第33話

天斗の右目上から血が流れ、その血が少し目に入って片目を瞑っている。

そのせいで天斗は遠近感が上手く掴めない。

石田は天斗の右側に回り込み、死角になる顔面右側を狙って回し蹴りを放った。


ブォッ!


天斗はそれを小さなモーションで、紙一重でかわす。


そして石田は右フックを出すフェイントを仕掛け、左フックを繰り出した。


しかし、天斗は自分が回転しながら石田の左フックの勢いを利用して石田の手を取り、関節を捻ってマットに投げつけた。


ズドォーン!


「石田………喧嘩ルールで良いんだろ?」


「てめぇ……」


石田は関節の痛みと叩きつけられた身体の痛みとで苦悶の表情を浮かべ、膝を付いたまま立ち上がることが出来ない。


「石田、俺がその気ならここで追撃して俺の勝ちだが………まだやるのか?」


「ふ……ふざけんじゃねぇ!この素人が………」


「悪いが俺は格闘家じゃ無いんだ。リングの上でルールに縛られてやることは出来ない。だから、次はお前を潰すつもりで行かせてもらう。それでこの決着は終わりだ」


「お前………そのセリフは俺に勝ってから言いやがれ!」


石田はゆっくりと立ち上がった。


ダメだ……こいつには小手先の攻撃なんて絶対通用しない。かといって、掴みに行けば逆に投げられる。どうする……どうすれば勝算が生まれる……


石田は既に天斗に敵わないことを悟っている。


クソッ……当たりさえすれば……一発でも当たりさえすれば何とかなるのに……


石田は戦法を変え、身体を縮めて素早いジャブを繰り返した。突いては引き、引いては突く。素早いモーションで天斗に掴む隙を与えない。そして天斗が攻撃に転じる一瞬を狙ってカウンターを合わせるチャンスをうかがう。


シュッ、シュッ、シュシュッ!


天斗は全てを難なくかわすが、自分の目の上から流れ落ちた血で足が滑り、ほんの少しバランスを崩した。

石田はその隙を見逃さず、一気に踏み込み間合いを詰めて、天斗の死角から左ストレートを放った。


コッ!


天斗はそれを紙一重でかわしたはずだったのだが、それは天斗の顎をかすめて脳が揺れた。


石田のたった一発の拳だったが、中途半端にかすったのが返って衝撃を大きくしてしまった。石田のその拳の破壊力は凄まじく、天斗は一瞬世界がグラグラと歪んで見えた。


石田は天斗に追撃の手を緩めない。

隙を見せた天斗に一気にたたみかける様に顔面にフック、ボディブロー、とコンビネーションで連打を見舞った。


天斗はそのほとんどをガードしたが、石田は体力の続く限りその手を緩めなかった。


そして、天斗の膝がガクッと一瞬落ちた瞬間、石田は天斗の顎を目掛けて強烈なアッパーを繰り出した。


ドゴォ~ーーーー!


流石に天斗は天を仰いで後ろにのけ反り数歩下がって倒れそうになったが、ギリギリのところで何とか踏みとどまった。


天斗は生まれて初めてこれ程の重い拳を味わった。


「フッ………なかなかやるじゃないか………これは効いたぜ………だが………その程度では俺は倒せやしないな………」


石田は全力を尽くして拳を繰り出したので、既に息が上がってそれ以上追撃することが出来なかった。


「んじゃ、今度はこっちから行かせてもらうぜ!」


天斗はそう言ってゆっくりと石田に詰め寄る。

石田はラッシュで天斗を倒すつもりだったのだが、それが上手く行かず息を整えようとするが、まだ体力の回復が間に合わない。


天斗が素早く石田の目の前に踏み込んで、一瞬しゃがんで石田の視界から消えて左側に回り込み、そして石田の死角から廻し蹴りで顎にヒットさせた!


バコォ~ーーーー!


それは見事に決まり、石田はぶっ飛んでリングのロープに首が絡まる格好で崩れ落ちた。


石田は気を失って立ち上がることが出来ない。

天斗はその姿を見て終わりだと確信し、ゆっくりとリングを降りた。


ジムのメンバー達が、その姿を無言で見つめていた。

そして天斗は剛に向かって


「あぁ、疲れた……帰ろっか……」


そう言ってこのジムを後にする。


プロの格闘家の南出が我に返りすぐに石田の元へ駆け寄った。


「遼~!しっかりしろ!大丈夫か!遼~!」


石田はその声に反応し、ゆっくりと目を開いた。


「せ……先輩……あいつは……黒崎は……」


南出は首を振って


「あいつはもう出ていったよ……」


「先輩……………俺は………負けたんすか…………」


「そうだな………お前は十分よくやったが、アイツが強すぎたな………」


石田はその言葉に涙がこぼれ落ちた、


「先輩………俺は………俺は負けたことが無いんすよ………昔から一度もタイマンで負けたことなんか無いんすよ………なのに………あんな格闘家でも無い奴に………俺が負けるはずが無いんすよ!」


南出は石田の心情がよく理解出来た。しかし、南出自身も天斗の強さを目の当たりにして、もし自分がこのリングに立って天斗と対峙したらと想像してみると、認めたくは無いが、もしかしたら結果として今の石田と同じ状況になっていたのかも知れないと感じていたのであった。


