2 列車は必ず次の駅へ

「美桜? おーい、美桜ーあれはもういかんもんじゃなにまだきづいてはおらんすぐにすぐにくびりころしておやりな」

「どうした美桜? 顔色悪いけど、まだ眠れてないのちがあるものはいけませんでいかんですはいはいたしかにころしますすっぽりといきます」

 優希と羽海が私にかけてくる言葉は、途中から意味不明な言葉に変わってしまう。

 その言葉の間に隔たりはない。優希と羽海が話しながら優希と羽海の声で意味不明な言葉が出力される。

 私は大丈夫だと無理に笑顔を作って、耳を塞いで逃げ出したいのを必死にこらえた。

 あのあと――黒い炎が引き、地上が元通りに戻ったのを見た私は慌ててビルの屋上から脱出し、優希と羽海のもとへ走った。

 走ってきた私を見たふたりは、驚いた顔をしていた。

 ふたりによると、街を歩いていたら私の姿がいきなり消え、どうしたものかと困惑していたところだという。黒い太陽が出てきて辺り一帯火の海になったことは、当然のようにふたりは覚えていなかった。

 私はとにかくふたりの無事にほっとして、泣き出しそうになってしまった。

 だから、優希の口の中から太い腕が飛び出してきたことも、羽海の背中から虫の羽のように毛むくじゃらの足が左右それぞれ生えていたことも、気にならなかった。

 何かが私に告げていた。気づいてはいけない。気にしてはいけない。

 実際、気にしないように努めたら、腕も足もいつの間にか消えていた。たぶんあんな出来事があったせいで、私のほうがおかしくなってしまっていただけなんだと思うようにした。

 そういうことは、その日一日だけで何度もあった。

 優希と羽海の中から這い出ようとしてくるなにものかだけでなく、街を歩く人々、電車の乗客、アパートの隣人――ぱっと目を向けると、気づいてはならない変化が人間を蝕んでいた。街を歩いていくひとたちは目からぼたぼたと血を垂れ流し、電車の中でスマホをいじっている乗客たちが持っているのはてのひらサイズの老婆、アパートの隣人の首には長い髪の毛が巻きついていて、首が外れたようにぶらぶらと揺れる。

 気にしないようにしておけば害はない――今のところは。だけど私の頭が完全に壊れてしまったのではないかという不安と、それ以上の、この世界がとっくの昔に壊れてしまっていたんじゃないかという限りなく確信に近い疑念。

 いや、実際に世界は私の目の前で一度壊れてしまったじゃないか。あの黒い太陽が地上を火の海に変えて、その後平然と元通りになっている。世界が修復されたということは、世界が壊れたという前提条件が必要になる。

 大学の講義が終わって、私たちは電車に乗って飲み屋に向かっていた。

 大学近辺にも当然飲み屋街はあるけど、値段が安いだけで客層も雰囲気も味も最悪なところばかりだ。一度この三人で大学近くの飲み屋に入ったところ、泥酔した客が絡んできたのを私が蹴りつぶしたせいで出禁になった。

 そのため三人で飲む時は電車賃をはたいてまともな居酒屋に向かうのが常だった。

 駅といえば、あの女――菊花が最後に言っていた言葉が気にかかる。

「ねえ羽海、きさらぎ駅って知ってる?」

 話す言葉のほとんどが意味不明なものに置き換わっていても、優希と羽海と会話をしない理由にはならない。気にしないように努めることは、無視で押し通るということでもある。

「きさらぎ駅? むしろ知らないのか美桜は。最近じゃテレビでもやってるくらいだぞ」

 私への返答のあとに、羽海の声で意味不明な言葉が延々続く。当然私は無視して、話の続きを促す。

「ネットロアってやつだな。電車に乗ってたらいつの間にか知らないところを通っていて、不安になって降りた駅の名前が『きさらぎ駅』。どこかもわからない、電車も来ない。そこからなんとか帰宅しようとするっていう話。もともとは2ちゃんねるの実況スレが最初だったはず」

 その後に続くめちゃくちゃな言葉を聞き流しながら、聞いたことあるかも、などと相づちを打つ。

 何が異世界だ。ファンタジー要素ゼロのオカルトスポットじゃないか。

 電車を降りて行きつけの居酒屋に向かう。正直、飲みに行く気分ではなかった。こんなふうな状態になっているのもあるし、あの日からまともに食事もとっていない。ふたりは私を心配して誘ってくれたのだろうが、何かを口に入れる行為自体に忌避感を持ってしまっていることまでは知らないはずだ。

 店に入って優希がビール、羽海が冷酒、私がウーロンハイを注文する。テーブル席で意味不明な言葉が混ざりながら話していると、飲み物とお通しが運ばれてきた。乾杯して、それぞれの酒を飲む。優希はひと息でジョッキを半分ほど干し、羽海はもう溢れて升に溜まった日本酒をグラスに注ぎ直している。私はというと、ジョッキの上澄みをすくうようにほんの少し傾けただけだった。

