赤と黒のかくれんぼ

リポヒロ

赤と黒のかくれんぼ

ごーお、よーん、さーん、にーい、いーち、

もーいーかーい


返答はない。少し待ってもう一度声を張りあげる。

もーいーかーい


やはり返答はない。長山太郎ながやま たろうは頭を預けていた大木から振り返り、蝉の声で埋め尽くされた公園を見回した。淡いオレンジ色に染まり始めた公園には誰もいない。隠れていて見えないという意味ではなく、自分以外は本当に誰もいないのだろうと太郎は悟っていた。

遊具の裏に回り込んで形式的に友人たちを探しながら、太郎は三日前の放課後を思い出していた。


*


午後四時二十分。ちょうど今と同じ時間。太郎の同級生五名は、太郎にかくれんぼの鬼をさせて、数を数えている隙に太郎に気づかれないように家に帰った。

まさか何も言わずに自分をおいてけぼりにしたとは知らずに、太郎は公園の隅々まで探した。ついにいじめの対象になってしまったのではないか。日頃から積もっていた鬱憤がその思い付きに拍車をかけた。結局、その放課後は、公園の隣に住む住人に声をかけられるまで、街灯の光も届かない暗闇のなかで、太郎はいるはずのない友人を探し続けた。住人に説教じみた注意をされ、友人の裏切りや大人からの不条理な言葉に半分泣きながら太郎は家に帰った。

しかし、目元を真っ赤に腫らした太郎を迎えたのは暖かい灯りではなく、公園のそれと同じ暗闇だった。電子レンジで温めた夕食を食べ終わり、ベッドのなかで意識が夢の世界へと溶けだす頃、ようやく玄関の開く音が聞こえた。太郎が両親の存在を確認できるのは毎夜まどろみの中で聞こえるこの玄関の音と、一週間ぶりに再開する二日間の休日だけだった。太郎にはそれで十分だった。否、齢十才にして彼はそれに慣れてしまっていた。太郎をよく知らない人間は彼のことを大人びた子だと評する。その評は間違っていないが、それは本当の自分を守る為に太郎自身が作り出した仮面に過ぎなかった。

毎夜眠りに落ちる直前、太郎は枕を強く握りしめ、涙が零れ落ちるのを耐えながら両親の存在を確認して就寝する。


翌日、小学校で再開した友人らは、面白い冗談を言ってやったかのように「昨日、どうだった?」と笑いながら太郎を小突いた。

少しいたずらを仕掛けて太郎を笑ってやろうという心積りだったのだろうが、しかし太郎はより深刻にそれを受け止めた。いつが始まりだったか太郎自身でさえ忘れてしまったが、小学校に入ってからずっと仲良くしていた彼らは、太郎のいささか前時代的かつ平凡な名前をからかっていた。


太郎助たろすけ太郎左衛門たろうざえもん、旧時代的なあだ名で呼ばれたり、社会の授業で日本史の話題になるとあからさまに太郎を指して笑われたり。武瑠たける陽翔はるとれん、いわゆる“今風”の名前を持つクラスメイト達が中心となって太郎をからかっていた。

いじめというにはささやかなそれは、しかし太郎の心に黒い塵を積もらせていた。

太郎は笑った。太郎には笑うことしかできなかった。太郎は知っていた。自分が我慢すればすべてが上手くいくことを。太郎は嫌いだった。自分の名前が。自分の名前を嫌わずにいられない自分が、何より嫌いだった。

そして今日。再びかくれんぼに誘われた時も二つ返事で了承した。三日前の出来事など忘れたかのように、満面の笑みで了承した。


*


太郎を含めた六人ほどのグループがよく遊んでいる公園はそれほど広いわけでもなく、また遊具も多くないので、十分もせずに子供一人が隠れられるような場所はすべて探し終わった。もっともその”探し”も形式的なものだったが。ため息も出ない。太郎は誰もいない公園に一人、無言で、真顔で、徐々に暗さを増すオレンジ色の空を仰いだ。数年前、気の置けなかった友人たちも、いよいよ仮面の向こう側に行ってしまったことを確信して、太郎は少しだけ俯いた。

帰ろうか。太郎は公園の出口へと一歩足を進めたが、ふと、帰っても何もないことを、誰も待っていないことを思い出した。そう、遊びたくもない遊びに付き合っていたのも、家での孤独な時間を少しでも短くするためだったことを思い出した。

