Episode 8 一歩進んで二歩下がる

 将太郎は帰ってこない。

 リビングにまた独り、瑠璃香は湯気立つオムライスを食べているところだ。

 途中通知音が鳴った。すぐに確認してため息が漏れる。それから再度連絡が来たときは長文だったのか画面をスクロールして丁寧に二度確認していた。

 綺麗な瞳が上下して瞬きせずに読み続け次に瞳を隠したときには電源を落としてソファに放り投げた。

 空っぽの食器を洗い、湯浴みしてまたソファに戻ってくる。

 静かだ。なにも全ての音を遮断しているわけではない。テレビは付けられているし、風は窓を叩いているし、洗濯機は元気に稼働中。ただそれでもこの空間には静寂と標題を付けたくなるほど似合っている。



 ◇◇◇◇◇◇



 彼は職場からそう遠くないビジネスホテルに宿を取りフロントで手続きを済ませた。

 渡された鍵に記された部屋に向かい、中に入ってスーツを掛けたあとベッドに倒れ込んだ。

 彼女にはもう既に連絡している。


「瑠璃には悪いことしたかな……。上手くいってないってバラしたようなものだし」


 社長との時間は結論として曖昧にされてしまったが無駄になったとは彼は思っていない。ただ、あの様子だとどれだけ押しても捉えることができないように感じてどうすればいいのか見当がついてない状態だ。

 社長からすれば彼を説得して全てをなかったことにするというのが何より最善策となる。その条件としてこれからも友人としての付き合いを認めようとした。

 今の時代、芸能人側が事務所の方針を飲み込んで居続けることは多くない。合わなければ他の事務所に変えたり、独立したり幅広くその先の選択肢があるからだ。人気急上昇中の彼女であればこの事情を抱えていたとしても上手く立ち回らせて獲得しようとする事務所はそれなりにいるだろう。

 そのため手放したくはない社長からしてもどう対処すべきかまだ決めあぐねているところもある。強引すぎるほど二人との距離は開いていく一方なのだから。


「あの事件さえなければ社長ももっと寛容になっていたんだろうな」


 これまで幾度か出てきたが過去にあったことだ。

 当時はそれなりにニュースになった。


 午前零時、十八歳の少女が自宅に押し入った自称ファンの見知らぬ男に暴力を振るわれ抵抗の末逃げようとして階段から転げ落ち腕を骨折、顔にも外傷を負った。

 焦った男はその場から逃げ去ったようだがその後逮捕。動機は何度も送ったラブレターに返事がなかったこと。加えてテレビのなかでイケメン俳優や人気芸人にニコニコしている姿がまるで自分を馬鹿にしているようで耐えられなかったなどという馬鹿丸出しの結末だ。ちなみにその後、被害者の女の子は実家に帰り芸能界を引退している。


「どうすればいいのかな……」


 彼のなかでこの先のビジョンが全く見えてこない。何をどうしてもダメだと一蹴されるばかりで社長が頷いてくれない。

 こうなにもかもが上手くいかないときに感じるストレスは想像以上に心を傷つける。やる気を削いで思考を悪循環させていく一方だ。

 気分転換をするため珍しく買った缶ビールを開けてグッと口に流しこむ。家では殆ど飲むことがなかったから久々の味につい手が止まらなくなる。

 美味いとか不味いとかはどうでもいい。こののどごしの良さで一時的にでもなにも考えないでいい瞬間が欲しい。そんな思いで彼はどんどん缶を開けていった。

 気が付けばもう日を跨ぎ丑三つ時だ。

 意識がハッキリとしないままテーブルの上に並ぶ空き缶をコンビニ袋に入れて固結び。

 仕事前にはシャワーを浴びなければとフラフラとした足取りでバスルームに向かおうとするが体が言うことを聞かない。そのままベッドに倒れ込んだ。

 振動のせいで電源が入ったスマホの明かりが眩しく目を細めながら手に取った時、彼は社長からなにやらメッセージが来ていることに気が付いた。


「なになに…………ああ、次の子のことか」


 あくまで何もなかった体で進めたい社長は次の仕事を早めることで彼がこのことについてさらに考える時間を与えたくない。そのため彼が一応返信はせねばと微かに残っていた社会人精神でメッセージの全容を見たときそこには明日正午からは次の担当を連れて土曜日までの三日間、体験同棲を行うことと書かれていた。


「クソっ……でも、何も知らないこの子のため、なにより瑠璃のためにも今は従うしかないのか……」


 どうにかしてでも社長と話を付けないと彼も事務所を辞めることは出来ない。他人になってしまえば取り合ってもらうことすらできなくなるからだ。

 その点を利用した社長の一先ずの策。

 とにかくどうにか残り二週間強、最後には彼女に胸を張って君のことが好きだと言えるよう頑張っていこうと再度遠のいていく意識のなかで誓ったのだった。

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