2017.12.10 銀の鏡面





 今日は、いい天気だった。


 辺りはびゅうびゅう北風が吹いて寒かったけど、日差しはどこまでも柔らかくて、きらきら反射する湖面の銀色の光が、ずっとずっと向こう側まで続いていた。海にはあまり行ったことがないのだけれど、夏場のビーチと比べても、断然綺麗だったと思う。たぶん人がいなくて、とても静かだったのと、湖畔を包む冷たい空気が、遠い、遠い……垣間見ることだけなら簡単だが、絶対に触れようのない光を、より眩く見せていたのだと思う。


「時々思うんだよね。なんていうか、この世界は、私を泣かせたくて仕方ないんじゃないかって」


 そんな光を見ながら、雅火さんと喋った。二人で錆びたベンチに腰掛けて、答える言葉を探していると、「被害妄想とか、感傷的な気分で言ってるんじゃなくてね」と、彼女はそう付け加えて笑った。


「事実から冷静に考えて、そうとしか思えない時があるんだよ。悪意でも善意でも……良い人も悪い人も、この世のありとあらゆる人が、私の信じる幸せを否定して、取り上げて、絶望に打ちひしがれる私の様を、見たくて見たくてしょうがないんじゃないか、って。まるで刺激に飢えた年寄り共が、パチンコの音と光に群がるみたいに。ねえ、密軌君はどう? 私が手首切った時、美しい気分になった? 自分の満たされない人生の、埋まらない穴でも、塞がった気になったかな」

 答えを口にする代わりに、俺はクリニックから持ってきた、熱いコーヒーの入ったタンブラーを手渡した。雅火さんはそれを開けて、香りを少し吸い込んだあとで、「先生のだ」と口元だけで笑った。


 それから何を話したのか……


 とめどなく色んなことを話したような、でも、呼吸以外の音を発さず、ただそばにいただけのような。まだ今日の、ついさっきの出来事だというのに、判然としない。すべてがおぼろな幻のように思える。日差しは優しかった。それが……たぶんそのせいで。甘やかな白昼の夢のように、記憶に溜まる端から、蜂蜜みたいに流れ出した。でも、哀しいとかは、不思議とない。本当に。

 たとえ全てのことを忘れてしまっても、そこに確かにあったことは、覚えている。きっとそういうものなのだ。本当の幸せと呼ばれる類のものは。


「何を見てもうんざりしたよ」


「心を癒すために何か見る気にもならなかった」


「新しいもの……新しい文化とかいってもさ、結局、今まで日の当たらない場所で平和に暮らしてたものを、下らない商売人たちが勝手な都合で、灼熱の日の下に引きずり出してきただけに思えた。最新だなんだと謳われても、なんだか干物の市場みたいに見えた。だからね、きみの膵臓を何とかって話が流行った時は、『ついに臓器まで取り立てに来たか』って、笑ったよ。■■くんと二人でね」


 覚えている台詞を書き出したら、何の話をしていたのか、ようやく思い出せた。雅火さんが音原先生のところに来たばかりの頃(つまり家族と死に別れたばかりの頃)、どんなふうに過ごしていたのかについて、俺は尋ねたのだ。

 彼女は——ただ「過ごしていた」と言った。

 気の遠くなるような自由と不自由を前に、どうすることもできず、ひたすら、過ごしていた、と。神の罰なのか贈り物なのかすらわからない、膨大な時間を。その無力とも万能ともつかない感覚には、俺にも確かに、覚えがあった。


 発狂すら許されないそんな日々が変わり始めたのは、先輩の趣味がアニメ鑑賞だと知った時からだったそうだ。あとは映画も? だったかな。


「色んなものを見たよ」


 はじめは一体なんだったか。

 それはもう、たくさんの作品の名前が出たけれど、たしか天使と悪魔がルームシェアして高校に通うアニメについて、彼女は幼児みたいによく話した。お気に入りだったのかもしれない。確かに少し面白そうだった。ま、聞いてる分にはね。