出した足を引っ込める。このままここで過ごすのも悪くないんじゃないかと思い、太郎はブランコに座り込んだ。ふと誰かの声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。記憶の中から声の主を探そうとしていると、それは途端に思い出された。「それでは次のニュースです。」ニュース番組のキャスターの声だ。先日夏休みが明けたとはいえ、まだ十分に暑い。セミも遠くで鳴いている。公園の隣に住んでいる住人も窓を開け放っているのだろう。

太郎はこのニュースキャスターの声が嫌いだった。以前好きだったテレビアニメが放映していた頃は、放課後すぐに家に帰ってテレビにかじりついていたものだが、そのアニメが終わって夕方のニュース番組が始まる瞬間、太郎は得も言われぬ焦燥感と孤独を感じていた。空想の国から急に現実に引き戻されるような感覚。それが太郎は嫌いだった。好きだったアニメが最終回を迎えてからは、友人たちの遊びに付き合って放課後の孤独を穴埋めしていたが、それも今日終わった。彼らにいじめの対象として認識されたことで、名前のからかいで既にヒビが入っていた太郎の心は崩壊した。


太郎の嫌いな声がノイズ交じりに殺人事件や行方不明の詳細を淡々と読み上げるなか、太郎は足元に列をなす蟻を踏みつぶした。いち、に、さん、よん、ご、

がちゃり。扉を開けるような音で太郎は我に返った。音の方向からみて隣家の玄関だろう。三日前同様に説教を聞かされるのではないかと直感した太郎は、住人に見つからないように公園を後にした。ブランコの足元には濁った汁にまみれた蟻の死骸だけが残された。


*


空の端に藍色が差し始めた住宅街を歩きながら、太郎は何ヶ月か前にした父親との会話を思い出していた。

「なんでボクの名前、太郎っていうの?もっとカッコいいのがよかった。」

土曜日の昼下がり、リビングでテレビを見ている父親に問いかける。

太郎の声に気づいた父親は、リモコンでテレビの音量を下げて太郎に向き直る。

「えー、お父さんは太郎って名前カッコいいと思うけどなぁ。」

「カッコよくないよー。お父さんが考えたの?」

「いいや、お爺ちゃんがつけたんだよ。うちは昔から子供の名前はお爺ちゃんがつけるんだよ」

「お父さんの名前もおじいちゃんがつけたの?」

「お父さんにとってのお爺ちゃんだから、太郎のひいお爺ちゃんがお父さんの名前をつけてくれたんだよ。」

「へー。お父さんは自分の名前好きなの?」

「もちろん。お父さんは自分の名前が一番カッコいいと思うし、一番好きだよ。」

「ふーん。」

「いつか、太郎も自分の名前が好きになるよ。きっと。」


友人たちに名前をからかわれる度に、太郎は父親との会話を思い出していた。そして、最後の父親の言葉に「そんなはずない」といつも頭の中で返答していた。


*


いつのまにか俯いていた頭を持ち上げた太郎は、いつもの住宅街にふと違和感を感じた。匂いがしない。いつも通りならば、住人たちの作る夕食のいい匂いが漂ってきて、空腹と共に誰も家で待っていないことを思い出す帰り道だったが、今日の帰路は何の匂いもしなかった。太郎はその場で立ち止まり、何度も鼻を鳴らした。しかし、やはり何の匂いもしなかった。鼻から大きく息を吸い込み、そのまま吐く。明らかな異常を感じるなか、太郎の心は妙に落ち着いていた。

気のせいだろう。家に帰れば治ってるはずだ。

一種の現実逃避ともいえるその考えは、太郎の足を家の方角へと進める推進力となった。夕暮れの空は更に赤みを増した。


無臭の路地を奥へ奥へと進むと、先ほど公園の隣家から聞こえたニュースと同じ内容の文言が聞こえてきた。先ほど同様にノイズを交えたそれは、道路両脇の家から同時に聞こえてくる。太郎は足を動かしながら、雑音と言っても差し支えのないニュースキャスターの声に耳を傾けた。次々と機械的に読み上げられる事件の報道は、そのどれもが太郎と近しい年齢の子供を被害者として挙げていた。何度も事件の内容を読み上げる度に、砂嵐のようなノイズが大きくなるように感じた。

