10・黒板を引っ掻く

 保健室に運ばれピスキーは保険医のレネー先生に手当てを受ける。

「まったく、科学室で乱闘騒ぎを起すなんて、あんたたちは危険ってものを考えないのかい。信じられないよ、本当に」

 オズ魔法学園専属魔法医師レネー・キリー。

 清潔な白衣を着こなした、恰幅のいい体格の、壮年を過ぎつつある女性で、魔法医術という高度な技術の修得者として尊敬を集めているだけではなく、学園の母性的存在として生徒から教職員まで親しまれている。

 その彼女から怒られるのは、母親に叱られている気分になり、私たちは力なく萎縮する。

「幸い命に別状はなかったから良かったようなものを、もしこれが劇薬だったらどんなことになっていたか。リプターにも注意しておかないと。危険物の取り扱いを生徒だけに任せるなんて、職務怠慢もいいところだわ」

 サイリックはそのリプター先生を捜しに行き、ここにはいない。

 ウェンディはピスキーの寝ているベッドの脇で看病し、私とアッシュは見舞い客用の椅子に座っていた。

 昼休みは当に過ぎ、午後の最初の授業も終わる頃だが、魔導帝国コンビのために、私たちは保健室のベッドに寝かされていた。

 特に問題なのは、当然のことながらピスキーだ。

 あどけなく〈頬を摘みたくなる衝動に駆られる〉安らかなピスキーの寝顔からは、薬物の作用に苦痛がないことが見て取れる。

 命に別状はないとレネー先生が断言したのだから、その点に関しては安心していた。

 しかし昏睡状態から一時間以上も脱しないところを見ると、薬物がピスキーの体に影響を与えているのは確実だ。

 廊下からPFCの三人が保健室の中を窺っている。

「ああん、もう。ピスキーちゃんの寝顔をあんなに近くで見られるなんて」

「なんて羨ましいの、私が代わりたいわ」

「寝ているピスキーくんを目の前にして冷静でいられるなんて、僕には信じられない」

 だったら保健室に入って来なさいって。

「だいたいあの女なによ、ピスキーの近くにいて」

「本当に。馴れ馴れしい」

「僕が代わりに看病してあげたいよ」

 ウェンディになにやら嫉妬の視線を降り注がせている。

 だから保健室に入ってくればいいだけの話なのに。

「って、代わって何するつもりなの」

「変なこと考えてるわね」

「なにを言うんだい、失敬だな。僕は唇を奪いたいとか、キスしたいとか、口付けをしたいとか、あまつさえ舌を入れたいなどと、そんなことを考えているわけがないじゃないか」

 考えているらしい。

 私の隣でアッシュはピスキーが被った薬品のビンの欠片を手にしていた。

 説明ラベルが貼られている部分で、治療の役にたつだろうと持ってきたのだが。

「それで、アッシュくん、ピスキーくんの被った薬はなんだったの?」

 レネー先生の質問にアッシュが答えようとすると、シュバルトの呻き声が遮る。

「ぬぉおお……やめろぉ、止めろぉお」

 頭に包帯を巻かれたシュバルトが、ピスキーの隣のベッドでうなされている。

 先の乱闘の悪夢を見ているらしく、運ばれてからずっとこの調子だ。

「やめろぉ、アッシュぅ……貴様ぁ、正義の味方が、悪魔を呼んでいいと思っているのかぁ」

 私たちはアッシュの視線を向けた。

「アッシュ、悪魔を召喚したって、どういうこと?」

 異界知性体との意図的接触は国際法で禁じられており、重犯罪に分類されるのだが、アッシュはこともなげに答えた。

「思い付きで妖しげなもので対抗しようと思って」

「思い付きでそんなことしないでよ!」

 ウェンディが叫ぶ。

「詳しいこと知らないけど、あなた魔術師連盟の監視対象リストに載ってるんでしょ?! 悪魔召喚が知られたら審問に連れて行かれるわよ! そうなったらどうするの!?」

「ごまかす!」

 必要以上に力強く断言するアッシュに、私は嘆息した。

 だんだんシュバルトの性格が感染してきている。

 いや、元々こういう性格か。

 それにどちらかというと、重犯罪云々よりも、三秒もかけずに悪魔を召喚したアッシュの能力が問題だと思う。

 異界の生命体をこちら側に引き呼ぶには、通常一週間以上の儀式を必要とするが、それを数秒でやってのけたことに、誰も怪訝に思っていないようだった。

「ぬぉおお、やめろぉ」

 シュバルトはまだ呻いていた。

「ぁあぁ、黒板を引っ掻くのは止めろぉお……」

 黒板を引っ掻く?