 でも、あの岩のように屈強な……素の片手で人を三人は同時に絞め殺せそうな強面の男と、ひび割れた宝石の如きうら若き淑女が、それを一緒に見ているところを想像すると(おかしなことにはもう慣れっこになっている俺にとっても)、なかなか奇妙なものだった。


 そう、あとは、伊藤なんとかって作家の話もしてたっけな。


 二人で映画を見に行って、本も読んだと言っていた。あの先輩は人が多いところ……特に子供やらカップルやらで賑わっている場所に一人で行くのが苦手で、それである時、雅火さんから申し出たのだそうだ。『私はそんな場所には慣れっこだから、よければ付き合おうか』と。


「この作家をちゃんと理解しているのは、この広い世界で私たちだけなんじゃないかって思えた」


 雅火さんは(自己陶酔を嫌う彼女にしては珍しいことに)錯覚という表現は一度も使わなかった。


「たぶんあの作家はね、すごいものを書いて人を楽しませようとか、そんなことは思ってなかったんだよ。あれはきっと、悲しかっただけ。同時に重い怒りと、諦め、ってとこかな。SFとかハイテクとか、周りのガチャガチャした要素なんて、全部フェイク。言葉さえ。でも、この世界は、彼にそんなあり方を許してくれるほどには、寛容じゃなかった。有名な作品から継いで剥いだような最後の帝国の話が、それをよく表してると思った。お前らにはこれがなければいけないんだろ? って。わかりやすくて面白い、表層的なアイコン。そんなものがないと、お前たちは何一つ理解しないんだろう、だってこうでもしないと……いや、彼も書いてる途中で思い知って、絶望したんじゃないかな。きっとこうまでしても、こんなに、こんなにも世界に対して譲歩しても、誰も真面目になんて読み取らない。他の作品と同じように、面白おかしく消費して、誰一人本質を理解しない。自分という世界で唯一可愛い存在の引き立て役にして、あとは捨てて終わりなんだって」

「だから死んだ?」

「そう思った。私はね。まあ、100%の確信は、さすがにないけど」


 



 それから。


 いや、その前、だったか。


 雅火さんと語らうその前に、俺は、金城さんに差し入れを持っていったのだ。温かい緑茶のペットボトルと、近くの道の駅で買った、アルミホイルで包まれたおにぎり。中身はおかかと明太子。


 彼は、淀みなく作業をしていた。


 初めて会った時の、ソワソワとして自信なさげな出立ちとは打って変わって、終始別人のように落ち着き払っていた——いや、落ち着いていた、というわけではないのかもしれない。おそらくは落ち着きも何もなかった、そもそも彼はそこにいなかったのかもしれない。いわゆる「の境地」。文字にするのはいやに簡単だけれど……(そんなことがありうるのか。本気で)。

 とにかく金城さんは、物言わぬ歯車のように、はしゃぎ回る子供のように遮二無二笑ってうごめくものを蓄音機から外し、ぬめぬめ脈打つ管と皮膚に似た生温いものを、ミンクの毛皮のように剥がした。最後に残った針は、納棺師が指輪を外すようにそっと、それでいて力強く、骨組みから引き抜いた。




 彼女の踊る姿は綺麗だった。




 ……なんでこの順番で書いているんだろう?




 頭の中で、時系列がバラバラになりすぎている。まるで絵のないジグソーパズルを床にぶちまけたみたいな……ああ。そうだ。なんでなのか、わかった。気がする。


 


 蓄音機を完全に解体し終わったあの時、金城さんは工具とタオルの中に仰向けに倒れ伏し、あとに残った人間の骨と皮膚、そして木くずと石材が、床に広げたブルーシートの上に整然と並んでいた。色ごとに分けられて、長さの順にまでなっているのには、畏敬の念すら覚えた。彼は疲れて眠ってしまっただけのようで、鼻から漏れるピーピーという滑稽な寝息だけが、これが神や悪魔でなく普通の人間の仕事だということを、かろうじて物語っていた。