太郎は自宅へと続く道を一歩一歩着実に進む。確かに進んでいるのに、子供を被害者とするニュースは同じ声で繰り返し読み上げられる。数珠つなぎのように、ニュースが聞こえてくる家を通りすぎれば、その先の家からまた聞こえてくる。その先もその先の先の家からも、ノイズ混じりの同じ声が聞こえてくる。

太郎はふと、自分の腕に鳥肌が立ったのが分かった。今日は何かがおかしい。


実害があるわけではない。しかし、得体のしれない化け物のようなものが物陰から目を光らせているような居心地の悪い違和感を、血のような赤みをたたえる夕暮れの空気から太郎はひしひしと感じていた。誰かに助けを求めようにも、この奇妙な違和感をどう言い表せばいいのか分からない太郎には、しかし帰路を進む他に取れる選択肢がなかった。いつも通りの道順を辿って住宅街を進むと、雑多な家々の隙間からようやく太郎の自宅アパートが見えてきた。あとちょっと。自分でも気づかずにそう呟いた太郎の足はいつの間にか早足になっていた。


壁のように平らに刈り揃えられた生け垣の平屋。黒と白で統一された機械的な三階建ての一軒家。見慣れた近所の家々を過ぎると、駐輪場を兼ねた広場の奥に、太郎が暮らす七階建てのアパート郡があった。否、あるはずだった。

不安を煮詰めたような違和感の街並みから解放される安堵のためか、早足を通り越して全速力で走っていた太郎の足は、そこにあるはずの自宅アパートを前に、墜落する旅客機のように突然勢いを失った。太郎が両親と暮らすのはこの地域では中程度の所得層向けの、比較的立派なアパートの六階、角から三つ目の部屋、六〇三号室だった。しかし、いま太郎の目の前にあるのは五階建てのアパート。外見はそっくりだが、目を凝らすと細部が明らかに異なる全く別の建物だった。焦りからか道を間違えたかと思った太郎は素早く辺りを見回した。しかし、その視界に映るのはどれも五階建て以下の建物ばかり。見慣れてた近所の家々もよく見れば、一度も見たことのないものであることに気づいた。生垣に見えた緑色はゴーヤのグリーンカーテン。機械的な三階建ては四階建て。心臓の鼓動は速くなり、走ったことによるそれとは別に息が乱れる。気づけば太郎は、道の中央に座り込んでいた。火照った肌の表面を、場違いに冷たい汗がなぞる。


「……お、…ぉおお、」


既にノイズと化したニュースキャスターの声に混じって、ふと誰かの声が聞こえてきた。太郎はその声に聞き覚えがあったがハッキリとは思い出せない。暑さとパニックで混濁した意識をその声に集中させる。


「…ろぉおおお、…たろおぉおおお、」


その声が自分を呼んでいることに気づいた瞬間、太郎は声の主を思い出した。

九条武瑠くじょう たける

太郎とは対照的に“今風”な名前を持つ彼は、太郎をその名前にかこつけていじめていた数人のグループのリーダー的な存在だった。武瑠は小学生には似合わない一種のカリスマ性のようなものを持っていた。彼の周りには常に誰かがいて、彼が何かをすれば常に誰かが追従した。

実際、太郎自身、武瑠の名前だけでなくその言動をカッコいいと感じ、密かに憧れていた。直接話した回数は数えるほどだったが、よく通る彼の声は彼の取り巻き越しにも太郎の耳に届いていた。

そんな彼の聞きなれた声が聞こえてきて、太郎は酷く安堵していた。路地の奥、民家の角を曲がった先から響く声に縋るように、太郎は鉛のように重くなった体で這いずっていった。


「……たぁああろおおおぉ」


曲がり角に近づき、武瑠の声は徐々にハッキリと、大きく聞こえてくる。いつの間にかノイズに満ちたニュースキャスターの声はピタリと止んでいて、間延びした声で太郎の名前を呼ぶ声だけが緋色の住宅街に響いていた。

緊張と疲労から動かなくなった四肢を引きずって、芋虫のように体をよじりながらアスファルトの上を進む。そこかしこに擦り傷を作りながらも、太郎は痛みを忘れて曲がり角へと近づいていった。

ブロック塀の角から顔を出す直前、太郎は異変に気がついた。より厳密には、今までの“嗅覚が働いていなかったという異変”が取り除かれたことに気づいたのだ。太郎は今まで嗅いだことのない奇妙な匂いに思わず咳き込んだ。太郎の記憶から強いて挙げるとするならば、真夏の生ゴミや腐りかけた生肉、あるいは道端に転がっている動物の死骸を想起させる不快な匂いだった。


