19.残酷な選択

「マリアンヌ様が……?」


 侍女の知らせてくれた内容にイレーナは呆然となった。いや、心のどこかでいつかこんな日が来るのではないかと冷静に指摘する自分もいた。


「はい。ダヴィド様に愛されないのならば、生きている意味はないと……刃物でご自身を傷つけようとなさったみたいです」


 自殺しようとしたのだ。イレーナはそこまで追いつめられていたマリアンヌの精神にぞっとした。青ざめたイレーナに、侍女はさらに言いにくそうに付け加えた。


「その際、ノエル様もご一緒だったそうで……」

「自分の子どもまで殺そうとしたの!?」


 まさか、と目を見開くイレーナに侍女は慌てて首を振った。


「幸い乳母がそばにいたので、すぐにお止めになったそうで、ご無事だそうです」

「ノエル様を傷つけて、その後に自分も……ということ?」

「はい。その、子どもを一人残していくわけにはいかないという思いだったのかもしれません」


 マリアンヌと出会ったばかりのことを思い出す。ふっくらとした頬を薔薇色に染めて微笑んでいたあどけない少女の姿。その彼女が、子どもを道連れにしてあの世へ行こうとした。


「……今、お二人は?」

「マリアンヌ様は薬を飲んで落ち着いているようです。ただ、今後またこのようなことが起きたら困るので、しばらくはノエル様と会わせないようにすると、旦那様が」

「そう……」


 母親であるマリアンヌには酷な決断かもしれないが、正しい判断だと思った。息子であるノエルが目に入れば父親のダヴィドを思い出し、今の自分の置かれた状況を嫌でも思い知らされる。


 夫に相手にされないこと。愛人という不安定な立場。生まれたばかりの赤ん坊。


 ――追いつめられて当然だわ……。


「それなのに伯爵はどこへ行ったというの?」


 彼が朝早くから馬車で屋敷の外へ出て行くのを見かけ、イレーナは苛立たしげに尋ねた。侍女の顔が曇る。


「所要のため、外へ出るとのことです」

「こんな時に……?」


 どうして、とイレーナは手を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、痛みを覚えても、彼への怒りが収まらない。どうしてマリアンヌが大変な時にそばにいてやらない。どうして彼女を一人にするのか。


 ――逃げたのね……。


 伯爵は怖くなったのだ。自分がそこまでマリアンヌを追いつめていたという事実に。もしくは自殺まで図ろうとしたマリアンヌが鬱陶しくなったのか。


 ――お父様と同じだわ。


 イレーナの母の苦しみにも、父は見向きもしなかった。うるさそうに顔を顰め、無慈悲に背を向ける。そうして振り返ることもなく、屋敷から出て行った。どんなに母が縋っても、父は冷酷だった。


 己の父と同じことをダヴィドはマリアンヌに対して行っている。夫の仕打ちに、妻であるイレーナの心は遠ざかってゆくばかりだった。


「早くマリアンヌ様が良くなるよう、できるだけのことをしてあげて」

「奥様……」


 一番の薬は、ダヴィドがマリアンヌと向き合うこと。すまなかったと謝ること。今でもマリアンヌだけを愛していると告げること。言葉通りの行動を実行すること。けれど伯爵があの調子では、それも叶うのかどうかすら危うい。


 一度溝ができれば、それを埋めるのはとても難しいことだとイレーナは思う。この先彼らがどうなるのか、イレーナにはひどく不安であった。そして自分自身がどうなるかということも。


 ――彼女と会うべきなのだろうか。


 その時自分は、一体何を彼女に言えばいいのだろう。




「イレーナ。久しぶりだな」


 仕事から帰ったダヴィドはマリアンヌのもとでなく、イレーナの所へ足を運んだ。笑顔で歩み寄って来る彼の神経が、イレーナには理解できなかった。汚らわしい、とさえ思った。


