第43話 想い出を重ねる
「お待たせしました。すみません」
淡いピンク色のワンピースを着た女の子は、小走りをしながら俺のもとへやってきた。数時間ぶりに見る彼女の顔は、どこかスッキリしたように見えた。
「大丈夫だよ。本を読みながら待ってたし。それよりも、どうだった? 上手く話せたか?」
「全然できませんでした。本当は、もっと楽しく話すつもりだったんですけど」
「いい人そうじゃなかったのか?」
「いえ、むしろその逆でした。……こんなにいい人が、私と一緒にいていいのかなと思うくらいに」
そう話す優子ちゃんは、どこか浮ついているようだった。まるで、思っていることを話したくはないような、そんな抵抗感のようなものが見えた。
多分、話していて疲れてしまったのだろう。慣れていない相手との会話は、とても疲れるものだから。
「少し、遠回りして帰りませんか」
「どこか寄りたいところがあるの?」
「いいえ、そういうわけじゃないんです。ただ……飛鳥さんとお話したいことがあって」
「電車、ちょうど来るよ?」
「歩きたい気分なんです…よ!」
どこか喫茶店にでも寄ろうかと提案してみたが、そういう気分ではないようだ。
俺たちはケーブルカーの最寄り駅まで歩くことにした。川沿いに進んでいけばいいだけなので、特に難しいことはない。彼女がどうしてこんなに大胆なことをしているのかということを考えるよりは、だけれど。
「本当に個人的な話なんですけど」
「そんなにかしこまらなくていいよ。それで?」
話を聞くことに徹しようと決めた俺は、黙って優子ちゃんの声に耳を傾けた。
「私、本当の両親のことを全く知らないんです。顔も名前も、どこにいるのかも知りません」
彼女の目線の先にあるのは、俺ではなく、この続いていく道でもなく、遠くに見える水平線だった。沈んでいく夕陽に照らされて、顔が真っ赤になっていた。
「育ててくれた両親には、感謝しているんです。もしあの二人がいなかったら、きっと私は生きていないと思うから。それでも、私はそこから逃げてしまったんです。逃げてきた先が、女将さんのところでした。事情を知った両親が迎えに来たこともありましたが、断りました。女将さんは、いつだって私の味方をしてくれた。それからの私は、世間と関わりを持つ一切のことをやめました。だからこそ、もう
「そういうことだったのか」
「はい。時々来る“偉い人”が言うんです。『ここに居ては体が穢れる。いつか、心まで穢れるだろう』って。言いたいことは分かります。でも、それってなんなんですか? 考えれば考えるほど、分からないことが増えていきました。だんだんと、嘘をつくようになりました。決して触れてほしくない領域に入り込めないように、嘘と本当を混ぜて話す。そうするとバレないんです。それを悲しいなんて思うことは、甘えだと思うから」
いくら仕事とはいえ、彼女のやっていることはプライベートと表裏一体のこと。そうしないと耐えられないほど、彼女は辛かったんだ。それでも、そこは逃げてきた場所。逃げ場などなかったのだろう。
「そんなときに、ある夢を見たんです。袴を着たお姉さんが、私に優しく話しかけてくれる夢を。お姉さんと会うのは初めてのはずなのに、何度も会ったことがあるような気がした。夢の中で言葉を話すことはできなかったけれど、そばにいて包んでくれた。その次の日の朝にやってきたのが、紫織お姉さん。だから、私は夢の中のお姉さんと紫織さんは同じ人なのかもしれないって、馬鹿みたいに信じてたんです」
「でも、仲良かったんだろ?」
「はい。女将さんにもよかったねっていつも言われていました。時間が経っていくほどに、こんな時間が永遠に続くって思い込んでいました。けど、突然終わりました。紫織お姉さんは、私のことを置いて東桜から出て行ってしまいました。しばらくなにも考えられなくて、仕事もミスしてばかりで。女将さんにいっぱい迷惑をかけて。だんだんとそれが収まってきたくらいの時期、またお姉さんの夢を見たんです」
「夢に出てきたのは、同じ人だったの?」
「同じ人でした。はっきりと覚えていたから、はっきりと見えただけなのかもしれないけれど。そして、そのあとで会ったのが飛鳥さんでした」
話の流れを考えればそうなるかとは思っていたものの、お姉さんと俺になんの繋がりもなさそうだが。
「でも飛鳥さんは男の人でした。お姉さんじゃないから、夢に出てきたお姉さんは、やっぱり紫織お姉さんだったのかなと思ってたんです。夢のことがだんだんと薄れていって、しばらくが経った頃。飛鳥さんが、東桜の外の話をしてくれました。だいたいの方は、そういう話になったときにそこで働く人たちのことを、どこかで見下しているような話し方をするんです」
「想像はつくね」
世の中というのは、理不尽なことが溢れている。どうしようもないことで、優子ちゃんは今までどれだけ辛い思いをしてきたのだろう。そう考えることは容易いが、決して同情してはいけない。それは、きっと彼女が望むことではないから。
「飛鳥さんは、その話の最中も私のことを“ただの女の子”として接してくれました。そのせいで、私はあなたのことが気になるようになってしまいました。私が“男”だったら、きっと告白していたと思います」
「…いつそれを?」
「夢の中で見たお姉さんの顔が、飛鳥さんと似ていたから」
「……引っかかった」
予想以上に簡単に罠にはまってしまったからか、彼女はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。俺は俺で、あまりに単純なはまりかたをしてしまったので、とても恥ずかしい。
「どうして男装してるんですか? ……あ、えっと、答えたくないことだったら大丈夫です」
「そうだなぁ。強いて言えば、女にも男にもなりたくなかったから、かな」
「余計に分からなくなりました」
あの人へさよならを伝えるために訪れたはずの、上崎新地。いろいろなことを知り、いろいろなことを忘れようと努力した。
そうして行き着いた
いつまでもこのままじゃ、いけないんだ。
「菜畑さん」
「……はぁ」
「まだアレって有効なのか」
「私のことは、優子でいいですから」
「優子ちゃんは、これから先も上手くやっていけるよ。きっと大丈夫だ」
「無責任なこと、言わないでくださいよ。…もう、飛鳥さんは上崎を出ていくんですか?」
きっかけというには、小さくてはっきりしていない。だが、これを逃してしまうともう俺はこのぬるま湯に浸かったままになってしまいそうで、怖かった。
「そうだね。優子ちゃんを見送ったら、上崎新地からは身を引く」
「なんだか、残念です」
「俺が出て行かなくても、優子ちゃんが先に離れちゃうだろう?」
「それは違いますよ。私が帰ってくる場所は、いつだってここにあるんですから」
春が来るまでに、ここを離れる。ここで自分がするべきことは、全部終わらせた。
過去の日記を開くことは、きっともうないだろう。それらはもう、必要のないものになってしまったからだ。
「わたしはあなたが……飛鳥さんのことが好きでした。けれど、どうして飛鳥さんは私に構ってくれたんですか? ただの旅館で働く、目立ったところのない人間なのに」
「優子ちゃんのことがどうしようもなく気になってしまうから、だと理由が甘いかな」
「曖昧で、ずるいですね」
「もし次に再会できるときがあるなら、多分紫陽花が見える時期だな」
優子ちゃんに別れを告げ、紫織さんへさよならを伝え、過去の自分を置いて行く。
もう繰り返す必要はない。だから、離れる日にこの日記たちは燃やして行こう。
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