「たろぉぉおおおおおおお」


ついさっきまでブロック塀越しに聞こえていた声が、直接至近距離から聞こえた。どうやら、先ほど咳をした弾みで、曲がり角から顔を出していたようだった。強烈に有機的な悪臭が赤黒さを増す。太郎は壊れた自動人形のようにぎこちなく首を回し“それ”に顔を向けた。目の前にいたのは、太郎が密かに憧れを抱いていたカリスマ的同級生の姿ではなく、その左右にある民家に匹敵するほどの体積を持つ肉の塊だった。黒く濁った赤とピンクでおぞましいマーブル模様を形成したそれは、自家用車がギリギリ二台通れるほどの道路をブヨブヨとした肉で隙間なく埋めていた。


「たろおおおおおおおお」


鼓膜を突き抜けて心臓を直接揺さぶるような地鳴りにも似た叫び声を浴びながら、しかし太郎はその肉塊から目が離せないでいた。

所々腐敗したように黒く変色した肉に突き刺さるように、中程で力なく折れ曲がった棒状の触角が生えている。子供の腕や脚にも見えるそれは数秒に一度、思い出したかのようにビクンと痙攣をしている。しかし、太郎が注目したのは肉と肉の隙間、肉塊全体が蠢く度に見え隠れする人間の顔のような突起物だった。その突起物は肉に埋もれながらも、水泳選手が酸素を求めて息継ぎをするような必死さで口に見える亀裂を開閉している。そして発するのだ。


「…たろおお、……たぁああろおおおおぉぉお」


明らかに人外のそれである顔のような歪んだ突起物に、なぜか太郎はクラスメイトの面影を想起せざるを得なかった。太郎は確信していた。この顔は彼のクラスメイト、九条武瑠のものであると。

「武瑠くん?武瑠くんだよね!その中にいるの!?」

度重なる異常事態と精神的かつ肉体的な疲労により、太郎は正常な判断能力を失っていた。目の前の人外から逃げるという発想はなく、ただ自分の知っているクラスメイトが目の前にいるという安心感に縋っていた。

挽き肉を雑多な食材と混ぜ合わせるような生々しい音を立てて、肉塊は太郎に近づいた。肉塊が進む度に、地面やブロック塀に押し付けられた血肉が、ヤスリにかけられたように削り落とされ道路を赤黒く染めていく。

肉塊の接近を自身の問いかけに対する肯定と受け取った太郎は歓喜の声を上げた。

「武瑠くん!よかった!さっきからなんか、ワケわかんなくて。変なことばっか起きてるんだ。一緒に帰ろう!早く!」

太郎の叫び声に関係なく、尚も肉塊は血肉を撒き散らしながら太郎に近づいてくる。涙と鼻水と汗でぐしゃぐしゃに濡れた顔で太郎は自らも肉塊に這い寄る。太郎の目はギラギラと輝き、骨格の限界まで上げた口角は痙攣したように震えて引きつった笑い声を上げている。

肉塊に埋もれた顔が太郎の顔ににじり寄る。太郎の短い手を伸ばせば触れられるような距離まで近づいたとき、それまで無表情だった肉塊の顔が笑った。瞬間、太郎は数日前にドキュメンタリー番組で見たハイエナの狩りを思い出していた。毛皮の上から引きちぎられる肉。チーズの様に伸びる筋繊維。顎に滴る血。捕食者の笑顔。

肉塊の笑い声は、太郎が知らず上げていた笑い声に共鳴し、そしてそれを上回る大きさで形容しがたい不協和音を上げた。肉塊の笑い声に反比例して太郎の口角は下がっていく。太郎の口からは既に笑い声は出ておらず、戸惑いの声が漏れるのみだった。


いつの間にか夕暮れの赤は去り、夜の黒が辺りを埋め尽くしていた。

じっとりとした夜の冷たさが背中を這い登るのを感じながら、太郎は徐々に冷静さを取り戻していた。鼻孔を浸食する腐臭、鼓膜を貫く笑い声、血肉を撒き散らしながら体を震わせる眼前の肉の塊。

途端、太郎の四肢はバネのように彼の体を跳ね上げた。逃げなければならない。太郎の脳内は逃走の二文字で埋め尽くされた。疲れ切って動かなかったはずの上体を起こした反動で踵を反転させ、脚の筋肉を限界まで伸縮させる。動物本来の生存本能により極限まで無駄を排除した動きで、太郎は瞬時に肉塊の化け物から距離をとった。


