうちに持月はそう思った。


 周囲の男子生徒は机の上に座って足を組む須藤玲奈の姿を眺めながら、ひっそりとその容姿について話題に挙げていた。彼女の整った顔立ちや肉付きの良い身体は男子に定評があったものの、持月からすれば須藤玲奈という存在はあまり魅力的には映らなかった。


 女性経験の乏しい彼にとって、それがどのような要因から導き出されるものか上手く説明は出来なかったが、さも当然のごとく机の上に腰掛ける姿はあまり褒められた行為ではなく、彼女にはまるで奥深さが感じられなかった。


 例えるならそれは精巧に作られた張りぼての宮殿で、正面から眺める分には絢爛けんらん豪華な佇まいを周囲に印象づけるものの、突風がひと吹きすればちんけな紛い物は容易に瓦解し、醜く朽ち果てた材木や雑草で荒れ放題の土地が姿を見せるように思われた。


 持月が脳内にそんな想像を巡らせながら須藤玲奈を眺めていると、いつの間にか隣で屈んでいた嶋田は彼の視線を追い、「薫よ。面食いなのは悪いことじゃないが、須藤だけはやめとけ。競争率が高すぎる」と小声で言った。


「え? ち、違うよ! 僕はそんなつもりじゃ……」


 持月が焦ってそう答えると、「なんだ、違うのか」と嶋田はつまらなさそうに舌打ちした。


「でもまぁ、薫も今年は受験なんだし、女にうつつを抜かしている場合じゃないんだぞ」


「亮くんも確か、同い年だよね?」


「俺はあれだ、推薦枠狙っていくから」


 それを聞いた持月は深いため息を漏らし、「良いよね、優等生は」と答えながら再び須藤玲奈にこっそりと目を遣った。その姿はまさしく薔薇のように可憐で棘のある存在のように思われたが、あの日見た百瀬にはそれを上回る何かが奥底に隠されているのではないかと彼は感じていた。


 その日のホームルームでは委員会決めが行われ、周囲の推薦から学級委員長に就任した嶋田の意向で持月は図書委員に任命された。持月の方にも特に異論はなく、彼は嶋田に頼まれたことを基本的に断らないようにしていた。


 強いて言えば、これが体育委員だったなら体育祭の当日に全校生徒の前でラジオ体操をしなければならないので、そんな辱めに遭わずに済んで良かったとは思っていた。


 女子の図書委員は、百瀬が立候補をしていた。


「座っていられそうだし、何か楽そうじゃない?」


 彼女は隣の席の子にそう語っていたが、それを聞いたさばさばとした雰囲気の隣人は、「いや、ずっと座ってるわけないし、本とか運ぶの結構重労働じゃん?」と冷静な分析を寄越した。


「あ、そっか。まずったなぁ」と焦った様子で彼女は答えたが、かといって誰かに代わってもらう様子もなかった。

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