第2話 パズル

 尾行がいないことを確認し、五葉いつはは自分のアパートの部屋に戻った。1Kの北向きの部屋で日も射さない。雨が激しいとベランダに面したガラス戸の枠に、じわじわと雨漏りがしてくる。あまりいい物件ではないが、五葉にとってはどうでもいいことだった。

「タチアナさんの言うとおりだったな」

 五葉は冷蔵庫からペットボトルの炭酸ジュースを出し、クッションに座った。テーブルの上には子供用のパズルが置いてあった。ピースごとに五十音が振ってあるものだ。

「ものすごく弱い鬼……特殊な擬態能力じゃなく、ただ単に人間を食っていないだけだったとは」

 五葉はジュースの蓋を開け、一口飲んで後ろの壁にもたれかかった。

「生きている鬼がまだいたとは。頭珠天ずしゅてんの血がなくても、元気そうだった。案外、頭珠天の血なんかなくても死なないんじゃないか」

 部屋には誰もいない。五葉だけだ。しかし、テーブルの上のパズルの文字が動いた。

 か、も、ね。

 指で弾いたように、その文字の書かれたピースが動いたのだ。

「しかし、随分と怯えていたな。あんな鬼、始めて見る。まるでこっちが鬼だ」

 また机の上のピースが動いた。

 ど、う、す、る、の。

 その文字の動きを見て、五葉はジュースを一口飲んだ。

「どうするのとは、今更だな。あなたが鬼の匂いがすると言ったのが始まりだ。他の夜合のように我関せずとしておけば、こんな風に俺も出向いたりしなかった」

 五葉は指の匂いを嗅いだ。まが百合の匂いが残っているような気がしたが、気のせいだった。あるいは、衣服に付いた残り香かも知れない。

「あなたが行けと言ったんだ。そうでしょう、タチアナさん」

 ち、が、う。

 違うとは、どういうことだ? 五葉は訝しく思い、胸に触れた。タチアナ・ザハロフは、そこにいた。今は、狩野五葉の肉体の一部となっている。

 タチアナ・ザハロフは、かつては普通の人だった。夜合の一員として戦っていた念動能力者である。

 だが頭珠天との最後の戦いで致命傷を負った。そこに同様に心臓に致命傷を負った五葉が居合わせ、タチアナは一縷の望みをかけて五葉の体内へとテレポートしたのだ。それにより、タチアナは五葉の心臓部分となり、今日まで半年余りの期間を共に生活をしている。

 胸の部分は人面瘡のようになっており、ミミズ腫れの様なひきつれが目と口のようになっている。タチアナの脳がどうなっているのかはよく分かっていないが、五葉とはパズルのピースを動かして意思の疎通をしている。視覚については五葉と感覚を共有しており、五葉が見ているものをタチアナも見ているらしい。

 人面瘡となったタチアナだが、その念動力は健在だった。念動能力のほかにも発火能力が使え、鬼の生体波動を匂いとして感知できる共感覚能力も持っている。

 あの花屋の鬼を見つけたのも、匂いの共感覚によるものだ。

 その能力はほぼ常時、意識せずとも発動しているものであり、街中ですれ違った時に気付いたものだった。それを知らされた五葉が同じ場所に出向き、その男が来るまで二週間ほどうろつきまわった。見鬼の目を発動し、すれ違う人を全員確認し、ようやく見つけたのだ。

 見つけてからもしばらく尾行し、同行を調査した。一人暮らしで、花屋のバイトが終わると家に帰る。食事はなんと、人と同じようなものを食べているようだった。部屋にだれか閉じ込めていて、そいつに食わせて血だけ飲んでいるのかとも思ったが、部屋の中を探っても無人だった。妙な鬼だった。

 ただ週末になると、何故か花を買ってどこかに出かけている。そこで人間を食っているのかも知れないと思ったが、見鬼の目で見ても変化はなかった。

 そして、今日だ。

 頭珠天亡き後も平然と生き続ける鬼。しかも人間を食っている様子もない。だが、それなりに元気そうにしている。

 鬼が人間を食わないというのは、人が食事をしないのと同義だ。腹が減るし、肉体を維持できない。一か月も人間を食わなければ、普通は飢餓により正気を失い、凶暴な獣のようになってしまう。訓練された鬼は理性を保てるが、その容貌は大きく変わる。肌は土気色になり、目は血走り、牙が尖り出す。見るからに鬼という容貌に変わるのだ。

 だがあの花屋の鬼は、全く変化している様子がなかった。五葉の目にもタチアナの目にもそう見えた。それこそ……普通の人のようだった。五葉はタチアナに言われなければ、絶対に気が付かなかっただろう。

 それで五葉もタチアナも不審に思い、同時に興味を持った。そしてタチアナが、会いに行けと五葉に言ったのだった。

 そう。行けと言ったのはタチアナさんだ。五葉は思い返していた。そう言われたから、その準備として尾行したり家まで様子を見に行ったりしたのだ。

 タチアナは記憶力がいい。それは五葉も認めている。だから、行けと言ったのはタチアナだ、に対する、違う、とは別の意味なのだろう。

 そう……行くことを決めたのは、自分だ。五葉はそう思った。

 鬼に会いに行くなど馬鹿げている。夜合やごうとして戦うのならともかく、興味本位でやることではない。しかし、五葉は行くことを決めた。好奇心と……あと半分の何か。いい加減な気持ちで決めたわけではないと五葉は思っていたが、では何故かと問われると、はっきりとした答えを返すことはできなかった。

 しかし……五葉は時々考える。このタチアナとの会話は、全部自分の妄想ではないかと。タチアナなど存在せず、この胸を埋めるのはただの肉の塊。彼女との会話ではなく、一人で人形遊びをしているだけなのかもしれない。

 しかし、五葉には念動力はない。それが今使えているのは、やはりタチアナがいるからで、いる以上はタチアナと実際に会話しているのだろう。確信は持てなかったが、五葉はそう思っていた。

 ど、う、す、る、の。

 またタチアナが同じ質問をした。

「……明日決めますよ。奴の答え次第だ。奴が怪しければ……殺しましょう。夜合として」

 五葉は胸に、タチアナに触れた。タチアナも念動力ではなく、口に見える部分の肉を一回動かして答えた。肯定の意味だ。

 夜合として? まったく、お笑い草だ。五葉は今の自分の状況を考えて静かに笑った。

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