「たろぉぉおおおおおおお」


奇怪な笑い声に交じって自分の名前を叫ぶ化け物を背に、太郎は走った。

道の先がどこに続いているかなど考える余裕はない。ひたすらに先へ先へと脚を動かした。がむしゃらに住宅街を走る途中、太郎の耳に届く怪物の声は止まなかった。追いかけてきているのか、それとも声量が増しているのか。太郎を呼ぶ怪物の声は止まないどころか少しづつ大きくなっているようにさえ太郎は感じた。太郎に後ろを振り返っている余裕はない。否、もう二度とあの化け物の悍ましい姿を見たくないというのが太郎の本心だった。あの姿を見ると、数分前にあの化け物を受け入れようとしていた自分を思い出してしまう。いま冷静に考えてみると、先ほどの自分は狂っていたとしか思えない。太郎は切れかけの街灯が点滅する路地を走りながら、全身に鳥肌が立つのを感じていた。


化け物の声が少しでも遠ざかる方向へがむしゃらに走り続けていると、いつの間にか辺りは太郎の見たことのない風景に変わっていた。小学生の脚で走れる距離なので以前に来たことがあるかもしれないが、街灯のみが照らす視界では目印になるようなものは見つけられなかった。見覚えのない家々や路地の新鮮な風景に、緊張しっぱなしだった太郎は少し浮き足立った。気づけば化け物の声は聞こえなくなっていた。不快極まりない肉の腐敗臭もしない。

アドレナリンが枯渇したのか、思い出したように疲労が押し寄せてくる。急に重くなった体を引きずって、都合よく近くに見つけた公園のベンチに座り込んだ。汗で全身びしょびしょに濡れた太郎は背もたれにこれでもかと体重を預け、無理な運動で痙攣した両脚を投げ出した。久しぶりに酸素が肺を満たす。深く呼吸を繰り返し、脚の痙攣が止むのを待った。太郎は生まれてからの数年、これほど空気が美味しいと感じたことはなかった。去年、両親に連れられて地元の山に登ったとき、山頂から自分達の住む街を見下ろしながら吸った倍は美味しい空気が、いまこの公園には満ちていた。


太郎が小さいため息をついて頭上を仰ぐと、すっかり暗くなった空を揺蕩たゆたう大きな月が、雲の隙間から顔を覗かせていた。少し眠気が差してきた。思えば、月が出るまで家に帰らなかった日など、三日前を含め数えるほどしかない。

さて、どうやってこの見知らぬ土地から我が家へ帰ろうかと思案しながら、太郎はひとまず現在地の確認をするために今いる公園の名前を確認することにした。大型家具店で座った高級ソファのごとく心地よい木製の簡素なベンチから口惜しげに立ち上がると、太郎は公園の入り口、先ほどは疲労の余り見逃した、公園の名前が刻まれているであろう背の低い石柱へと歩み寄った。

不規則に点滅を繰り返す街灯に照らされた直方体の石柱は所々角が削れ、この公園が作られてからの短くない年月が感じられた。苔のような緑色の何かに覆われ、辺りの暗さも相まってギリギリ文字として読めた公園の名前に、太郎は見覚えがあった。


突如激流のように甦る齢十歳の太郎が持つ、最も大切な記憶。いつの間にか忘れてしまっていた暖かく優しい記憶。


*


「太郎、楽しいかい?」

しわがれた声に振り返ると、そこにはシワだらけの顔で優しく微笑む太郎の祖父がいた。

「うん!」

破顔して威勢よく返事をすると、幼い太郎は短い手を一杯に伸ばして回転する鉄格子の球体に掴まった。その様子を見て、遊具の近くで杖をつく祖父はまた微笑んだ。

太郎の家族が住むアパートに一番近い公園からはその危険性が懸念され撤去された、色鮮やかな曲線状のパイプで組まれた回転式の遊具が、隣町のこの公園にはまだ残されていた。太郎は一番のお気に入りである球形の遊具で遊ぶため、両親の帰りが遅くなる毎週木曜日になると、心配性の両親には内緒で祖父と二人だけで隣町の公園まで遊びに来ていたのだった。太郎は毎週木曜の夕方、祖父と二人だけのこの時間が大好きだった。

