体外消化

糸川まる

膜をほどく



 押し入れの襖を開けると、むくりと闇が起き上がって、脚を立てた。


「帰りましたよ」


 声をかける。その体躯に見合わぬ細い爪で、襖の縁を確かめるように掻き掻き、蜘蛛は音もなく這い出でてくる。押し入れの上段から、脚をふらふら伸ばして私の胸へ渡ると、体を伝って床へ降りる。そして仔犬ほどもある大きな腹を重たげに揺らした。


 バッグをベッドへ投げ込む。歩きながら脱ぐストッキングの、じっとりとした感触が煩わしい。そのまま着ているものすべてを剥すように脱いで洗濯機に放り込み、乱暴にシャワーの栓を捻った。キュウとハンドルが鳴く。


 シャワーの水が湯になったころあいを見計らって浴室に入り、しばし全身に湯を浴びた。熱めの湯に、外の世界に出るために張っていた膜がどろどろに溶かされて流れていくみたいだ。手探りでシャンプーをワンプッシュ、手のひらで泡立てて頭に載せる。頭を洗い流しながら私は、何ごとかの気配を察して、泡越しに薄目を開け、浴室の扉の向こうに蜘蛛の影を確かめた。渇くと蜘蛛はいつもこうして私の風呂を覗く。体に這う泡を手始めに、次いで壁床を念入りに洗い流し、シャワーを止め、扉を開けて招き入れる。蜘蛛は扉の隙間を頭胸部で押し広げて浴室に入ると、歩脚をうまく広げてかがみ、頭胸部を床につけると、隅にたまる水を啜った。啜った、と思う。蜘蛛の口は体の裏側についているから、私からは見えない。髪の毛の含んだ水を軽く絞って散らせば、蜘蛛のふさふさと毛の密集する腹部にもしぶきが飛んで、そしてしぶきはころころと丸のまま転がって落ちた。


 いらだつ夜は丁寧に世話をするに限る。濡れた脚にオイルを吹きかけ、マッサージをしながら腿、腹、尻、腰に伸ばす。左腕にも同じように吹きかけては、肩、首、胸にと伸ばした。バニラのような甘い香りが立つ。水気をふき取って、乾燥しがちな脛と腕にはシアバターを重ねる。手に残った油分を髪の毛に馴染ませながら視線を落とすと、洗面所の端に、じ、と脚を立てたままの蜘蛛が見える。髪を乾かして洗面所を出ると、着いて歩くように蜘蛛も廊下へ這い出した。

後輩が十二月から産休に入る。


 忙しい時期にすみません、と言いながら眉を下げる後輩の、ふくふくと白い顔を思い浮かべると、下腹に抱える空洞がひり、と痛み、不快感とともに妬みの泥がしみ出した。こういうのはお互い様だから、と笑って見せたのはもちろん嘘ではない。


「めでたいことだよ」


 掛け布団の上に倒れ込んで上半身を沈め、呟く。呻くように。


「文句言うつもりなんてかけらもない」


 否、「いやあ、お前も先越されちゃったなあ」と軽口のつもりであろう、朗らかな口調で言う課長には文句の一つ二つ浮かんでこないこともないが、いちいち繊細に傷ついてもどうしようもない。


 顔を反対側に傾けると、先ほどベッドに投げたバッグから携帯電話がこぼれ出ている。殆ど無意識に手に取ってロックを解除する。通知欄に見たくもない名前が並んでいて、私は無気力にそれを裏返した。ほすほすと布団がへこみ、気づけばうつぶせに転がる私の上に、蜘蛛が跨っている。


「できちゃった婚だよ。あんまり急で、聞いたときはびっくりしたけどさ。それがもういくつ寝ると臨月。早いね」


 背中越しに蜘蛛に向かって声をかける。「うらやましいね」腕を伸ばして歩脚に触れれば、蜘蛛はうっとうしげに脚を持ち上げて手を避けた。経緯ひとつまとめられていない後輩の引き継ぎ書が脳裡に浮かんでくるものだから、それを奥歯で噛み砕いて吐き捨てる。「昨日今日わかったことじゃないのにね。なんで準備しておかないのかな。どうせ戻ってこないからどうでもいいとでも思ってるのかな」蜘蛛は、私の手を避けるために浮かせた脚をそのままくうに停止させている。指で足裏をつついた。ふさふさと目の細かい毛が密集して、蛍光灯のあかりに鈍く光った。蜘蛛は私の指を避けることはせず、変わらず脚を一本浮かせたまま、二本の触肢と八本の脚で籠のように私を閉じ込めている。


