12.許し

 シエルの指摘は正しかった。母はリュシアンも恨んでいたが、同じくらい娘であるイレーナも憎まずにはいられなかった。跡取りであるリュシアンを傷つけられない鬱憤を、何をしてもいいイレーナにぶつけたのだ。


 痛々しい傷痕をつけられたことはない。ぶたれたり、蹴られたこともない。ただ誰もいないところで、腕や太股をつねられた。それは服に隠れてしまう所で、知っているのは母の息がかかった乳母と侍女だけ。


 兄の世話を任されていた婆やだけが、心配して何かされているのではないかとイレーナにたずねたことがあった。それでもイレーナは何でもないと首を振った。何かを聞かれても、自分でやったと告白しなければ母の機嫌を損ねる。


 ――お母様は悪くない。


「ちがう。だってあれは……わたしのせいだもの……」


 喘ぐように答えるイレーナに、シエルは違うと言った。


「あなたが何をしたというのです。何も、していないでしょう」

「ちがう……わたしが、男の子だったら、そうしたら、お母様は許してくれた……わたしがあの時……」


 くしゃりと顔を歪め、イレーナは助けを求めるようにシエルを見た。


「シエル。わたしはどうすればよかったの? お母様は、ずっと私のせいだとおっしゃるの。お兄様が屋敷に来たのも、お母様に女の子ばかり産まれるのも、お父様がお母様を愛してくれなかったことも」


 己の過去を吐きだすたび、イレーナは自身が幼少の頃に戻る気がした。お母様は何をすれば喜んでくれたのだろう。勉強を頑張っても、女の子だからと言って見向きもしてくれなかった。成長して女らしくなるたび、母を失望させた。ぜんぶ無意味なものとして受けとめられた。


 イレーナには何もできなかった。母に認められない鬱屈とした気持ちは幼かった彼女を傷つけ、いっそ何もやらない方がましだと無気力にさせた。人に興味を持つことも、好きになることも、愛することも、彼女には持つことのできない感情であった。


 身体が成長しても、精神は母に認められない幼い子どものままで止まっていたからだ。


「わたしは生まれない方がよかったの?」

「イレーナ様……」


 生まれない方がよかった。イレーナは自分の言葉にそうだと思った。ずっと彼女が抱えてきた思いだった。自分の存在が母を傷つけていた事実に耐え切れなかった。


 ――ごめんなさい。ごめんなさい。お母様。


 いくら謝っても、許してもらえない。母はもうこの世にはいないのだから。


「そんなことありません」


 イレーナの冷え切った身体がふわりと温もりに包まれた。シエルに抱きしめられたのだ。イレーナは彼を突き飛ばすべきだった。こんなところを誰かに見られたら――だが彼女はシエルの言葉に胸を衝かれ、動けなかった。そんなことない、と彼は言ってくれた。


「私はイレーナ様に会えて、幸せです」


 シエルの囁くような声がイレーナの鼓膜を震わせる。


「幸せ? 私のような人間と会えて?」

「はい」

「うそよ」


 信じられなかった。自分は何の面白味もない人間だ。好きになる要素など何一つない気がした。


「いいえ。嘘ではありません」


 抱擁を解き、シエルはイレーナに微笑んだ。


「私はあなたが好きです」


 好き。愛しているということだ。


 忘れられない人がいる。ずっとそばにいたいと、シエルはイレーナに言ってくれた。自分に向けられた想いだった。気づいていた。けれど、イレーナがその気持ちに応えることはできなかった。彼もそのことを理解していた。わかった上で、イレーナのそばにいたいと申し出たのだ。


 シエルの目は、ダヴィドがイレーナに向けるものと同じであった。けれどそれよりもずっと、慈しむような目を彼はしていた。まるでイレーナの弱さや醜さも含めて愛しているというように。


「初めてあなたにお会いした時、あなたはとても美しかった。けれど同時に、どこか感情が乏しい、冷たい人だとも思った」


 ダヴィドと同じことをシエルは言った。


「それでも、そんなあなたが気になった。伯爵に相手をするよう言い渡されたことも、否定しません。でも心のどこかで命じられて喜ぶ自分もいた」


 シエルはやっぱり正直だ。ありのままに打ち明けられ、イレーナの方が戸惑う。


「あなたは無垢なようで、鋭いところがあった。マリアンヌ様のことも、私が思うよりずっと深く考えていられた」


 イレーナは視線を落とす。


「……あなたは私をただ憐れんだだけではないの?」


 優しい彼は、イレーナの境遇に同情し、それを恋慕だと勘違いしたのではないか。


「憐れみもあったかもしれません。……でも、あなたは強い人だ」

「強い?」


 思わず視線を上げると、優しくこちらを見つめる彼と目が合う。


「強いですよ。自分の境遇を嘆き、他者にその不満をぶつけることもできた。弱い人間は、そうなる方がずっと多いのです。でもあなたはそうしなかった」


 弱い人間。母がそうだったのかもしれない。行き場のない苛立ちや憎しみを、幼かったイレーナやリュシアンにぶつけた。そうすることでしか、己の心を保っていられなかった。


「お母様を哀れみ、兄であるリュシアン様を気にかけ、そしてマリアンヌ様の子である幸せも願った。優しくて、とても強い人ではないですか」


 そうなのだろうか。イレーナにはわからなかった。けれどシエルの静かで、それでいて力のこもった言い方は、イレーナの心をそっと撫でた。今まで、そんなふうに考えたことはなかった。


「優しくて、強いあなたに私は惹かれたのです。私の好きな人を、いない方がよかったなどと非道なこと、どうかおっしゃらないで下さい」

「シエル……」

「あなたは悪くない。あなたは自由に生きていい。お母様のことで、どうかご自身を傷つけないで下さい」


 自分は悪くない。母に縛られず、自由に生きていい。


 シエルの優しく微笑んでくれた表情が、水で溶かしたように滲んで見える。イレーナは気づけば涙を流していた。


「シエル。ありがとう。ありがとう……」


 次々と頬を伝う涙を拭いもせず、イレーナは何度もそうシエルに伝えた。こんな自分を好きだと言ってくれて。強いと認めてくれて。


 イレーナは初めて許された気がした。



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