 お通しはおろしショウガが山盛りの小さい冷や奴と肉じゃがだった。さっそく箸をつけるふたりを見ながら、私は必死で気にしないように気を配った。

 私の目には、冷や奴の上に乗ったショウガが鰹節のように揺らめいて見えていた。肉じゃがはお通しだから冷たいはずなのに、ぐつぐつと煮立った泡が次々浮いてくる。

 今日のはかなりマシな部類だった。まだ異常に慣れていなかった時にカップ麺を食べようとお湯を注いでフタを開けたら、麺がカップの中でのたうち回っていた。結局気分が悪くなって食べることができず、それから今日までほぼ絶食状態だ。食べ物は特にこの世の異常を訴えかけてくる。不思議と空腹は感じないのが唯一の救いだろうか。

 大して濃くもないウーロンハイをなめた程度なのに、腹の底がかっと熱くなっていた。空きっ腹にアルコールはキツい。それも正真正銘空っぽの胃である。

 ウーロンハイのほうも、氷が触れてもいないのにカタカタと鳴り、底のほうにどろりとした澱が沈殿して渦巻いている。本当は口すらつけたくなかったのだが、一応は飲んだポーズをとらなければ申し訳が立たない。

 注文した料理が運ばれてくる。粉チーズたっぷりのシーザーサラダ。新鮮な刺身の盛り合わせ。だし巻き卵は毎回手焼きしているできたてだ。

 私が目を向けるとこうした料理たちまでもが、決して口に運べないような様相へと変貌する。優希と羽海に食べて食べてと勧めて、必死に目を向けないようにウーロンハイだけを注視する。

「美桜、マジで大丈夫? なんか食べたほうがいいってんちしんめいにちかってこうしたものはどうしてもころしてしまわないといかんといっておろうになぜなぜさっさところしてしまわんのだ」

「本当に気分悪そうだな……無理そうなら帰るか? 病院行くなら付き合うぞうむぞうがうるさくてかないませんでもうしわけないもうしわけないすぐにころしますとくころします」

「うん……ごめん。先帰るわ。お金置いてくね」

 財布から千円札を出してテーブルに置き、とぼとぼと店を出る。

 私の頭がおかしいのか。世界がおかしいのか。いずれにせよ、優希と羽海に心配をかけて、なんの説明もできないことが苦しかった。

 このあたりの駅前はそれなりに店も多いけど、どこも落ち着いた店ばかりで治安はいいほうだ。だから、夜の町中でいきなり上がった怒号は、よく響く。

 近いな、と思った。さっきまで入っていた居酒屋は駅からそれなりの距離がある。よって私はひとり、夜道を歩き続けなければならない。

 ひとりの時の私は無力だ。優希と羽海が隣にいなければ、やばい奴を見るなりぶちギレることなんてできない。

 今もそうだろうか、と疑問が浮かぶ。ひとりの私がキレることができないのはそのままだ。果たして今ここに優希と羽海がいたとして、私は以前のようにキレることができるのか。

 私はおかしくなってしまった。同様に、世界もおかしくなってしまった。優希と羽海も、また――

 そんな中で、私はまだかつてのように無敵と化すことができるのか。

 どっちにしろ、今の私はひとり。やばい奴に勝てる見込みはない。面倒ごとに巻き込まれる前にさっさと電車に乗って帰るのが一番だ。

 鐘楼でも鳴らすみたいに、怒号がぐわんぐわんと震えながら近づいてきていた。私が歩いているのは駅への最短ルート。ひょっとして声の主もまた駅に向かっているのか。どこか適当な店に入ってこの怒号が過ぎ去るのを待つべきかとも思ったが、すでに駅前への一本道に入っており、区画整理が行われているせいで営業している店がない。

 引き返して、声の主が電車なりで遠くへ行ってしまうのを待つ。たぶんそれが一番賢明な判断だ。

 踵を返す。

 道がなかった。

 私が歩いてきたはずの道が、真っ黒に塗りつぶされている。夜の闇に包まれたなどという生やさしいものではない。駅前の通りだから街灯は無数に存在したはずだし、さっき渡った横断歩道の信号機の光も見えない。最初からなかったことにされたみたいに、まったくの虚無が私の背後に広がっていた。

 右足を半歩前に出す。なんの感触もなく、つま先がスニーカーごと虚無に呑まれて消えていく。足を引いて初めて、自分のつま先が消えていることに気づく。目を凝らす。後ずさる。街灯の明かりに照らして、つま先が消失していることでパニックに陥る。その場で右足をどん、どん、と踏みならしたり左右に振ってみたりしていたらスニーカーがすっぽ抜けて虚無の中へ飛んでいく。ソックスだけとなった右足をあらためて確認すると、つま先がちゃんとあった。

 しかしスニーカーの片方が行方不明だ。この虚無の中に探しにいくわけにもいかない。つま先が消失するような空間の中に自分から踏み込む馬鹿はいない。靴を片方なくしたままだが一刻も早く退散するのが第一だ。裸足じゃないだけまだマシだと思おう。