 そして気づいたときには、俺の目の前にはあの子供たちが、いた。


 正確に言えば、立っていたのは二人だった。性別はわからない。そんなもの、彼らにはないのかもしれない。とにかく、彼らはどこから降って沸いたのか、にこにこと笑って……いや、そんな形容ではふさわしくないか。それじゃ、まるで天使みたいだ。あれは、もっとこう、底抜けに無邪気に、それでいて悪戯好きの普通の子供のように、笑っていた。なぜだろう。はじめて彼らを垣間見たあの時、あの夜——俺はこれを、あれほど、ただ恐ろしいだけの存在だと思っていたのに。殺戮の化物。そんな気はしなかった。今日はなぜか。


 ふと見ると、金城さんが蓄音機から抉り外したはずの、白いねちゃねちゃしたものが、ブルーシートの上から消えていた。


 それから、そう。声がした。

 それは知らない子供の声で、異国の言語とも、雛鳥の鳴き声ともつかぬ音が、不意に吹く風のように聞こえてきた。二人の白い子供は、それに呼ばれるようにして、柔らかな手を繋いで、外へ向かって駆け出した。なので俺も、倒れた金城さんの体に(せめてもの労いのつもりで)余ったブルーシートをかけて、小屋をあとにした。

 外には(案の定)もっと大勢のがいて、小屋から出て行った二人のことを、「待っていた」と言わんばかりの表情で、仲間の輪の中へ迎え入れた。


 人の身では上着をちゃんと着ていても凍えてしまうような、寒々しい風の吹きつける砂浜を、当たり前のように白い素足で踏んで、子供たちは駆け回って遊んでいた。夏の昼べみたいに。


 そのうち何人かは、砂の上に座って何か口に入れていた。そっと窺い見ると、齧っていたのは、俺が差し入れたおにぎりだった。小さな歯で、さくさく……さくさく……と音を立てながら、銀のアルミホイルごと、一個につき一分もかからず、ぺろりと平らげてしまった。



 ああ、踊りの話。



 何か抜けてると思ったら、それだ。


 なんで踊ることになったのか、その経緯はかろうじて覚えている。映画を観にいった話をしている途中で、あの、ついこの間、なんとか賞……?(アカデミー賞だったっけ?)を取ったミュージカル映画?(ラブロマンスもの?)の話になって。ほら、ヒロインと恋人が急に踊り出すやつ。そこしか印象に残ってない。まあ、何にせよあれの話になって、雅火さんは「どう思う?」と聞いてきたのだ。


「どう思うって?」

「なんかストーリーに賛否両論あったみたいだからさ。密軌くん的にはどうなのかなって」

「え、うーん、そうですね……」


 正直、どっちでもよかった。

 だって、どっちにしろ、現実ではないのだから。


「ま、どっちでもいいよね」


 俺が答えあぐねていると、雅火さんはそんなことを言った。ので、とりあえずほっとした。

「はい。本当に」

「あのダンス、踊ったんだ。■■くんと」

「へえ。踊りなんて出来なそうなのに」

「それ、私が? それとも■■くんが?」

「どっちもですよ」

 

 おっ、言ったな? 


 そんな笑い声と共に、彼女は俺の手をやにわに引っ張って、砂浜の上に連れ出した。靴がわずかに沈み込み、アスファルトとも地面とも違うぼんやりとした感覚に、ほんの少しだけ、不安がよぎる。一歩行くたびに、真っ逆さまに転びそうに、倒れそうになりながら、跡をついていくと、「貧血?」と、また笑われる。


「バランス感覚なさすぎじゃない、密軌くん」

「いや……疲れですよ。ずっと寝てた誰かさんとは違って、働いてるんですから、俺は」

「あはは! 言うようになったねえ」


 子供たちが遠くに見えた。

 白い衣服と、白い肌。午後の陽光に包まれて、湖の水をかけ合ったり、ばしゃばしゃと飛沫を上げながら駆け回ったりと、遊び回るのに余念がない。あんなにも寒かったのに。まるであの空間だけ、そこだけぽっかり春が来たみたいに、ひどく和やかで、絶え間なく穏やかだった。