「せっかく来て下さったようですが、すぐに帰って下さい。あなたのいる場所は、ここではないでしょう」

「冷たいことを言うな。私たちは夫婦だ」

「マリアンヌ様は大丈夫なのですか」


 はぁ、と彼はため息をついた。面倒なことを聞くな、という態度だった。


「貴女も周りも、大げさすぎるんだ。ちょっと手首を切っただけ。本気で死のうとしていたわけじゃない。ただ私の関心を引こうとしただけだ」

「死にたいと思ったことが問題なのでしょう」


 ちっとも事の重大さを理解していない夫に苛立ちが募る。


「ねぇ、ダヴィド様。今回は運よく何も起こりませんでしたが、次も大丈夫だとは限りませんのよ? マリアンヌ様ともう一度、きちんと向き合って下さい」


 懇願するように頼むイレーナの顔を、ダヴィドはなぜかじっと見つめてきた。


「貴女もシエルのようなことを言うんだな」

「シエル?」


 久しく会っていなかった人物の名を出され、イレーナはどきりとした。


「そうだ。私に貴女かマリアンヌのどちらかを選ぶよう、頭まで下げてお願いされたのだ」

「シエルが……」


 ああ。きっとシエルも気づいていたのだ。このままではよくないと。彼にそんなことを言わせてしまい、イレーナは申し訳なかった。そんな妻の表情を伯爵はじっと見つめており、実に淡々とした口調で言ってのけた。


「私はマリアンヌと別れて貴女を選ぼうと思う」

「は?」


 イレーナは最初聞き間違いだろうかと思った。


「私を選ぶ? マリアンヌ様ではなく?」

「そうだ。マリアンヌがああなった以上、貴族の妻としてはとうていやっていけまい。貴女の方が適任だ」


 ダヴィドの意見は、一理あるのだろう。けれど――


「それをあなたがおっしゃるのですか?」


 他でもないマリアンヌが一番愛する人ダヴィドが彼女を否定するのかとイレーナには信じられなかった。イレーナのありえないという顔を見て、ダヴィドは気まずそうに視線を逸らす。


「仕方がないことだ」

「ノエル様はどうなさるのですか」

「母と子は一緒の方がいい」

「父親はいらないと?」


 イレーナ、とダヴィドは聞き分けの悪い子を叱るように言った。


「私だってあの子は可愛い。だが今の状況の方があの子の教育によくないとは思わないのかい? 愛人と正妻。庶子という生まれ。大きくなっていくにつれ、あの子は自分の出自に苦しむはずだ」


 そうさせたのは、あなた自身だろうとイレーナは思った。


「彼女たちを追い出す必要はありません。私が出て行きます」

「だめだ」

「なぜです」


 イレーナはダヴィドの選択に納得できなかった。


「私があなたと離縁すれば、マリアンヌ様はあなたの妻となり、ノエル様はあなたの正式な後継者となる。何も問題はありません。むしろこれより正しい選択など絶対にありません」

「私はきみと別れるつもりはない」

「私はあなたと別れたいです」


 鋭く言い返したイレーナに、ダヴィドはしばし沈黙する。


「とにかく、これからはそういう方向で事を進める」

「ダヴィド様!」


 耳を傾けようとしないダヴィドに、イレーナは自身の感情を制御できなかった。


「どうしてそんな道を選ぶのですか! あなたが愛しているのは、マリアンヌ様のはずでしょう!?」


 今さら自分を妻にするだなんて、笑わせる。おかしい。あり得ない!


 淑女なら決して使ってはいけない言葉でダヴィドを罵りたかった。生まれて初めて人の頬を引っ叩きたい衝動に駆られた。


 わなわなと震えるイレーナに対して、ダヴィドは憎たらしいほど冷静な態度であった。彼女を落ち着かせようと手を伸ばす。もちろんイレーナはその手を振り払った。ダヴィドが一瞬傷ついたような顔をしたが、怒りを煽るだけだった。


「イレーナ。貴女は私を恨んでも構わない。私はすべてを受け入れるつもりだ。……だからもう一度、私にやり直させてくれ」

「そんなのっ……!」


 また来ると、ダヴィドは部屋を出て行った。


「……こんなの、認められないわ」


 絶対に、とイレーナは顔を覆った。


「奥様……」

「しばらく一人にしてちょうだい」


 気遣うような侍女の眼差しを振り払うようにイレーナはそう言った。一人になった後、窓際からダヴィドの姿を探すも、見当たらなかった。あの調子ではマリアンヌのもとへ帰ったかも怪しい。


 ――あの人はただマリアンヌ様と向き合うのが面倒だから私を選んだだけではないの?


 傷ついた女性を見捨てるのだ。ダヴィドの性根が、イレーナには許せなかった。


 目を細めて外の景色を見ていたイレーナは、ふと帽子を深々と被った人影が気になった。きょろきょろと、まるで誰かに見つかることを恐れているような怪しい振る舞い。侵入者だろうかと思ったイレーナに、ぱっとその人が顔を上げた。視線が確かにかち合い、イレーナは息を呑んだ。


「シエル……?」


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