9 世界観

 安野はひとこと、

「駄目」

 と言って立ち去ろうとした。

 私はがしりと安野の肩を掴み、こちらへと振り向かせる。

「お願いします! 〈椿の海〉に行きたいんです!」

 優希と羽海――私の何よりも大切な友人が保護されているという異世界、〈椿の海〉。私が存在している〈きさらぎ駅〉から別の異世界に行くためには、時空のおっさんに協力してもらう必要があると聞いて、一も二もなく安野のところにやってきた。ひとりだと危なっかしいと判断されて、菊花も一緒だけど。

 安野は二度目の頼みを聞いても不機嫌そうな表情を変えず、肩を掴んだ私の手を払いのける。ただ、今度はさっさと逃げだそうとはしなかった。話は聞いてくれるらしい。

「危ない」

「関係ないです」

「領域を侵すのは」

「問題だろうが行きます」

 げんなりとした安野は、菊花に視線を向ける。なんとかしろ、と助け船を求めているらしい。なんとかなるような私ではないが。

「美桜、言いにくいけど、その、〈椿の海〉に行くのは諦めたほうがいい……と思う」

「菊花は黙ってて。私は時空のおっさんに用がある」

 安野は頼りにならない菊花を視界から外し、ものすごくめんどくさそうに私と向き合う。

「君のため」

 に言っている? ふざけんな。

「なにがですか」

「行かないほうが」

 いいだと?

「だからっ――」

 関係ないと言っている。私は優希と羽海に――。

「としても」

 安野は急に、私が〈椿の海〉に行ったら、という仮定の話に切り替える。

「会わないほうがいい」

 キレそうになるのと同時に、冷や水をぶっかけられた気分だった。

「おーい、美桜ー、菊花ー」

 駅のホームから離れた荒れた路上に、百舌の声が響く。

「おーいたいた。あんまり時空のおっさんに近寄ったり、名前をつけて愛着持ったりするんじゃないぞ。それはシステムみたいなもんだから、無理を通すのは諦めたほうがいい」

 現れた百舌は、安野を見て気分が悪そうな顔をする。

「ちょっと菊花、百舌さん、安野のおっさんのこと知らないの?」

 声を潜める私に、菊花はこくりとうなずく。

「安野さんのことは誰にも話してない。美桜以外には」

「話すとまずいの?」

「特には。ただ時空のおっさんというシステムに本来自我は必要ないから、みんな安野さんもほかの時空のおっさんと同じシステムだと思ってる。本人もそっちのほうが楽だと言ってる」

 ますますなんなんだ、このおっさん。いや、時空のおっさんという時点でとっくに異常なんだけど。

「ここは危ない。帰りなさい」

 で、当の安野は営業モードに入っている。

「はいはい帰りますよっと。美桜、ちょっとキツい話をしなくちゃならんから、駅に戻るよ」

 百舌は私を安野から守るように背中を押して歩き始める。

 無言で歩く私と、そのあとについてくる菊花。

 きさらぎ駅のホームに戻ってくると、百舌は私をベンチに座らせた。一度菊花を見てから、肩を落とし、よしと気合いを入れて私に向き合う。

「〈椿の海〉に行くのは諦めな」

 私が食ってかかるより早く、百舌は指を二本立てて、まず――と説明を始める。

「異界間の往来は危険が高すぎる。そもそもズレた世界同士の行き来なんて、成功する可能性のほうが低い。時空のおっさんが介入しても、これは変わらない。加えて、異界に別の異界が入り込むことは互いの世界にとって悪影響を及ぼしかねない」

「でも――」

 百舌は立てた指を一本折りたたむ。

「ここまでが建前。本当のことを言うよ。美桜の友達だっていうふたりは、たぶんもう美桜の知っている人間じゃない」

「それって、現世で私たちが倒した奴らの話なんじゃ」

「たとえば、あんたが現世で会った半田っていう男。そいつ、現世じゃ露出魔で、女性を狙って全裸を見せて喜んでるような奴だったんだろ?」

 たぶん、そうだ。私が瞬時にキレてボコボコにしたということは、半田は私が最も忌み嫌う、平気で理不尽な暴力を振るえる人間。しかもそれが暴力だなんて、微塵も思っちゃいない。今ごろになってまた腹が立ってきた。なんで現世で、半田とまともに口を利いたりしたんだろう。

