22.子どもみたいな人

「マリアンヌ様……」


 イレーナがマリアンヌを初めて見た時、彼女は子どものようにあどけなく、可憐な人だった。金色の髪は艶があり、肌はしみ一つないほどなめらかで、唇はふっくらと赤く色づいていた。


 けれど今のマリアンヌの髪はぼさぼさで、肌も吹き出物ができて荒れており、唇はかさついているのか色がなく、眠れていないのか目の下にはくまができていた。


 あまりにも変わり果てたマリアンヌの姿に、イレーナは言葉を失う。


「ふふ。なにをそんなに驚いていらっしゃるの?」

「マリアンヌ様。どうしてここに……」

「ダヴィドさまを取り返しにきたの」


 彼はどこにいるの? とマリアンヌはふらりとした足取りで部屋の中を見渡した。その様子があまりにも危うくて、イレーナはがたりと椅子から立ち上がった。その物音にマリアンヌがこちらへと視線を向ける。


「なにを、怯えていらっしゃるの?」


 マリアンヌの笑みに、イレーナはぞくりとした。美しくて、けれどどこか狂っている、女の笑み。それをかつて自分は見たことがある。


「おかあさま……」


 そう、イレーナの母親とそっくりの笑みをマリアンヌは今浮かべていた。


 あの日、部屋の中は滅茶苦茶だった。叩きつけたように割れたティーカップ。絨毯にこぼれてしまった紅茶。クッションに突き刺さったフォーク。そして、母の泣き叫ぶ姿。


 ――裏切り者! ぜんぶあの女のせいよ!


 あの日、イレーナは決して母の部屋へ行ってはいけないと侍女や婆や、そして兄にきつく言われていた。けれどイレーナは約束を守らなかった。三人目の妹を産んで体調を崩した母に一目でもいいから会いたかった。会って何を言おうとしていたのか。イレーナは思い出せない。思い出してはいけなかった。


「まぁ、イレーナさまったらおかしいわ。わたしのことをお母さまだなんて」


 ふふ、と笑うマリアンヌの顔が幼い記憶を呼び起こす。


 ――やめて。


「ダヴィド様が来ないの。毎日、毎日、わたしのことを愛していると言ってくれていたのに。あなただけだと、愛してくれたのに」


 マリアンヌがゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 ――来ないで。


 あの時と同じだ。イレーナの母も我が子の存在に気づくと、ゆっくりと近寄ってきた。とっておきのことを思いついたと微笑みながら。


「ねえ、ダヴィドさまに抱いてもらったの? 愛してもらったの?」


 そんなことしていない。必死で首を振るイレーナの姿も、マリアンヌには目に入っていないようだった。虚ろな目は、どこか遠くの方を見ている。


 きっとそこにはダヴィドを奪った、悪女のような女の姿が映っている。


「子どもまでできたのに。本当に幸せだったのに。それともあの人は、わたしに子どもを産ませたかっただけ? 産んだら自分の子にしていいとおっしゃってくれたのに。あなたを妻にしてあげるとおっしゃったのに。あれはすべて嘘だったの? あなたにできたから、あの子はもういらないの?」


 そう言ってゆっくりと彼女はイレーナの腹部を指差した。まるでそこにダヴィドの子どもを宿しているかのように。もちろん彼の子どもなんていない。生まれてもいない。それは誰もが知っている。マリアンヌ以外。


「マリアンヌ様、あなたは勘違いなさっているわ。ダヴィド様は私を愛していない。私と彼との間に子どもなんていません」


 マリアンヌは少し首をかしげ、口角を上げた。


「ではこれから愛しあうのね」

「ちが……」

「いいえ、違わないわ。あの人はもうわたしを愛していない。あなたを見ている。わたしはこんなにもあの人を愛しているのに。ねえどうして? そんなの、許されないわ」


 ――今日もあの人は来なかった。どうして、どうして、どうして……!


 聞きたくない声が聞こえた。誰かが泣いていた。白い手が、伸ばされる。


「やめて! 来ないで!」

「あなたがいなくなれば、ダヴィド様はきっとまた戻ってきて下さるわ。また、わたしを愛してくれるの」


 ひゅっ、とイレーナは息をのむ。飛びかかってきたマリアンヌに首を握りしめられ、息の根を止めようとするその光景。


 ――おまえがいなくなれば、きっとあの人は戻ってきてくれるわ。


 それはイレーナの母が幼い自分を殺そうとした姿とまったく同じだった。


 ――ああ、お母様。


 イレーナの目に涙が浮かぶ。母が怖かった。自分を殺そうとした母が信じられなかった。信じたくなかった。どうしてと言いたかった。どうして自分を見てくれないのか。子を殺してまで男に愛されたかったのか。


 幼いイレーナの疑問に母が答えることはなかった。使用人たちに羽交い締めにされ、そのままどこかへ連れて行かれた。そして自ら毒を煽って死んでしまった。だからイレーナの母の最期の姿は、己を殺そうとした姿だった。ちょうど今と同じように。


 呆然としたイレーナを、兄のリュシアンが抱きしめてくれた。ごめんな、と泣いて謝る兄に、イレーナは涙さえ出なかった。母に殺されそうになった。その事実はイレーナを子どものまま、置き去りにした。縛り付けたのだ。


 ――私はただ、愛されたかっただけなのに。


 生まれた赤ん坊がまた女の子でも、兄のリュシアンが跡継ぎだと言われても、自分が頑張るからどうか心配しないで、笑って欲しいと、ただそう伝えたかっただけなのに。


 ――今度こそ、私は死ぬんだわ。最愛の男に愛されなかった、お母様と同じ女に。


 そう思うとマリアンヌがまるで母の生まれ変わりのように思えた。いや、母の怨念かもしれない。


 自分の首を絞めようとするマリアンヌの手首には白い包帯が巻かれていた。彼女は死のうとした。それでも死ねなくて、生きている。生きている限り、苦しみが続く。苦しませている原因は、イレーナだ。


 ――私が死んだら、お母様の願いも叶えられるわ。


 イレーナはもういいやと思った。早くこの苦しみから解放されたい。誰かに恨まれてまで生きている意味なんて――


「イレーナ様!」


 凛とした声にイレーナの消えようとした意識が浮上する。遠くから聞こえる、切羽詰まったような男の声。


「せっかくあの子を産んだのに! 何の役にも立たなかった!」


 あなたは悪くないと、イレーナを許してくれた人。こんな自分を好きだと言ってくれた人の声。


「ち、がう……」


 ぎりぎりと渾身の力で首を絞めるマリアンヌの手首をイレーナは握った。彼女の目が見開く。


「子どもは…あなたたちの道具なんかじゃ、ないっ……!」


 まだ、自分は死にたくない。彼の笑った顔が見たい。彼の声でもう一度、自分の名を呼んで欲しい。


 生きたい、と強く思った。


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