第29話 神崎沙綾の土日

「よし……」


 今日は午前中から昴のマンションにきて、カーテンを洗い、水回りを徹底的に掃除した。午後は昴にお願いされていた空き部屋も、クローゼットの中まで水拭きし、隅から隅まで塵埃がないように何度も拭いた。


 ピカピカになった部屋を満足げに見た沙綾は、お仕事としてこの家にくるのは最後かもしれないと、感慨深い気持ちになる。

 もちろん昴とのお付き合いは継続しているのだから、この家にくることもあるだろうし、その際に料理をしたり掃除をしたりするんだろうとは思う。沙綾としても、二人で家でまったりデートと言われても、昴とただ会話をするよりは家事をして忙しくしていた方が居づらくはない。


 まだスーツ弁償の金額を完済するほど家事のアルバイトをしてはいないが、沙綾が引っ越しを決意した為、アパート更新費用として貯めていた貯金が丸々浮くことになったのだ。

 決意したのは昨晩なんだが。

 というのも、ここ数日連続でお隣さんから夜の営みの声が聞こえてきて、しかも昨日仕事帰りにばったりお隣さんとその彼女に遭遇した際、「同棲することになりました」というご報告を受けてしまったのだ。これから毎晩アレを聞かされるのか……と思った瞬間、沙綾は梨花に電話をかけていた。


「梨花姉ちゃん、沙綾だけど」

『どうした? 引っ越し決めた? 』

「……うん。相手の人だけど……」

『良い人よ、私が保証するわ』

「一度お会いして……」

『あぁ、いらないいらない。あっちむっちゃ仕事忙しいから中々時間取れないだろうし、今は東京にすらいないからね。下手に時間作って欲しいなんて言うと迷惑だからね』


 全面的に梨花を信用している沙綾は、それでいいのか? と思いながらも「うん」と頷く。会社への報告は梨花がしておいてくれることになり、引っ越しの日付(来週木曜日)まで決められてしまった。「そんなに急に引っ越し業者にも連絡してないに」と言うと、『葉月さんが運んでくれるから、あんたは荷造りだけすれば大丈夫。時間空けたら沙綾はやっぱり止めたとか言いかねないから、早い方がいいのよ』と押し切られてしまった。引っ越し用の段ボールも前日にはなるが葉月が持ってきてくれることになった。


 引っ越しの手伝いをお願いする立場で、平日はちょっと……とも言い辛く、気がついたら色々と段取りを決められ、『引っ越す前に不動産屋に引っ越すこと伝えておきなさいよ』と言われ、勝手に通話を切られた。


 そう言えば相手の名前や引っ越し先の住所を聞いていなかったと後で気づいたものの、隣から甲高い悲鳴のような喘ぎ声が聞こえてきたので、沙綾は毛布をかぶって音を遮断することに気を取られ、結局梨花に電話をかけ直すことを断念したのだった。


【沙綾】お掃除が終わったので帰ります


 昴の家を出る前に昴にラインを打つと、すぐに昴からライン電話がかかってきた。


『沙綾ちゃん、お疲れ様』

「お疲れ様です」

『月曜日には商談が成立すると思うから、水曜日には帰れそうだよ』

「そうですか、お疲れ様でした」


 他社との競合で、なかなか自社に決定されなかった案件だと聞いている。名古屋支店でも決定打に欠けると、東京本社に回ってきた仕事で、下準備や根回ししてから行ったとはいえ、それをほんの数日で契約にこぎつけた昴の営業手腕は大したものである。


