第二章 三





 無数の目が、一斉に見開かれた。


 頭を割られた香澄の右半身が、妖しくうごめく。安全ピンのピアスが揺れていた。強風にあおられたタオルのように、忙しなく暴れている。


「死ね」


 瞬間、音が爆ぜた。


 停滞した空間は一挙に破壊された。航空爆撃を連想するほどの音の暴力。街路樹が、乗用車が、信号機が、ガードレールが、こときれた化け物たちが、地面に散らばる肉塊が、一瞬にしてバラバラに吹き飛ばされた。


「――っ」


 腹の底を揺さぶられる、凄まじい衝撃。そこから生じた突風で、透は思わず目を閉じてしまった。小石や肉片が顔を打った。息をするのも苦しくて、何度も息をつまらせながら、透は襲いかかる暴力の波動に耐えた。


 目を開けたときには、景色が変わっていた。


 香澄を中心に、半径五十メートルほどだろうか。消し飛んだ大小様々な物質のほかに、ビルの壁や看板、道路、至るところすべてが――穴だらけにされていた。


 透は、目を見開いた。


 香澄が、頭を押さえて佇んでいた。半分ほど割られた頭と、槍で貫かれた腹部から夥しい量の鮮血があふれている。地面は血の池のようになっていた。


 それなのに、彼女は頭痛を堪えているくらいの素振りしかみせていない。並の人間ならとっくに事切れている出血量だ。


 香澄は、腹に突き刺さった槍を掴んだ。ゆっくりと抜いていく。血が噴き出しても、まったく気にした素振りは見せず、それどころか周囲を見回して、ほうっと息を吐いていた。


「よかった。世界は消えていない。……澄空そらは生きていますね」


 そんなわけがないだろう。


 透は一瞬そう思ったが、すぐに自分の常識がもたらした反駁を否定する。


 常識など、この狂気の世界ではまったく通用しない。化け物となった香澄の中で、栄養を享受している赤ん坊だ。腹を刺されたから死んでいると、どうして言えるのか。


「……それにしても、許せない。私の赤ちゃんを傷つけるなんて」


 香澄の目が、血走っていく。


 膨らんだ怒気の迫力は、これまでのものが児戯に思えるほどだった。


「あいつ、私の知らない『殺意』だわ。おそらくは叔父様が盗み出した『M―0151』で間違いないでしょう。それの適合者を見つけたというの、あの叔父様が? ……まったく、冗談じゃないわよ」