「アッシュ、あんたどういう悪魔を呼んだの?」

「ノーコメント」

「あ、そう」

 深く考えるのは止めておいた。

 レネー先生が呆れたように頭を過振る。

「まったく、この学校は問題児ばかりだよ、本当に。それで、薬の説明はどうなったんだい?」

 話題を戻されて、アッシュは端的に答えた。

「媚薬です」

「「「………」」」

 しばらくの沈黙の後、ウェンディが叫んだ。

「媚薬!?」

「そ、媚薬。惚れ薬って言ったほうがわかりやすいか。使用方法は体に直接降り掛けるなり、食物に混入させて服用させるなり、色々応用可能。で、対象者はその直後に一定時間昏睡状態に陥り、まあ想像つくだろうが、意識回復から最初に目にした異性に恋をする、と」

「うっわー。なんか一騒動起きそうな感じねー」

 私がおどけると、ウェンディが抗議する。

「そんな呑気にしている場合じゃないでしょ。どうすればいいのよ? ピスキー、そのうち目を覚ますんでしょ」

「とりあえずリプター先生が来るまで待つしかないんじゃない? 科学室の管理、あの人だし。解毒剤のことも知っているでしょ」

「その前に目が覚めたら?」

「安全な人に恋してもらって、状態を確保するしかないわね」

「安全?」

 ウェンディの疑念の声に、私はPFCの三人を指差した。

「キャー、ホレ薬よ、惚れ薬」

「あたし、断然立候補しちゃう」

「よし、ここはひとつ僕がピスキーくんのために」

 女性生徒二人を押しのけて三年代表が前に出ようとするが、後ろから二人が引っ張って止めた。

「ダメー、私が先よ」

「っていうか異性じゃないと効果ないんでしょ」

「ああ、どうして僕は女の子に生まれなかったんだ」

 ウェンディは三人に目を向けたまま、なんとも言えない表情で沈黙。

「……」

 そして私は断言した。

「ああいうのは、論外」

「なるほど」

 ウェンディは納得して頷いたが、アッシュは先程からなにか思案している様子だった。

「どうしたの?」

「いや、学校一のゴリラ女の〈名誉人権プライバシーのため名前は削除〉に任せたらどうなるかなとか、人外魔境の〈名誉人権プライバシーのため名前は削除〉とはどうかなとか、顔面凶器の〈しつこいだが名誉人権プライバシーのため名前は削除〉とくっつけたら面白いかなとか、そういうことを考えたり思ったり企んでたりするわけじゃないぞ」

「考えたり思ったり企んでたりするわけね、ようするに」

「そうやってなんか酷いこと考えてないで、解決方法を考えてよ。ただでさえ私たちの教室問題が多いのに、これ以上問題が増えたら手に負えないでしょ」

 ウェンディの抗議に、間違いがあるのをアッシュは指摘する。

「ピスキー、教室違うだろ」

「そんなの意味ないじゃない、どうせ毎日私たちのところに来てるんだから」

「そりゃそうだけど、来ている理由って全部シュバルトが原因で、でもって俺を血祭りに上げようってことで来ているわけで……」

 アッシュはいつしか沈黙して考え始め、少ししてから、

「やっぱり一番面白そうな奴にくっつけよう。仕返しってことで」

「あんた結構性格悪くない」と私。

「なんでだ? 俺は被害者だぞ、こういうチャンスの時に軽く仕返しさせてくれたっていいだろ。面白そうだし」

「一番の理由が面白そうだからで、仕返しは二の次って感じじゃない。だいたいシュバルトを毎回返り討ちにしておいて、仕返しもなにもないでしょ」

「だからここで改めてピスキーにも静粛に粛清して……えーと……とにかく、面白そうだから、いいジャン」

「いや、ジャンって言われても」

「もー」

 ウェンディが、

「ふざけてるのか本気なのか〈たぶんかなり本気〉わかんないけど、そうやって酷いことばっかり考えるの止めて、少しは真剣に対応策に頭を使ってよ。いい加減にしないと、本当に審問に連れて行かれるわよ」