『うん、本当に疲れた。沙綾ちゃんに癒やされたいな。あー、会いたい。本当なら今日は沙綾ちゃんの手作りご飯が食べれた筈なのに』

「私が癒やしになるとは思わないけど、ご飯くらいいつでも……」

『本当?! じゃあ水曜日、ご飯作りに来てよ。今日の夕飯の代わりに。そしたらすっげ頑張って仕事して、なるべく早く帰るし』

「水曜日はごめんなさい、無理なんです」


 葉月が段ボールを持ってきてくれるから、詰められる物は詰めてしまいたい。


『……何か用事ある? 』

「用事……と言えば用事です」

『何の用事とか聞いて良い? 』

「はい。引っ越すことにしたので荷造りをしようと思いまして」

『それは……前に沙綾ちゃんの従姉から紹介されたっていうルームシェアの話かな? それとも別口? 』

「ルームシェアです。まだ御本人とは会えてないんですが」

『そう……そっか。ならしょうがないね』

「それと、アパートの更新費用が浮いたので、浅野さんの家のお掃除のバイト、今回でおしまいにしようかと思うのですが」

『エッ?! それって、沙綾ちゃんがもううちに来たくないってこと?!』


 昴の焦ったような声に、沙綾は首を傾げる。


「お呼ばれされなければ行けませんけど、お呼ばれされたら行きますよ。一応、お友達兼恋人ですから」

『一応……なんだ。えっと、沙綾ちゃんのご飯が食べたいなってお願いしたら来てくれる? 』

「用事がなければ」

『本当? 』

「お忙しい時はお掃除もしますよ」

『そっか……。なら良かった』

「なので、残りの金額を教えてください。あと振り込み口座も」

『うーん、まぁ、それは帰ってから話そうよ』

「了解しました。では、私はこれから不動産屋さんに行って、アパートの解約の手続きをしてきます」

『あぁ、うん。気をつけて。僕はこれから取引先のパーティーに出席しないとなんだ』

「お疲れ様です。では」


 沙綾から通話を切って、通話時間に目をやった。家族親戚以外でこんなに長電話をしたのは昴が初めてだ。しかも、顔が見れないからかいつもよりちゃんと喋れた気がする。喋り方が硬いのは、まぁしょうがないとしても。


 それから沙綾は昴のマンションを出て不動産屋に向かった。

 不動産屋は会社の近くにある為、昴のうちからのが近い。いつもならジーンズにTシャツ姿の沙綾が、今日は珍しくワンピースを着ているのは不動産屋に行く為だ。ついでに薄いけれど化粧もしている。眉を描いて口紅を塗っているだけの会社仕様と同じだが、昴が見たら「奇麗だね、可愛いね」とべた褒めしたことだろう。一般的には少し地味な普通の女子、それが沙綾なのだが。


 不動産屋に行き、5日後に退去する旨を伝えると、契約により2週間前までの通知が必要とかで、今月いっぱいは家賃が発生してしまう為、分割による家賃の返金はできないと言われた。それを了承し、解約の手続きを終了させた沙綾は、不動産屋を出た時に軽い目眩を感じた。

 なにせ、人見知り半端ないのに、見知らぬ異性と対面で話さないといけなかったのだから、緊張のせいで脂汗は出てくるし、ガンガン頭痛はするしで、疲労困憊で倒れる寸前だったのだ。


 最近昴と二人で過ごしたり、会話も慣れてきていたので、少しは人見知りも改善されてるんじゃないかと思っていたのだが、どうやら昴限定のことだったらしい。今まで、沙綾にとっての他者の分類は、家族や親戚などの気安いグループAと、人見知りが発動する他人であるグループBしかなかったが、そこに別枠で昴という分類ができていたことに気づいた瞬間だった。


「あれ? 神崎じゃね? 」


 目眩の為に道路脇で短時間ボーッとしていた沙綾は、いきなり声をかけられ、乱暴に腕をつかまれた。


「……」


 あまりの恐怖に声も出せない沙綾の前に、ニタニタとした笑顔の男が立っていた。

 目にかかるくらい長めの前髪にスパイラルパーマのかかったマッシュヘアーは、今時なのかもしれなかったが、ただただだらしなく見えたし、アクセサリーをジャラジャラつけているのだが、いかにも安物まがい物感満載だった。見た目普通の男が頑張っちゃって失敗しているのだが、それに気づかずにイケメン気取っている……そんな風体の男だった。


「ど……どちら様……でしょうか」

「なんだよ、前カレのこと覚えてないとか冗談だろ」


 前カレ……。


 沙綾の頭の中に高校生の時の出来事がフラッシュバックする。目の前の男にされた気持ちの悪いことや、周りにいた人達の甲高い笑い声、沙綾を見下して馬鹿にしたような態度……。

