第5話 神崎沙綾のハウスキーピング

 ジーンズにTシャツ、ほぼスッピンに髪は後ろに一つ結び。機能性重視な格好をした沙綾は、両手に買い物袋を下げてマンションの前で立ち尽くしていた。


 事前にラインで昴のマンションを聞いていた沙綾は、夕飯の買い物をして約束の時間に昴のマンションを訪れたのだ。そしてそのマンションのあまりなセレブぶりに、つい何度もマンション名を確認してしまう。

 そのマンションは、コンシェルジュが在駐しており、マンション内にジムやプールやエステサロンまで完備しているいわゆる億ションで、一介のサラリーマンが住めるとは思えない。一人暮らしと聞いていたから、親の持ち物という訳じゃないだろう。いや、実は叔父の正や叔母の美和子みたいに、長者番付に載るような親がいて、生前贈与的な……。いや、昴は会社では有名人だが、御曹司的な付加価値は聞いたことがない。まぁ、沙綾が聞く噂話の大半は、女子トイレに籠もっている時に、パウダールームで同僚達が喋っているのを聞きかじっているだけなのだが。

 沙綾が社長の親戚であることを公言してないみたいに、昴も言ってないだけなんだろうか? 


 そんなことをマンションを見上げながらボンヤリ考えていると、見覚えのあるイケメンがマンションから出てきた。


「沙綾ちゃん、遅いから迎えにきちゃったよ」

「あ……」

「こんにちは」

「……こんにちは」


 聞こえるか聞こえないかの沙綾の返事に、昴はニッコリと微笑むと沙綾の手から買い物袋を取り上げて、沙綾の肩を押してマンションのエントランスに促した。


「さ、入って。コンシェルジュの野崎さんに紹介しないとだね。野崎さん、こちら神崎沙綾さん。毎週土曜日にうちにご飯を作りにきてくれるからよろしく」


 沙綾は「神崎沙綾です」と小さくつぶやくと、腰を90度に折って頭を下げた。


「承知致しました。コンシェルジュの野崎です。土曜日のこの時間は大抵私がおりますので、お困りの際にはお声掛け下さい」


 穏やかなイケオジ風のコンシェルジュのおじさまは、人好きのする笑顔とイケボイスで沙綾に挨拶してくれた。が、それに笑顔で返事を返せるポテンシャルが沙綾にある筈もなく、沙綾は若干挙動不審気味に視線を合わさず「お願いします」とだけなんとか声を絞り出した。


 昴の部屋はマンションの10階(中層)にあり、2LDKで単身者向けというより家族向きの造りになっていて、借りるとしてもかなり高額なことは想像に固い。営業トップにもなると、こんな億ションの賃貸物件が借りれるくらい稼げるということか。

 思わず下世話な想像をしてしまい、沙綾はいかんいかんと首を振る。


「ごめんね、実は最近ハウスキーパーの人に辞めてもらったばかりで部屋が汚いんだ。片付けようとはしたんだけど……」


 玄関から一足踏み入れて、ゴチャゴチャとした部屋の様子に、昴が申し訳無さそうに眉を下げた。

 まぁ、ゴミはゴミ袋に纏まっているし、洗濯物とおぼしき塊も一応一箇所に山積みになっている。本や雑誌は、立派な壁に備え付けの本棚があるのに床に直置きだ。洗濯物を畳もうとしていたのか、ソファーにやりかけで置いてあった。畳み方はかなり雑だが。


 出来る営業は、私生活では家事能力皆無なのかそこに拘りがないのか? 

 イケメンで仕事もできて、あらゆる面で完璧な昴の少し抜けてる一面を垣間見て、自分とは異なる人種だと思い込んでいたがそうじゃなかったんだ……と、何やらホッとした気持ちになった。


 昴は対面式のペニンシュラキッチンに沙綾が買ってきた買い物袋を置くと、そさくさとソファーに向かって洗濯物を畳もうとするが……。


「あの、私が……」


 あまりの皺くちゃ加減に、沙綾は思わず口を出してしまう。


「いいの?! 」


 喰い気味な昴の返事に若干引きながら、沙綾は持ってきたエプロンをつけて洗濯物を畳み直した。ついでに部屋の整理もお願いされ、沙綾はしまう場所を確認しながら丁寧に片付けた。かなり時間はかかったものの、部屋はすっきり片付け終わった。それから料理を作り出し、結局食べ始めたのは夜の9時過ぎ、片付けまでしたら11時になってしまった。


「遅くまでありがとう」

「……いえ……お詫びですから」

「あのさ、これからも週1でお願いできないかな。料理以外にハウスキーピングも。もちろんお礼はするよ。通常週に一回部屋の片付けで月6万くらいかかってたんだ。プラス料理で月7万でどうだろう。もちろん材料費は僕が出すし」