「何がうらやましいんだろうね」


 産めること? 呻くように、再び呟いた。蜘蛛は応える代わりとばかりに、音もなく触肢を私の頭の両脇に下ろす。頸筋に、先ほど水を啜って濡れたのであろうひんやりとした毛が触れる。頭上で上顎の擦れる音がして、次のひと瞬き、鋭い痛みが首の丸い骨のあたりから脳天に向かって遡上した。

 何度齧られても、慣れない。頸の後ろに新しい臓器が露出したみたいに、早鐘の鼓動が耳裏まで揺らす。鋭い牙を深く突き立てられ、反射的に喘ぐ。喘ぐ口もとを塞ぐように、蜘蛛は触肢で頭を抱えこんだ。次第に痛みが引いて、全身に力が入らなくなっていく。ただただ耳だけが肥大して、寄せては返す血流の音、蜘蛛が顎を擦り合わせる音、牙を私の頸に深く差し込む音、骨と骨の軋む音。蜘蛛は器用に私の体を持ち上げる。ゴキリと背骨をへし折られ、私は頭垂れて蹲るように、蜘蛛の万力で丸められていった。痛みも、感慨もない。


 蜘蛛は私の頸の後ろを裂いて、咥えたそばから消化していく。じわりじわりと、丸められていく。私は核のようなものにこもったまま、消化されて不格好な丸になっていく自分の体を、他人事のように眺めている。体外消化といって、彼は口から消化液を垂らして溶かし、消化したものを、啜るのだ。


 うらやましかったのは、——恨めしかったのは、私の手からすり抜けたものを、彼女がすべて手に入れていくことか。夫も、子どもも、祝福も、約束も、ひとりで生きていく以外の選択も、守り守られていく生き方も、妻や母といった役柄も、私のようなものからの妬みまじりの羨望も。当たり前のように、それでいて申し訳なさげな顔で、見せびらかしてくる。——引き継ぎ書ひとつ、書けない分際で。昼日中であれば吐くそばから唇をむしばむような毒を、今の私は平気で零す。何も怖いことはない。蜘蛛がすべて消化してくれる。


 第一、相手は■社のシステムエンジニアだと聞いたけれど。まあ確かに■社はうちよりも大きな企業だけれど。それほど大した会社じゃあない、うれしげに、自慢げにいうほどのものじゃあない。出会って半年で入籍したと以前聞かされたけれど、そんな交際期間でうまくいくだろうか? 子どもができたら、恋人みたいな関係でいられなくなるかもしれないのに、大丈夫だろうか? 出会って半年できちゃった結婚だなんて、まともな親なら祝福しない。思えば入籍報告のときもあんなにうれしそうにして、その程度で幸せだと思えるのがむしろうらやましい。それに■社は社名こそ有名な大企業だけれど、給料は大したことないっていうし、このご時世、大企業勤めであれば安泰、なんていう考えじたいが、ちゃんちゃらおかしい。子どもじみている。そうだ、子どもだ。あんな、仕事もまともにやれないような子どもが子どもなんて持って、まともに育てられるのか、はなはだ疑問だ。


 蜘蛛に抱えられた頭の、視界の端に携帯電話が青っぽく光ってちらついた。利かぬ腕を伸ばそうと身じろぎをしてみれば、丸められた肉団子の、指であったのであろうあたりが動いて、けれどもそれだけ。私はとうに、人の姿を喪っている。蜘蛛の控えめな咀嚼音だけが、かすかな震えと一緒に届く。この震えは、蜘蛛の拍動だ。


 先ほどから視界にちらついている通知は、夏に別れた元恋人からのメッセージだろう。私から別れを告げて、逃げるように同棲を解消してからもしつこく連絡をしてくる。——■社よりも大きな会社に勤めている、元恋人だ。よりを戻せば、私も後輩の手に入れたものをまとめて取り戻せるだろうか。よりを戻すまでいかなくてもいい、元恋人がまだ私に執着していることを確認できさえすれば、私だって、多少は——、

そこまで考え、携帯電話を触りたい、メッセージを読みたい、読むだけでも、と、とうとう強く欲望した瞬間、私の核のようなものを覆っていた大切な膜がどろりと破れて、ふいによすがを喪った。真っ黒の海に投げ出されたような心地。そして自身の吐いた呪詛が、凝り固まった嫉妬が、浅はかな執着が私の体をすり抜けて水面へと立ちのぼっていくのを、ただ沈みながら眺める。とうとう私は小指よりも小さくなって、静かな海にしゅわりと溶けて、途切れた。


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