しかし、その習慣が一年と続かないうちに、高齢の祖父は脚を悪くして、太郎の毎週の楽しみは自然とたち消えてしまった。それから一年後、自宅で転倒した際に頭を強く打ったことで脳に障害を負った祖父は、入院先の総合病院で太郎たち家族を他人だと認知したままその寿命を終えた。

太郎の記憶に残る祖父の最後の姿は、様々な管を繋がれて病院のベッドに横たわる酷く弱々しいものだった。両親とともにお見舞いに来たある日、二人は担当の医者と大事な話があると言って、太郎と祖父の二人だけが病室に残された。既に太郎のことを自身の孫と認知できていなかった祖父は、しかしその日だけはベッドの傍らで悲しそうな顔をしている少年を「太郎」と呼んだ。

戸惑いと驚きが綯い交ぜないまぜになった表情を浮かべる太郎の方へ僅かに首を傾け、彼の祖父はゆっくりと言葉を紡いだ。


「太郎。もし、どうしようもなく怖いものに遭ったときは、ただ逃げるだけじゃ駄目だよ。少しは逃げてもいいけど、自分を見失わないように、しっかりと自分を見つけるんだよ。」


虚ろな目でそう言うと、祖父は僅かに口角を上げて微笑んだ。太郎はいつの間にか祖父の手を握っていた両手に力を込めて無言で頷いた。


「大丈夫。お爺ちゃんもそうやって来たんだ。太郎ならもっと上手くやれるよ。」


そこまで聞いて、太郎は何故か急に悲しくなった。言葉を返そうとしても喉が引っかかって嗚咽のような声しか出ない。気づけば太郎の頬には涙が伝っていた。そして、太郎の祖父は、春の日差しのような暖かい笑顔のまま眠りについた。

その日から太郎は、毎週木曜日に遊びに行っていた公園には二度と行かなくなった。


*


次々と思い出される記憶に、太郎の目頭は熱くなった。

つい一年前の記憶に、太郎は既に懐かしさを感じていた。そして同時に、祖父がこの世からいなくなった事実にはっきりとした実感を持てないまま、いつの間にか一年の歳月を過ごしていた事実に太郎は驚いていた。

祖父が息を引き取る以前から、太郎含め数十年一緒に暮らした太郎の両親をも他人と認知していた祖父を見て、太郎は自分の知っている祖父にはもう会えないのだと感じていた。両親は、脳の病気で誰が誰だか分からなくなったのだと太郎に説明したが、そんなものは口から出まかせの言い訳でしかないと感じるほど、太郎は心のうちにどうしようもない虚しさを抱えていた。

葬儀でも、納骨でも、太郎は泣かなかった。

毎週木曜、いつも笑っていた祖父がいなくなった時から既に太郎の好きな祖父はこの世からいなくなっていた。身体が棺に納められようと、身体が灰になろうと、太郎が悲しみを覚える道理はなかった。

しかし今、祖父との楽しかった思い出が宝物のように大切にしまわれたこの公園で、太郎はひとり泣いた。

もうずっと前に会えなくなった、太郎の好きだった祖父が、いま自分のそばにいるのを太郎は確かに感じていた。

公園の入り口で俯き、溢れる涙を流れるままにしていた太郎は、勢いよく顔を上げすっかり汗の乾いたTシャツの袖で力強く涙をぬぐった。

「ありがとう、おじいちゃん。」太郎は静かに呟いて、痙攣の収まった脚で公園を後にした。わずかに月を覆っていた雲は綺麗に晴れ、煌々と太郎を照らしていた。


*


「たぁああろぉぉおおおおおおお」


夏特有の湿度の高い熱気で黒ずみと腐敗臭を増した肉塊は、不規則に点滅する街灯に照らされて、もう何度目になるか分からない咆哮を何処へともなくあげた。芋虫のように蠢きながら狭い路地を進む肉塊の背後は、削れ落ちた肉の破片で赤黒く染められていた。