 もう一度、踵を返す。

 男と目が合った。

 私が歩いていた道の先、駅前に続くその手前に、ガタイのいい三十がらみの男が揺らめくように立っていた。手には一升瓶を持っていて、遠くからだというのに視線は真っ直ぐ私を捉えていた。

 街灯の下にいるおかげで男の顔はよく見えた。記憶の中の顔と一致する。

 こんな時に、その時が来たのか――。

 男はひと月ほど前に、私と優希と羽海の前に現れて口に含んだ液体を吹きつけてきた。瞬間、私はぶちギレて、楽しそうに笑う男の顎を蹴り上げてあっという間に泣き喚かせてやった。

 先から聞こえていた怒号はこの男のものだったらしい。

「お前、お前、あれだろ、お前、この前、やったな、やりやがったな、女が、女の分際で、俺、殴ったな、この、この、このこのこのこの」

 酔っているのか、私の頭および世界が壊れたせいで言葉が不明瞭なのか、今の私に確かめるすべはない。

 いずれにせよ、男がやることはひとつ。報復だ。恐れていた時が来た。

 優希と羽海が隣にいない私は弱い。あれだけ勢いよく男を蹴り上げたはずの私が、今は恐怖に震えて身動きひとつとれずにいる。

 逃げなくては。振り向いて駆け出そうとする前に、より強大な恐怖が私を釘付けにした。

 背後は、虚無だ。

 振り返って確認することはしないしできない。だが今しがた見て、つま先を失ったあの虚無が背後に広がっているという確信があった。

 退路がない。男の立っている道の先にしか。

 でも、無理だ。今の弱っちい私に、やばい奴に近寄ってその脇を通り抜けるなんて芸当ができるわけがない。

 できるわけがないが――男の中での私は、あの日の優希と羽海が隣にいた自分よりはるかにやばい奴というイメージでまだ固定されている。今の私は怯えて泣き出しそうになっているが、男はまだ、どこかで私にビビってる。

 表情を消す。息を止める。無理矢理、足を前に出す。

 男の目には、キマった私が自分に詰め寄ってきているように見えている――ことを願う。

 虚勢も虚勢だったが、効果はあったらしい。男は明らかに動揺した顔で、あたふたとその場でまごつく。

 男との距離が手が届くまでに縮まった瞬間、私は身を低くして駆け出した。

 男の脇を抜けて、駅へと全力で走る。身体に違和感はない。男は私に手出しできなかった。今のうちに、電車に乗って逃げる――

 再び怒号が上がった。叫び声がどんどん近づいてくる。

 男を出し抜けた時間は短かった。早くしなければ追いつかれる。私に逃げられたことが頭にきたのか、虚仮にされたとでも思ったのか、怒号はさらに大きく汚くなっていた。

 ICカードで駅のホームに駆け込む。次の電車まで三分。駅員を見つけて、男に追われていることを説明する。だが駅員もホームの客も全員、顔がのっぺらぼうになっていた。私が話してもその場でワカメみたいに揺れるだけ。ああもう、こんな時に、また壊れてる。

 男が怒鳴りながらホームに乗り込んできた。予想通り、入り口から近い隣のホームに。男が私を見つけて、叫びながらホームをつなぐ階段へと向かう。あと一分で電車が来る。なんとか男が来る前に――必死に願っていると、やっと電車が到着する。

 電車に乗って、ほっと息を吐く。発車するのと同時に、くぐもった怒号が聞こえてきた。駅を離れても声は消えず、むしろ近づいてきている。

 まさかと連結部のドアから隣の車両を見ると、一升瓶を持ったあの男が叫びながらこちらに向かってきていた。

 私はすぐさま男と反対側の車両に向かって駆け出す。乗客に助けを求めようにも、駅と同じく全員がのっぺらぼうでワカメ状態だ。ゆらゆらと身体を揺らす乗客をかき分け、隣の車両へ。さらに走ってワカメをかき分け次の車両へ、と繰り返していく。

 この列車はいったい何両編成なのか――逃げて逃げて、ふとそんなことを思った。逃げる先があるのはありがたいが、逃げても逃げても先頭車両には至らない。本来なら数分で次の駅に着くはずなのにいつまで経っても停車しないが、時間感覚もほとんど失っているせいでそちらの異常になかなか気づけなかった。

 電車が減速する。ドア上の小さな電光掲示板に「こちら側のドアが開きます」と表示される。私はいったん足を止めて、そのドアの前に立った。車内に乗客はひとりもいなかった。

 怒号がはるか遠くで聞こえた気がした。停車し、開いたドアから駅に降りる。

 ほとんど照明のないホーム。剥き出しの蛍光灯の下の駅名標には、〈きさらぎ駅〉と書かれている。

「え……?」

「やっと来たか。思ったより粘ったな」

 聞き覚えのある低い声。

「菊花――」

「歓迎するよ美桜。ようこそ、異世界へ」

 菊花は、なんだか酷く残念そうな顔をしていた。

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