 いっきに吐き気がこみ上げて、頭痛が半端なくなってくる。手足が冷たく感覚がなくなって倒れそうだ。


「……ケント……くん」


 名前呼びなのは名字を知らないから。


「なんだよ、久しぶりに前カレに会って感極まっちゃった感じかよ。わかるわかる、おまえみたいなんはどうせ俺以外彼氏いたことないだろうしな。まぁ、高校の時よりは少しはマシになったんじゃね? おまえ今何してんの?OL? フリーター? 」

「……OL」

「マジか! おまえみたいな陰キャでも雇ってくれる会社あんのかよ?!マジ神だな。それどこの会社だよ。俺もエントリーシート出そうかな。給料とかどんな感じ? 俺、ちょっと大学ダブってさ、今就活中なんだよな。メディア系とか俺に合うと思わない? 」

「……手……離し……て」

「あゞ?! ああ、緊張してんのかよ。まぁ、しゃーねぇよな。久しぶりに前カレに会ってドキドキしちまう気持ちもわかるし。気にすんなよ。何ならまた付き合ってやってもいいぜ。たまたま今は女いねぇし、まぁ、もうちょい見た目弄れば連れて歩いても恥ずかしくないくらいにはなるだろうしな。スタイルは、まぁ悪くもないし。ちょっと胸がなさ過ぎだけどな」


 身体をジロジロ見られて、嫌悪感で鳥肌がたつ。

 昴に手を握られたりしても嫌だなんて思ったこともなかったのに、ケントに触られるのは吐き気がする程嫌だった。この距離も嫌だ。ケントの存在そのものが嫌だ。


「ちょっと旧交を温めようぜ。この辺にあっかな、ラブホ」


 腕をつかまれたまま肩に手を回され、沙綾はなんとか踏ん張って動くのを拒否する。第一、沙綾には友達兼恋人の昴がいる。いないとしても、ケントと旧交を温めるつもりは微塵もない。


「……ィヤ」


 それでもズルズルと引きずられそうになり、恥も外聞もなくしゃがみこんでしまおうかと思った瞬間、さっきまで沙綾がいた不動産屋のドアが開き、沙綾を担当してくれたおじさんが顔を出した。


「神崎さん、良かった。まだいらして。ちょっと記載漏れがあったので中によろしいですか? 店内が狭いのでお連れ様は外でお待ち下さい」

「……は……い」


 ケントの手を振り払い不動産屋に入ると、不動産屋のおじさんはピシャリとドアを閉め、沙綾を奥の商談スペースへ連れていった。


「あの、大丈夫? 知り合いかどうかわからなかったんで様子見てたんだけど、嫌がってるように見えたもんで。ナンパかなにかかな? おせっかいだったらごめんね」

「……助かり……ました」


 おじさんはホッとしたように笑うと、沙綾に温かいお茶を出してくれた。湯呑みで冷えた指先を温め、一口飲んで温まった息をゆっくりと吐き出す。


「あぁ、顔色が少しもどったね。あの男、まだ外にいるな。どうする? もう少し待つかい? それとも裏口から出てく? 」

「……裏口……あるんですか? 」

「あるよ。勝手口だからちょいゴチャゴチャしてるけど、目をつぶってくれよ」


 不動産屋のおじさんの好意に甘え、沙綾は裏口から不動産屋を出てひたすら走った。日常的に運動していない沙綾はすぐに息が上がってしまったが、それでも速度はゆるめなかった。沙綾が駆け込んだ場所は、駅でも警察でもなく、昴のマンションだった。

 息せき切って戻ってきた沙綾に、コンシェルジュの野崎はかなり驚いていたが、沙綾は「大丈夫です」とだけなんとか伝えると、エレベーターに乗って昴の家に戻った。鍵をしっかり閉め、リビングのソファーの上で体育座りになり、クッションを抱きしめる。

 昴の匂いを感じているうちに、日頃の寝不足もたたって沙綾はいつしか眠ってしまっていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る