「はー、あったけえな」


 そう、残りの蓄音機の部品について……人間でない方のものは、湖畔でさっさと焼き払ってしまった。不慣れな手つきで火をつけていると、また例の親友さんが寄って来て、赤い両手を温め始めた。いや、別に、血でとかじゃなくて。普通に、寒かったから、ね。そりゃ、霜焼けにもなる。

「よく火がついたな」

「はい」

 それは本当にその通りだった。木だけでなく、石や金具も入っていたはずなのに、着火剤とライターだけで呆気なく燃えた。火葬場の炉みたいに。

 やがて煙草を吸いながら、ジャケットのポケットに手を突っ込み、彼はぐるりと首を回した。

「こーゆーの、なんて言うんだっけ。荼毘に付す?」

「まあ、たぶん」

 そうです、と続ける間もなく、その節張った手が炎の中にするりと入り、え、と思っているうちに、何事もなかったみたいに、また紫煙を吐いている。

「音原に言っといてほしいんだけどさ」

「え、先生に?」

 自分で言えばよくないですかとこちらが言う前に、

「俺、近々いなくなるかも」

 と、彼は言った。


「……はい?」


 一応詳しく訳を尋ねたりもしたが、やはり答えはなかった。彼は聞こえていないふりを決め込んで、あとはただただ、風吹く砂の上をぶらぶら歩いているだけだった。


 ああ。砂といえば、彼女たちも来ていた。


 盲目の女の子と、楽器ケースの男。もっとも彼らも、今日は穏やかなものだった。あの子の友達は、結局、身体の一部しか見つからなかったそうだ。どの一部かは聞けなかった。でも、彼女からは、負のオーラ? みたいなものは全然感じられなくて……むしろ、清々しい顔をしていた。たぶん、もう、悩みに悩み、苦しみに苦しみ抜いた果ての、ここまでの長い旅路だったのかもしれない。おそらくは人などではない、渇き果てた熱砂のような男を連れて。


 そして男は、楽器ケースに手をかけた。


 一瞬どきっとしたが、中から出てきたのは、今日は普通にバイオリンだった。白い息を吐きながら、歌うように(というのは凡庸すぎるかな)、気だるいメロディを弾いていた。水辺のせいか寒さのせいか、演奏者の顔も眠たげで、盲目の少女はそんな彼のそばに立って、見えないはずの両の目を、水平線のずっと遠くへと向けているばかりだった。


 そのどこか甘やかなバイオリンの音色に沿って、俺と雅火さんは、踊りを踊った。というわけだ。今日のあらましは、まあ、こんな感じかな。



 本当はもっと書いとかなきゃならないことがあるのは、俺もわかってる(倒れた金城さんがその後どうなったかとか、二人組はどこへ消えたかとか)。でも、それは、まあ、何のことはない。。そう書いたらわかるかな。誰もが家に帰るものなんだ。それが人のあるべき姿で、あるべき姿であるということは、何にも問題がないということだ。だから、詳しくは書かない。

 もしその中で、詳しく書くべきことがあるとしたら、音原先生のことくらいだろう。あの先生は、俺たちが踊りを踊り終えて、ほどよい運動で高揚した気分のままに他愛無い冗談を言って、笑い合っている時に、突然現れた。珍しく息を切らせて。


「雅火」


 そう言った声は、今まで聞いたことがないほど明瞭で、力強かった。雅火さんも面食らった顔で、「えっ?」とか言って助けを求めるように俺を見つめてきたけど、こちらも首を振るしかなく。んで、そんなこんなしてるうちに、なんていうかその……うん。いや、書いていいのかな? これ。まあ、ダメってことはないか。自由に書けって言ったのは先生だしな。うん。じゃあ書くか。抱きしめたのだ(書いてる方が恥ずかしい)。そんでもって、いや……ここまでにしとくか。誰かに読まれないとも限らないものな。これも。

 で結局、半ば強制的な感じで、彼女のことを連れてってしまった。まあ、そうだね。今日は帰ってこないんじゃないか。畜生。俺も余計なこと言ったな。なんてね。あはは。


 

 

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