「あぁ、あれはお前が少し油断してたせいかもな……素人相手にという油断だ………」


しかし、その言葉を発した南出が、一番その言葉を疑っていた。

そして、ジムの誰もが石田の圧倒的な勝利を疑わなかったにもかかわらず、逆に完敗したという事実は、ジム内に大きな波紋が広がっていった。


だがしかし、天斗が石田とやり合ったという噂が世に流れることは無かった。

それは、天斗自身も剛に口止めしていたし、石田側もジムに内緒にしていた手前、公にすることが出来なかったからだった。



天斗と剛がジムを出てから、剛が信じられない光景を目の当たりにして、興奮冷めやらぬといった表情で言った。


「なぁ、天斗!お前やっぱり本物だな!」


天斗は目の上の傷をハンカチで抑えながら言った。


「いや………あの石田は凄いよ………俺は何の油断もしてなかったし、全身全霊であいつとの勝負に挑んだんだ………未だかつて俺に傷を負わせた奴なんか居なかったのに………あれだけ集中力を注いでも喰らったんだ………あの石田はやっぱり本物だよ………」


「確かにあいつも強かったとは思うが、それ以上にお前の動きは神がかってたぞ!」


「まぁ、今までで一番最強の相手だと俺も確信してたから、俺もかなりアドレナリンが出てたかもな……」



天斗は家に帰ってから右目の上の傷を鏡で確認した。


何とか出血は止まったものの、傷口は思いの外深かったようで、パックリと口が開いている。

天斗はそれを少しでも塞がるように軽く押さえた。


そのとき、薫から電話が鳴った。


「もしもし?天斗………顔怪我したんだって?」


「まぁ………大したことないから………」


「あんたが顔に傷を付けられたなんて、やっぱりあの石田は噂通りの強さだったんだね!」


「あぁ、確かにあいつは強いな……」


「天斗、傷の手当てしてあげるからちょっと来て!」


「いいよ別に………」


「いいから来て!」


薫の語気が強くなったのを感じて、天斗は逆らうのを止めた。


「わかったよ……じゃあ頼むよ……」


「それでヨシ!あんたは放っておくとそのまま放置しかねないんだから!もし傷口にバイ菌とか……」


薫が説教を始めたのを天斗は制止した。


「わかったわかった!お前は話し出すと長いから、とりあえず行くよ!」


そう言って電話を切った。


それから10分後、天斗は薫の家に到着した。

玄関を開けて一声かける。


「お邪魔しまーす!」


すると丁度そこへ透が通りかかった。

透は天斗の傷を見て


「うわっ!お前その傷どうしたんだよ?」


「ちょっと喧嘩っつーか……」


「そうか、お前もやっと箔が付いたな!男は傷の一つも付いて一人前だ!」


「いや……そういう透さんには傷一つ無いじゃないですか……」


「そうだな!俺もまだまだ半人前だ!」


そう言ってゲラゲラと笑って去っていった。


天斗は薫の部屋へ向かい、ドアをノックした。


〝コンコン〟


「入って!」


〝ガチャ〟


天斗は久しぶりに薫の部屋へ通された。そこは、かつて天斗の知っている薫の部屋とはだいぶ雰囲気が変わっていた。

薫も少しずつ子供から大人へと成長しようとする姿が垣間見えた気がして、天斗は淋しさを覚えた。


「さあ、そこに座って」


薫がローソファに天斗を座らせた。

そして、天斗の傷の具合を確認してから


「けっこう傷口深いよ……本当なら病院で手当て受けた方が良いんだけど、どうせあんたなら行かないって言うに決まってるから良いよね」


そう言って手際よく消毒をしてガーゼとテープで処置を施した。


「やっぱり天斗は凄いね。石田はあぁ見えて格闘家の卵だし、スポンサーの間でも石田は今最も注目されてるらしいから……だから……ひょっとしたらって思ってたんだけど……」


「確かにあいつはすごく強かったけど、あいつ程度で格闘家目指せるんなら、透さんはもうプロの格闘家でも、十分実力派ってことになるな」


「まあね!兄ちゃんは生涯無敗のスーパーヒーローなんだから!」


「確かにな。透さんは皆のヒーローだな!でも、勿体ないよな………もし透さんが格闘家目指してたら、きっと世界も視野に入れる実力があるだろうに………」


「世の中には、表に出ない強者も居るっていう方がカッコ良くない?」


「それもそうだな!人知れず弱きを助けるスーパーヒーロー………返って人助けしてますアピールするよりもカッコ良いな!」


そう言って二人が久々に楽しそうに笑い合っていた。



一方、その頃………


石田は天斗に完敗した悔しさで、自信を失くしていた。

そして、南出もこのジムの面子を気にして不安を募らせていた。


「なぁ、石田………もし万が一あいつがこのことを広めてしまったら……ジムの面子が丸つぶれな上に、勝手にここで素人相手にリング立たせた事がバレちまうな………」


「もしそうなってしまったら……俺らどうなりますか?」


「どうかな……最悪……破門かもしれないな……」

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