夏場に放置した生ゴミのような不快な臭いが充満する路地の先に、太郎は現れた。


「たろおおおおおおおおおお」


先ほどまでのそれとは打って変わって、その矛先を明確にした叫びが太郎の鼓膜を震わせた。まだ空が夕日に赤く照らされていた数時間前に肉塊の化け物から逃げた時とは逆に、太郎はこの叫び声が大きくなる方向へと向かい、ついにそれと対峙した。山のように巨大な肉塊を前に、太郎の脚は止まらない。蠢きながら咆哮を上げ続ける肉塊へと、まっすぐ歩みを進める。太郎と肉塊の距離は数十センチ、先刻太郎が肉塊の醜悪な笑みに恐れをなした距離。さらに太郎は肉塊に近づく。歓喜をも思わせる咆哮を上げていた肉塊は、太郎の揺るぎない足取りに気圧されてか徐々にその不快な声を小さくする。ついに太郎が肉塊に触れようかという距離に迫った。とうに不気味な蠢きを止めていた肉塊は、太郎を前にして初めて後ずさった。肉塊はその巨魁に似合わない、小動物のような小さな悲鳴を上げて身をよじった。


「ぼく、もう逃げないよ。ちゃんと見つけるから」

太郎はぶよぶよとした肉と肉の隙間に両腕を突っ込んだ。壁のような肉の奥から断末魔のような悲鳴があがる。構わず太郎は血濡れた腕で肉塊を掻き分け、飲み込まれるようにして肉塊の中へと進んでいく。地面を蹴り上げて痙攣するように激しく脈動する肉塊に脚を踏み込むが、下の方に溜まった赤黒い半固体の肉が泥沼のように脚を飲み込み踏ん張りがきかない。波のように蠢く肉塊に全身を包まれた太郎は、その中を歩くことは諦めて泳ぐように四肢を動かして尚も奥へと進んだ。

ねばつく肉の隙間を奥へ進むほど、くぐもっていた肉塊の断末魔がよりはっきりとしたものに変わっていく。ここから抜け出せるという確信を前に、もはや五感全てを蹂躙する不快感は麻酔を打ったように一切感じられなくなっていた。

太郎の体感で十メートルは泳ぎ進んだ辺りで、今までの不快な柔らかさとは対照的な硬い感触を指先に感じた。視界を遮る肉の壁を全身で押しのけ、太郎は異質に硬いそれと対峙した。それは肉塊から首だけを突き出した人間の子供の顔のようだった。ほとんど泣き叫ぶような声を上げるそれは、不衛生な湿度を持った肉塊の海の中で、唯一血に濡れずに肉の壁に埋め込まれていた。

それは、太郎と同じ顔をしていた。まるで鏡写しのように、寸分違わず。ただ違うのは、一方が喚き、もう一方は静かに眼前を見ている点だった。

太郎は赤黒く濡れた両手でそれを静かに包み込んだ。肌色だったそれは太郎の手によって赤く染まっていく。自身と同じように赤黒く濡れたそれに顔を寄せて、どこか達観したように落ち着き払った太郎は子供に言い聞かせるように静かに口を開いた。


「長山太郎、みーつけた。」


瞬間、終始喚いていたそれはスイッチを切ったように押し黙り、太郎を包み込んでいた肉の海は力なく崩れていった。

肉塊の崩落を確認するや否や太郎は意識を失った。


*


晩夏、連日続いた蝉の合唱はとうに終わりを告げ、風鈴の音色が少し肌寒く感じられる昼下がり。

八畳ほどの和室に太郎は正座していた。目の前には祖父の写真が飾られた仏壇。線香の煙が細くたなびくなか、太郎は彼の最も敬愛する先祖に手を合わせていた。

「おじいちゃん、ありがとう。ぼく、上手くやれたよ。」

数分間、黙祷したのちそう呟いて太郎は立ち上がった。

「太郎、お父さん待ってるわよ。」

タイミングよく母親の声が聞こえてきた。

いまいく、と声を張り上げて太郎は和室を後にした。


廊下に置いていた自分のリュックサックを掴んで玄関へと向かう途中、網戸がはめ込まれた窓からニュースキャスターの声が聞こえてきた。

「五人の尊い命が犠牲になったあの悲劇から、既に一週間が経ちました。児童虐殺の犯人は未だ見つかっておらず、警察は事件当日、犠牲者の少年たちと一緒に遊んでいたとされる少年への取り調べを続けています。また、約六十年前に同じ地区で起きた児童虐殺事件との関連性を指摘する声も上がっており・・・」


玄関を出た太郎の頬を、秋の気配を携えた心地よい風が撫でた。

階下の駐車場では両親が太郎の名前を呼び、笑顔で手を振っている。

太郎はそれに答えるように、晴れやかな笑顔で両親のもとへと駆け出した。

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