「そんな、本職でもないのに……」

「実はさ、今日の部屋の様子見ればわかると思うけど、僕、家事がからきし駄目なんだ。だからハウスキーパーを頼んでた訳だけど、どうもそのたまたま担当になる女性に好かれることが多くて……。頼んでない日に勝手に部屋にいられたり、歯ブラシとかお箸とかちょっとした物がなくなったりが続いてさ。これで3回担当を交換してもらってるから、なんか次もお願いするのも怖くて」


 沙綾ですら何とかしてあげたいと思ってしまうくらい、イケメンのシュンとした顔は庇護欲を猛烈に煽られるものだった。確かに昴の言った通りなら、ハウスキーピングを頼むのはかなり嫌かもしれない。たった数百円の歯ブラシを盗むのだって立派な窃盗だし、誰もいないと思って帰ってきた部屋に他人がいるのは、男性だって恐怖を感じることだろう。


「わ、わかりました。でもあの……」


 沙綾はやはり昴と視線を合わせないまま、小さな声でハウスキーピングを請け負うことに了承した。ただし、自分はハウスキーピングの専門家ではないから、月7万は貰い過ぎであること、そのお金はスーツ代金に当てて欲しいこと、このことは会社の人には内緒にして欲しいことをシドロモドロになりつつ告げた。


「うん、了解。じゃあ5万でどうかな?」

「……2万」

「それは安すぎだよ。じゃあ4万5千円」

「……2万5千」


 逆セリのような状況になり、結局刻んで刻んで3万7千円で落ち着いた。


「あとね、あのスーツだけど沙綾ちゃんが染み抜きしてくれたおかげで、普通にクリーニングだしただけで、染み抜きとか指定しなくてもちゃんとキレイになったし、上着も少しほつれただけだから修繕でなんとかなるみたいだよ。なんか、一度縫い目を解いてもう一回縫い直すとか、使えない端布は新しいのに交換するとか、ちょって時間はかかるみたいなんだけど、新品を買うよりは断然安くできるみたいだ」


 修繕でも一般のスーツを買える値段でびっくりしたが、それなら3ヶ月くらいで返せるだろう。労働のみで金銭で返してないことに罪悪感を感じる沙綾だったが、昴は逆にハウスキーピング代がかなり抑えられると凄く嬉しそうにしていた。


「じゃあ、今日から契約開始ってことでいいかな。食費もちゃんと払うから申告してね。あと、来週からは買い物はこのカード使って」


 昴は、お気軽に沙綾にクレジットカードを手渡してきた。


「これはちょっと……」

「大丈夫、1ヶ月の食費分くらいしか入ってないから。あと、これうちの鍵ね。ほら、僕が仕事のこともあるから預けておくよ」

「……」


 本当、この人の危機管理っとどうなっているんだろう。イケメンが無防備過ぎるでしょうが!


 そうは思うものの、確かにハウスキーパーのバイトをするなら必要かもしれないと受け取った。自分の部屋の鍵よりも厳重に保管しなくては! と、家の中で一番安全な隠し場所を考える。やっぱり冷蔵庫だろうか。


「じゃあ、夜も遅くなっちゃったし家まで車で送るよ。そういえば、こんなに遅くなって、おうちの人は大丈夫なのかな? 」

「一人暮らし……なので」

「だから、色々できるんだね」


 人並みに色々できる訳じゃない。料理も片付けもできなくはないが、沙綾の場合は時間が凄くかかるのだ。


 今日半日近く昴と一緒にいたが、こんなに気楽(沙綾的に)に他人と過ごせたのは初めてだった。昴は沙綾のペースに嫌な顔もしなかったし、小さな声にも要領の得ない会話にも、苛つかれたり急かされることもなかった。視線の合わない沙綾に不愉快な表情も浮かべなかった。何より、話すのが苦手な沙綾に無闇に話しかけてこなかったことが良かった。

 一人でとる食事が味気ないと言われていたから、てっきり沢山話しかけられるんじゃないかってビクビクしていた沙綾だったが、片付けをしている時は沙綾がどこに片付けるか聞いたときのみ話をし、食事の時も「美味しい」というリアクションは多々していたが、会話をすることを要求されなかった。たまに昴が自分のことを話して自己完結して話が終了することがほとんどで、沙綾はただ聞いていれば良かった。


 そのせいか、帰る頃にはほんのわずかではあるが沙綾も喋れるようになっており、毎週ここに来て家事をすることが苦痛ではないかもしれないと思うまでになっていた。

 まぁ、綺羅綺羅しい昴を最後まで直視することはできず、家より狭い車という空間に二人きりになるのはさすがに無理だと、電車も動いているし一人で帰れると頑なに言い張る沙綾に、それなら駅まで(徒歩3分)は送るとそこは引かなかった昴に頷くくらいには、昴に馴れたと言えるだろう。

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