第17話 一人目


 次第に強くなる雨の中、僕は自分が濡れている事なんて気にしている余裕もなく、ただ目の前に落ちているモノから目が離せないでいた。


 薄暗い灰色の世界の中でその周辺だけが真紅で彩られている。


 真紅の中心にある潰れたトマトのようなそれが、状況的に考えれば屋上から落ちて来たのだろうという事は分かる。


 落ちてくる途中でどこかに引っ掛けたのだろうか、腕と脚が不自然な向きに曲がっていた。


 最終的にうつ伏せの形で地面に落ちただろうそれは、横顔の半分しか見えなかった。


 本体と周りに散らばったいくつかのパーツから雨で滲んだ赤が僕たちの方にゆっくりと侵食してくる。それが僕の足元に届く前に、むせるような死の香りが漂ってきた。


「ウッ⁉」


後ろで一真が嗚咽をもらした声が聞こえた。


 神奈は何も喋らない。ただ荒い息づかいだけが聞こえてくる。


 隣に目を向ければ恵里香が微動だにしないまま目を見開いて固まっていた。


 無理もない、僕たちの前に広がっている光景はそれだけ衝撃的なものだからだ。


 翔也は……翔也だけはさっきから何の反応もしない。


 こんなものを発見してしまうなんて非現実的なシチュエーションで、真っ先に行動を起こせるとしたらそれはいつも冷静な翔也だけだろう。


 けれどそんな僕の考えに反して翔也はまったく動かないままだ。


 目を見開いたまま驚愕しているような表情を顔に張りつけた翔也は、地面にうつ伏せになってピクリとも動かない。


 この状況をどうにかして欲しいと思った。


 うろたえるだけで何も出来ない僕にどうすればいいのか教えて欲しかった。いつもみたいに頼りになる姿を見せて欲しかった。


 でも、それが無茶ぶりだという事も頭では理解していた。


 だって翔也はもう明らかに死んでいるからだ。


 翔也は誰よりも先にこの場所にいた。


 いや、落ちていた。


 僕が来た時からすでに半分になってしまっていた顔は、固まったように一切表情を変えていない。翔也の身体から流れてくる血だけがゆっくりと動いているけれど、翔也本人はまったく動かない。


 そういう一つ一つの要素全てが翔也が死んでいるということを証明している。


 その事実を認識したところで、やっと僕の身体が少し動いた。


 足を一歩前に踏み出す。そのままもう一歩、また一歩。ふらふらした足取りで少しずつ翔也に近づく。


「しょ、翔也?」

「……」


呼びかけてみる。当然返事はなかった。


「む、無視しないでよ」

「……」


クラスメイトたちから無視されるのは何ともないけれど、流石に大切な幼馴染に無視されるのは心にくるものがある。


 僕はどうしても翔也に無視されたくなくて無理やり抱き起そうと手を伸ばした。


「触っちゃダメ」


翔也に向けて伸ばしていた腕を掴まれて、ハッと我に返る。


 僕を止めてくれたのは恵里香だった。


 いつの間にか一緒に翔也の近くまで来ていたらしい。恵里香は目を閉じてゆっくりと首を横に振った。


「クソッ!」

「……翔也」


後方で一真がどうしようもない想いを吐き捨て、神奈の悲痛な呼び声が虚しく響く。


 振り返った僕は三人を視界に捉えた事で、翔也しか見えなくなっていた視野が広がった。


 気が付くと騒ぎを駆けつけた他の生徒たちが遠巻きに騒いでいた。


 中にはスマホをこちらに向けている人も見える。写真、もしかしたら動画を撮っているのだろう。


 そういう事をする人がいる事は知っていたけれど、自分の大切な人にそれをされるのはとても我慢できるものではない。


「救急車……呼ばないと」


頭に血が上っていたところに聞こえてきた冷静な声は恵里香のものだった。その言葉のおかげでなんとか落ち着きを取り戻す。


「神奈ちゃん。お願い」

「あ、うん」


恵里香に言われるがままにスマホを取り出す神奈のその手は震えていた。


 恵里香もさっきからまったく表情を変えていない。一見すると冷静さを保っているようにも見えるけれど、見開かれたままの目を見ると本当に正気なのか分からなくなった。


 そうこうしているうちに後方のざわつきが大きくなった。


 やっと教師たちが到着したらしい。生徒たちを教室に戻そうと躍起になっている。生徒たちも抵抗していて混乱が広がっていた。


「お前たちもそこから離れるんだ!」


遠くから呼びかけられて僕と一真は視線を交わした。


「翔也について病院に行かないと」

「優人、お前……」


もう深く考える思考は残っていなかった。


 結局立ち尽くしたままの僕たちに痺れを切らした教師がやってきて、無理やり離れるように促してきた。それに逆らう気力もない。ただ茫然と、促されるままに一度翔也に背を向けた。


 僕が背を向けた時には一真と神奈はもう翔也から離れていて、僕の前を歩いていた。


 けれど一人足りない。


 急に不安が襲ってくる。


「恵里香?」


振り向くと恵里香はまだ翔也の傍で立ち尽くしていた。


 恵里香はこちらに背を向けたままゆっくりと腕を動かし何かを指をさした。


「あれって、あの時の……」


あれが何なのか、あの時がいつなのか。抽象的すぎる恵里香の言葉からは何も理解できない。


 とりあえず恵里香が指さすものを見て、僕は戦慄した。



 翔也の死体の向こう側。校舎の壁に白い物が置いてあった。


 形代だった。


 紙で作られた人型。


 日常生活ではあまり目にする事のないもの。


 当たり前だけど、この学校では一度も見たことがない。その形代が何故か壁に立てかけられるようにして置いてあった。


 まるで翔也の死体を見ているかのような配置。


 年代物の紙が日に焼けてしまっているかのように色がくすんでいるその形代は、言いようもない不安を僕にもたらした。

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