「ところが〈バックルーム〉の解放戦士になっていた半田は、とっさにあんたを助けるような真似ができていた。まあ、どれだけ認知が歪んでいたとしても、とっさに目の前の人間を助けるようなことをする人間はそれなりにいる。でも話を聞く限り、半田は以前の行いを反省し、美桜に謝罪までしている。なぜだと思う?」

 たしかに、弱そうな相手を見つけて全裸になるようなおっさんが、そうも急に考えを改めるようには思えない。それがわかっていたからこそ、私は日々報復に怯え続けていたのだから。

 ではなにが半田の考えを変えたのか。認知の歪みに気づくことは簡単ではない。当人が生きてきた人生、環境、知識、経験――それらによって構築された、確固たる――。

「――世界観」

 私がほとんどひとりごちるように言うと、百舌はへえと感嘆の声を漏らす。

「そう。世界観が、ガラッと変わってるんだ。異界――異世界にはそういう力がある」

 ここで言う世界観とは、最近使われることが多い創作の世界設定や雰囲気ではなく、辞書を引くと出てくる本来の使い方――その人間にとっての、世界や人生に対するものの見方を意味する。

「異世界に入った人間は、その世界観に取り込まれる。ここにいる私たちも、〈きさらぎ駅〉の世界観に侵されているんだよ。自覚することは難しいけど、確実に現世にいた時とは世界観が変わっている」

 そういうものなのか。考えようとして、やめた。世界観が変わってしまったとしても、当人には確認のしようがない。これはかなり、怖いところだ。

「まあ、言っても〈きさらぎ駅〉がおよぼす変調は大したことがない。ここを開拓した私たちチームの目標が現世の回復と修正だっていうのがその証拠。一番とは言わないけど、まあまあまともなとこだよ、ここは」

 ひとまずは、百舌の言うことを信じることにする。自分がガラッと変わったような感覚はまだないし、そこに考えがおよぶ時点でまだマシな部類なのだと判断する。

「現世に残された人間の中で、汚染から逃れている奴は、たいていどこか狂ってる。あんたみたいなイカレパターン以外にもいろいろあるけど、一番多いのは」

「半田みたいなやばい奴――ですか」

 私が忌み嫌う、ボコボコにしてやりたいタイプ。そういう手合いが異世界との親和性が高いと聞いて、げんなりとする。これからほかの異世界の人間と出会うたびに、あのころの惨めさを思い出さなければならないのか。

「そう。その点〈バックルーム〉という異世界は良心的だ。あそこの世界観はどんなやばい奴も公明正大な真人間に変えちまう。絶対に行きたくないな」

 小さくうなずく。私は自分がまともじゃないことくらい知っている。それを世界観ごと矯正されるなんてまっぴらごめんだ。半田がまともになっていたことにむかついていたのも、今では収まっていた。ざまあみろ。真人間。

「で、〈椿の海〉だが、あそこは一番やばい。ひとことで言うなら、魔界だ」

「だったら、助けに行かないと……!」

「よしよしもうちょっときちんと考えようか。あんたの友達は魔界に捕らわれたわけじゃ断じてない。魔界という世界観が適用されて、そこで生きている状態だ。ごく簡単に言うと、あんたの友達は魔王になってる」

 魔王。

 私の中のイメージだと、魔王というのは唯一絶対みたいなところがあるが、「王」と名がついているからひとりだけ、というのは勝手なイメージなのかもしれない。石油王だって何人もいるらしいし、そう考えれば魔王というのは形容詞的な使い方もされる言葉だ。

 魔王。

 魔王ねえ……。

 優希と羽海が。

「魔王!?」

「〈椿の海〉の目的は現世を魔国に変えること。今の汚染された状態よりもさらにひどい惨状にしたいらしいから、ほぼすべての異界と相容れない。魔王ってのは本当に意味がわからん」