 レネー先生が不意にウェンディの頭を撫でる。

「よしよし。あんたがいてくれれば、この馬鹿どももとんでもない間違いは起さないだろうね。しっかり委員長を務めといてくれよ」

「わたしは委員長じゃありません!」

「ええ? 違うのかい?」

 ウェンディが憤慨して手を払い除けると、レネー先生は信じられないといった顔で聞き返した。

 ここの教師は誰もが同じ勘違いをし、誰もが同じ疑問を持つ。

「委員長はこっちです!」

 とウェンディは私を指す。

 私は二人に手を振って見せた。

 深い意味はなかったけど。

 レネー先生は思案して呟いた。

「人選ミスじゃないかねぇ。適任者がいるってのに。後でソニアにも注意しておくか」

「どういう意味ですか!」

 ウェンディが叫んだが、レネー先生の発言がどういう意味なのか、明確に知ることはなかった。

 ピスキーが目を覚ましてしまったので。



「「「あ」」」

 気がついた私たちは同時に声を上げた。

 いつの間にピスキーは目を覚ましていたのだろうか、上体を起して、寝惚けているのか薬物の影響なのか、虚ろな目を向けるその様子は、どこか妖艶だった。

「「「………」」」

 薬の最大の特徴は、最初に目にした異性に恋をする。

 最初に視認したのは誰なのか、目を覚ましたところを誰も見ていなかったため判断が付かず、沈黙する私たちへ、ピスキーはベッドから降りて、静かに緩慢に足を進め始めた。

「ちょ、ちょっと、クレアどうしよう?」

 縋るようにウェンディが私に尋ねるが、解決策など思いつくはずがない。

「いや、どうしようって言われても」

 ピスキーは一番近くにいたそのウェンディの前で足を止めた。

「あ、わたし? わたしなの? えっと、ちょっと待って、心の準備が」

 戸惑いうろたえるウェンディに、廊下のPFCが非難の囁き声。

「そんなのヤだー」

「あんな女のところへ行っちゃダメー」

「僕のところへおいでー」

 ウェンディは深呼吸して心の準備を整えると、満面の笑みで両手を広げて、受け入れ態勢万全の構えで待ち受ける。

「いいわ。はい、どうぞ」

 しかしピスキーは〈予想はつくだろうけど〉再び足を進めてウェンディの横を通過した。

「あれ?」

 ちょっと残念そうなウェンディ。

 そして今度はレネー先生の前で止まる。

「おや、あたしかい?」

 満更でもないような、どこか面白がっている顔で、レネー先生はピスキーの次の行動を待つ。

 しかし彼女なら変な考えは起さないだろうし、意外と、というか結構危険要素を孕んでいそうなウェンディより、状態確保に適任だったかもしれない。

「イヤー、年の差を考えてー」

「熟女のツバメになんかなっちゃダメー」

「僕の愛人になってー」

 しかしピスキーは〈予想は付くだろうけど〉レネー先生の横を素通りした。

「おや、違ったのかい」

 そして次は私の前で止まった。

「……」

 私はどうすればいいのかわからずに沈黙した。

 椅子に座ったまま腕組する姿は、傍からは傲岸不遜でふてぶてしく見えたかもしれない。

「なによあの女。余裕のある振りして、ムカつくー」

「なんか生意気ー。もっと慌てなさいよー」

「ピスキーくんの心を捕まえられるのにー」

 実際そう見えたようだった。

 だがピスキーは〈予想は付くだろうけど〉やっぱり私の前を通り過ぎたのだった。

「「「あれ?」」」

 私を除いた全員が疑念の声を呟いた。

「……まさか」

 嫌な予感に呟いたアッシュの前で立ち止まり、その手を握るとピスキーは〈まあ、予想は付くだろうけど〉瞳を潤ませ頬を朱に染めて、その思いの丈を告げたのだった。

「好き」

「「「………」」」

 面白くなってきそうだった。

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