 訳のわからない愚痴をこぼしながら、香澄は頭に突き刺さった刃物を、今度は乱暴に捨て去った。痛がる素振りすらない。


 正真正銘の化け物。


「……さて」


 香澄は、半分に割れて脳味噌のはみ出した頭を動かした。


 突如、手をかざした。


 十一時の方向、斜め上。ビルの壁に張り付く、フードの人外に向かって。


 轟音が走った。


 フードの人外がいたところに、巨大な穴が空いていた。


 透に見えたのは穴ができた瞬間で、フードの人外の動きは見えなかった。奴は、すでに向かいのビルの壁に取り付いていた。


 かわしたのだ、あの不可視の攻撃を。


 香澄の舌打ち。


 そして、轟音。フードの人外はこれもかわした。


 香澄に容赦などない。フードの人外が回避し、飛んだ先に、次々と穴を穿っていく。まるで機関銃の乱射だった。臓腑を揺るがす重たい音。舞い散る破片の雨。砂煙。


 人外の動きはあまりにも速すぎた。透の目ではまったく追えない。かろうじて残像が見えるだけ。気づけばいない。


 穴だけが残される。


「ちょこまかと」


 香澄は、苛立ちをあらわに攻撃を重ねる。

 が、当たらない。


 フードの人外は徐々に香澄との距離を詰めていた。


「――」


 人外が、両手を広げた。


 香澄の足元から無数の槍が飛び出した。赤い切っ先が、香澄の上半身を抉ろうと迫るが、寸前で空を切った。


 香澄の身体は宙にあった。妊娠しているとは思えない俊敏さだ。


 が、身体は浮いている。


 そこを、フードの人外は狙った。


 周囲の膨大な血液が、まるで山のように盛り上がった。それが一斉に形を変え、無尽蔵と思えるほどの刃となって、四方八方から香澄に遅いかかった。


 完全に、逃げようがない。


 が、香澄に動揺はない。


 彼女を殺そうと迫った刃は、当たる寸前で粉々に破壊された。


 なんなく着地してみせた香澄は、血塗れの腹部に手を当てる。


「ごめんね、澄空。もう少し待っててね。お母さん、必ずあいつをミンチに変えてあげるから」


 物騒なことを口にして、彼女は続けた。


「それにしても、調子が出ませんね。頭を割られたせいでしょうか。感覚がどうにも狂って仕方ありません。あの程度の相手に攻撃を当てられないなんて」


 フードの人外が、走った。


 狼を遥かに凌駕するスピード。なのに絨毯の上を走っているかのように足音がしない。弾丸のように駆け、香澄に肉薄する。


「仕方ないな」香澄の目が妖しく輝いた。「本気、出しますね」


 香澄の喉元に、フードの人外の刃が迫った瞬間だった。


 フードの人外が、後方に吹き飛んだ。


「――ッ」


 左の肩口に、穴が空いていた。


 地面に叩きつけられた彼は、ボールのように何度も転がると、道路に打ち捨てられた十トントラックへと激突した。大きく拉げた車体が、衝撃の強さを物語る。


「おいっ!」


 思わず、透は叫んだ。


 敵なのか味方なのかどうかさえわからない、ましてや人外の存在に、無意識に肩入れしている自分がいたのだ。それほどに、透にとって香澄の存在は邪悪なものになっていた。


「あははははっ、やっと当たったぁ……」


 悪魔の笑い声。


 香澄の方に目をやった透が、固まった。


 香澄の身体が、原型が分からなくなるほどに膨張していたからだ。右半身だけでなく左半身まで膨れ上がり、巨大な肉の風船となっている。それが、徐々に徐々に収束していき、ある瞬間に目にも留まらぬ速さで形を成した。


 恐ろしく白い、彫像のごとき妊婦の身体。


 全身を覆う、無数の赤い目。


 肩から伸びる六本の腕。


 側頭部から生えた角。


 そして、蜂と蜘蛛をかけあわせたかのごとき顔。


 あまりにもグロテスクだった。なのに、湧き上がるはずの嫌悪感がまったくといってない。それどころか、神聖で犯し難い雰囲気さえ感じられるほどだった。腹部からの夥しい出血ですら、なにかの儀式の跡だと思えるくらいだ。


 まるで聖母を目の当たりにしたかのような――。


 透は一瞬、我を忘れてしまった。


「……」


 本能が、理解していた。


 あれには、勝てないと。


「……あぁ」


 昆虫の翅が、孔雀のように背中から広がり、かすかな光を孕んで虹色に輝いた。


「兄さん、ワタシヲ……もっと見てぇ」 


 透は、完全にのまれていた。


 人間とはかけ離れた、神のごとき香澄の存在感に。


 その刹那、トラックが爆発的な音を立てて吹き飛んだ。


 フードの人外が、神速で壁を駆ける。


 地面の血が、彼の元に収束し、血の大玉を形成する。


「――アァッ」


 大玉が、爆ぜた。


 それは血の雹となって、散弾のように香澄へと降り注いだ。見た目以上にかなりの威力があるようだった。コンクリートの壁を削り、アスファルトを削り、ガードレールや看板などの構造物をバラバラに破壊する。


 とうの香澄は、微動だにしなかった。慈雨を受けるかのように悠々と構えている。赤い散弾が炸裂するたびに血の霧と砂煙が上がり、香澄の姿を覆い隠していく。


 くらっていない。


 予感というより確信だった。


 透ですらそう思ったくらいだ、フードの人外がそのことに思い至らないわけがない。


 彼は、瞬足で香澄の後ろ側に回り込んだ。あの雹は布石だ。香澄の視界を潰し、自身の気配を消すための一手。


 赤い刃物が、閃光を伴いながら翻った。先程とは比べ物にならない長い刀身。煙に消えた香澄にも、確実に当たる一撃――。


 金属音が空気を引き裂いた。


 が、振り抜かれた刀は、粉々に打ち砕かれていた。驚愕に目を見開くフードの人外。


 煙の中から、ぬっと三本の腕が覗いた。


 炸裂音。かわそうと飛び上がるフードの人外。


 が、コンマ数秒遅かった。


「――ガアアァッ」


 引き千切れた左腕が、宙を舞った。血を撒き散らしながら飛んでいく左腕は、弧を描き、透の目の前に落ちてきた。半月型に抉れた肉から真っ白な神経が飛び出している。魚の切り身から這いずり出た寄生虫のように見え、透は嫌悪感のあまり小さな悲鳴をこぼしてしまった。


 左腕を押さえ、フードの人外はよろめいていた。血が、見ていられないほどに迸っている。


 追撃。


 今度は、右の横腹が浅く抉られた。血が吹き出す。苦しげに呻いたフードの人外は、容赦のない連撃を避けるべくか、気合一閃し、距離をとった。


 煙から出た香澄は、ゆっくりと手を降ろし、哄笑を上げる。


「惜しかったナあ。もう少し深かったら、そのままミンチにできたノにぃ。惜しい惜しいデス」


 一頻り笑ったあと、香澄は言った。


「それにしても、血を操る力でスか。さらに気配を消す能力……。やはり『M―0151』は、『暗殺アサシン』の力だったようですネ。うフふっ、澄空を傷つけた外道とはいえ、研究成果が目の前に現レると、やはり興奮しますネェ」


