第7話「亡くなった妻と、お茶を一緒に。5」

 

 自分でも嫌気が差すような黒い感情が湧き出て、困惑した。

このような思考を妻に悟られないように軽く咳払いをして、お茶を啜る。

少しぬるくなったお茶は、気分を変えるには少々力不足だったようだ。

心の奥底で生まれた澱が、海底がざわつくように未だに揺れている。


(自分の妻相手に、誘拐犯のような顔付きにでもなっていたらどうしようか)


 念の為、顔の下半分を片手で覆い、親指と人差し指で頬骨あたりを揺すっておく。

物理的に表情筋に手を加えれば、少しは落ち付くだろう。


「どうかしたの?」

「いや、何でもない」


 春香からすれば、表情がどうのこうのよりも、突然、顔を揉んでいること自体が不審だったようだ。

どろどろと湧き続ける黒い感情に、まだ、本来の自分の心が付いていっていない。

相反する感情を持て余すと、ごまかすために奇妙な行動を取ってしまいそうだ。


(色々と気を付けないとな……)


 夫婦になってからずいぶん経つが、やはり、春香には嫌われたくない。

妻に軽蔑されるのは、思春期の頃の一人娘に冷たくあしらわれた経験とは、また違う痛みだろう。

 嫌われたくない、でも手離したくもない。おそらく、どちらの感情とも上手く付き合う方法はあるのだろう。

しかし、今の自分にはその能力や思考が足りない。

つくづく、自分は不器用な男だと思った。


 自分でいうのも何だが、どちらかというと俺は「誠実」や「清廉潔白」な側の人間だと思っていた。

心身共に他人を傷つけるような者には、嫌悪感を抱く。それは今、この瞬間も変わってはいない。

 しかし、自分にも「どんなことをしてでも、もう一度、妻を手に入れたい。逃がしたくない」という願望があることに気付いてしまった。

「どんなことをしてでも」というは、つまり「春香にとって不本意な結果であっても」という内容も含まれている。


『住む世界が違う人を愛してしまった。だから、攫って軟禁してしまおう。相手も自分のことを想ってくれているのだから、何も問題はない』


 小説やドラマであれば、ドキドキ、ハラハラと興奮するシーンなのかもしれない。

しかし実際のところは、ただの犯罪心理だ。今、自分の心の奥で淀んでいる感情は、そういう忌み嫌われるものだ。

 これで愛妻家とは、聞いて呆れる。


 本当なら、生涯、こんな感情は知りたくなかった。


(あぁ。いや、違う……以前にも、似たような感情を覚えたような気がする。あれは確か……)


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