「ちょっと待ってください。優希と羽海がそんな大それたこと――」

「私らだって大それたことやろうとしてるだろ? で、あんたはそれにまあ仕方ないっかー、で付き合ってる。似たようなもんよ。立ってる世界観がいっとう過激なだけで、別に洗脳されたりしてるわけじゃない、っていうとこが難物なんだけどね」

 自分の立場に当てはめて考えてみろと促されて、私は急速に理解がおよんだ。最初は〈きさらぎ駅〉から現世に帰りたいと願っていたけど、今では現世がすっかり遠く感じるようになってしまっている。きっと優希と羽海もそうだったに違いない。行く当てもないから、異世界に身を置くことをよしとする。

 で、〈椿の海〉がなんかやばいことをやりたがっていると知っても、まあ仕方ないっかー、で付き合うことになる。百舌の言った通り、私だって同じことをここでやっている。

 しかも異世界に入った時点で、激ヤバな世界観が勝手に適用される。人格をねじ曲げるなんて面倒な手間を踏まなくとも、同じ世界観の連中で集まっていれば、まあ仕方ないっかー、ですまされてしまうし、すませてしまえる。

 でも。

 それでも。

「優希と羽海は、私の友達です」

「きっと向こうもそう思ってるだろうな。だけど残念。もう世界観が違うんだ。まあお互いに異世界で生きてるってことがわかってひと安心、でいったん落ち着こうや。たぶん半田って奴が報告してるだろうから、向こうにもあんたの無事は伝わってるはず」

「そうだ。半田のおっさんは、なんで優希と羽海から依頼を受けられたんですか? 異世界同士の行き来は難しいんじゃ」

「〈バックルーム〉は特に現世とのつながりが強いから、しょっちゅう現世に解放戦士を送り込んで、異界同士の連絡役みたいなことをやってる。そこで〈椿の海〉から使いっ走りを命令されたんだろうな。まず間違いなくタダ働きだ」

 ということは半田を使えば、優希と羽海にコンタクトをとることは可能かもしれない。あのおっさんを使って待ち合わせを決めるなんて考えるだけで気持ち悪いが、手段のひとつとして頭の中に置いておこう。

 とりあえず今は一応、すぐにでも〈椿の海〉に向かおうという気はなくなった。だけど諦めたわけじゃない。自分で異世界同士を行き来する方法を見つけたら即実行するつもりだし、優希と羽海に会いたいという気持ちはより強くなっている。

「さてと。じゃあ次は美桜の魑力についてだ。現世で使えたんだよな?」

「はい。なにがトリガーになったのかはわかりませんけど……」

「そこが問題だな。順序が逆になってる。普通は自分の中の発生源を自覚して、そこから魑力を汲み上げるんだけど。やっぱり『接続』が進んでるのが原因か……」

「むしろ、今からもう次の段階に進んでもいいかもしれない」

 歩哨のように立っていた菊花が口を挟んでくる。

「うーん、まあなあ。結局美桜を助けるためにはそれしかないわけだし。でも相手の名前も知らない状態で立ち合わせるのは、かなり危ない橋になるが……」

「あの、魑力の源ってやっぱりわかりやすいもんなんですか? たとえば菊花のきょ――」

「うわあ! 待て待て待て! いきなりなに言い出すんだこいつ! っていうかなに話してんだ菊花! やーめーろー! 聞きたくなーい!」

 突然慌てだして私の発言を遮る百舌。どういうことかわからず菊花を見ると、目を伏せて所在なさげに頭をかいている。

「こいつ……いい加減にしろよ……色ボケが……」

 百舌はぶつぶつとつぶやきながら、私を鋭く睨む。

「美桜、よく覚えておくように。魑力の発生源は、絶対に他人に明かしてはならない。それは自分の最も弱くデリケートな部分を相手に教えることだからだ。私もそこのバカがなにから魑力を引き出してるのかは知らないし、知りたくもない」

 百舌の言葉に、こくこくとうなずき返す。その道理はたしかによくわかる。

 じゃあ、なんのためらいもなく私に自分の魑力の源が「恐怖」だと教えた菊花は――いったいなにを考えてんだ。

 百舌が今後の方針を話してる間、私はずっと菊花のことを考えてしまっていた。

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