「……」


「アナタ、成り立てでしょウ? 『殺意』になってから、そう日が経っていないはずですネ。……愚かなこと。半端な紛い物が、オリジナルであるワタシに逆らうなんテ」


「バケモノメ……」


「アナタには、言われたくないですネェ」


 香澄は、六本の腕を前に突き出した。


「そろそろ、死にましょうカ。澄空を虐めてくれたお礼デス。――バラバラにすり潰して、蝿の餌にしてやる」 


 凄まじい怒気とともに、香澄の暴力が放たれた。前方に集中した見えない力は、空気を破裂させ、血肉とコンクリートを消し飛ばした。フードの人外は、血を吐きながら壁へ飛び移り、かろうじて直撃を免れた。


 先ほどよりも明らかに動きが鈍い。三度の被弾が、確実にフードの人外の体力を奪っているようだった。


「いつまで保つかナ?」


 怒りと嗜虐の狭間で。


 香澄は、悪魔の破顔を見せた。


 轟然たる乱れ撃ち。その膨大な破壊は、すべて満身創痍の弱った獣に向けられたものだった。先ほどの機関銃のような連撃とは、もはや比べ物にならない。


 その物量は、刺突と呼ぶより爆撃に等しく、攻撃にさらされたビル郡の三階から上は、見るも無惨に崩壊した。瓦礫が、周囲に降り注ぐ。頭を抑えてうずくまる事しかできない自分が、情けなくて仕方がなかった。


 フードの人外がどうなったのか、わからない。


 爆撃が、止む。


 透が恐る恐る顔を上げると、香澄の周辺の血が再び盛り上がった。


「芸がないわネ」


 溜息をついた香澄に、血の刃が襲いかかる。だが、すべて香澄に当たる寸前で粉々に破壊された。それでも第二陣がすぐさま形成され、間髪入れずに発射される。


 分かりきった結果。


 香澄は、かすり傷一つ負うことはなかった。


 意味のない一手。敗色濃厚の中での、苦し紛れの王手と同じだ。透の目にもそう見えた。この攻撃は、あまりにも虚しい。


 だから、将棋盤を引っくり返す一手がそこに隠れていることには、気づいていなかった。


 透も、おそらくは香澄も。


 三射目は、やや趣向が変わった。


 打ち出した刃は、やはり香澄の目の前で灰燼に帰したが、その瞬間に蒸発し、赤い霧となって香澄を覆い尽くした。


「馬鹿ナの?」


 香澄がそういうのも無理はなかった。その手は、一度完封されているではないか。


 だが、今回は決定的に違った。フードの人外は、香澄の背後には現れず、透の背後に現れたのだ。


 肩を掴まれて、はじめて気付いた。


「……は?」


 間の抜けた声を出す透。


 振り返ると、血まみれの獣がいた。フードは消し飛び、その怪物じみた容姿があらわになっている。四つ目の狼だった。目が一つ潰れ、右耳も削り取られ、頬も抉られて骨が露出している。バケツに溜まった血を被ったように、顔面のすべてが真っ赤に染まっている。


 半死半生の狼は、たしかに微笑んだ。どこか悲しげな雰囲気を匂わせながら。


「トオルクン」


 怪物の顔が、変化していく。肉が膨れ上がり、ゆっくりと蠕動して、急速に形を成した。


 透は、目を見開いた。


 知っている顔だったから。


「ごめんね」


「――銀城」


 血濡れの化け物は、美しい少女に変わっていた。絹よりも艷やかな黒い長髪。そして、銀色の瞳。この世のものとは思えない雰囲気。静かで触れることすら躊躇われる、青い薔薇のような儚さ。


 血と傷にまみれているが、間違いない。

 透の同級生、銀城桜南ぎんじょうさなだ。


「なぜ、お前が」


「ごめんなさい」透の言葉を黙殺し、桜南は続けた。「こうするしかないの」


「は?」


 透の思考が事態に追いつく時間など、与えられなかった。


 桜南は、透を後ろから抱きすくめると、銀色の瞳を香澄の方へと向けた。


 瞬間、血の目眩ましが霧散した。


 現れた神聖なる怪物は、目の前の事態に完全に虚を突かれたようだった。


「――エ?」


狂愛ファム・ファタル


 桜南が、くつくつと笑った。


「教えてあげる。私はね、あなたのお兄さんと愛し合ったことがあるの」


 透が目を見開いた瞬間、キスをされた。鉄の匂いに満ちた、濃厚な口づけだった。驚きのあまり、透は侵入してきた舌を拒むことができなかった。


 見せつけるように。挑発するように。


 熱い接吻を続けながら香澄を睨んでいた。


 世界が、静寂と熱に沈む。


 香澄の無数の瞳は、ただ呆然と見つめるばかりで。時が止まったかのように動かなかった。


 桜南は、ようやく口を離した。二人の口にかかった銀の橋が、溶けた飴細工のように落ちていく。


 動けない香澄に、桜南は勝ち誇った顔を向け、言った。


 とどめの、言葉を。


「聞こえなかった? こんな風に愛し合っているの。少し前にね、私の初めて――透くんにあげちゃってたんだ」





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