2017.12.6 糸と神権と蓄音機械③



 手招くような館の内部へと、足を踏み入れながら考えていたのは、昔のことだった。俺の過去という意味ではなく、もっと大枠。この国の大昔について考えていた。


 大昔、この国には……というかどこの国にも、「都市」なんてものはなかった。


 ひいては、都市と田舎の区分けというものも、一切なかったはずだ。だって、どこもかしこも此処と同じように、森やら土やら、月やら星やら、だだっ広い野原やら、そればかりが広がっていたはずだから。虫と魚と獣。そんなものたちと肩並べ、鎬を削って生きていた時代には。


 そしてきっとその頃には、いたのだろう。


 今でいう非科学の境地——空想の産物と呼ぶことさえ度し難い禁忌となる、血と肉を有し、足を踏みしめて地を歩く、本物の神様というものが。




 まあ、それはさておき……なぜあの状況で、そんな呑気な厨二病っぽいことを考えていたのか。日記くん、君もそろそろ付き合いきれないって思い始めているんじゃないか? ごめんね。うまく書けなくて。実のところ、結構難しくて困ってる。この日にあった出来事を、文字に起こすのは。先輩が死んだことを、自分の中で消化しきれていないせいもあるのかもしれない。まあ、まだ、ほんの一昨日の出来事だし。これについては、ゆっくりやっていくしかない。


 とにかく、俺の思索のきっかけは、ロビー入口にごろんと転がった見知らぬ右腕だった。


 その腕には、ジムで的確に鍛え抜いた成果と思しき筋肉が隆々についていて、手首には煌めく時計が嵌まっていた。幹部というやつだろう、と俺は思った。でも真っ当なジムや高級時計店なんて、この街にはない。よしんばあったとしても、それはもっと豊かな街のおこぼれに過ぎない。この幹部はおそらく、この街の信者から巻き上げた金で、別の街のものを買ったのだ。元々そうするつもりで布教していたんだろう。

 だったら、別に、ここじゃなくてもよかったじゃないか。

 そう思いながら、腕を少しだけ、靴の先で蹴った。別に地元愛があるわけじゃない。むしろこんな街、今すぐ消えても構わないとさえ思っていた。でも、俺や俺の好きな人たちを巻き込んだのは本当に許せない。布教にせよ儀式にせよ、ずっと都会でやっていればいいのだ。そんなにそこが好きなのなら。


 商品見本のように着飾った絢爛な四肢が、ロビーにはいくつも散らばっていた。


 腕、腿、脛、手首、足首。身につけた衣服ごと、すっぱりと切られている。断面はまるで鉱物のように、赤く黒く、シャンデリアの繊細な光の下で、カットフルーツの輝きを放っていた。絨毯の上に滴る液の一雫さえ、ブラッディマリーじみた悪趣味な高貴さを纏って、魔性の笑みで誘いかけてくるようだった。


 頭は、一つもなかった。


 だが、食われたわけではないことが容易に察せられて、俺はふらふらと若干の目眩を感じながら、館の奥に歩みを進めた。奥からは声がした。等身大の、下らない、安っぽい人間の声がした。


「殺してくれ」。


 血飛沫で濡れた階段を登っていくと、果たして信者たちがいた。彼らは踊り狂っていた。廊下のあちこちで泣き叫びながら、必死でナイフを床に向けて振り回している。一見不可解で滑稽なその動きが、自分の足首を斬ろうとしての行いだと悟った時、俺は湿った絶望のようなものを感じて、思わず後ずさった。


「ああ! そこのお前、いや、あなた。どうか、頼む、私の足を切ってくれ!」


 一人の信者が俺に気づくや否や、悲鳴のような声で頼み込んできた。額には滝のような汗をかき、両目は涙で腫れていて、でもそんなことは土台大きな問題ではなかった。問題は、彼らの身体全て、パッチワークのように継ぎ接ぎだったということだ——関節の辺りで全てぐちゃぐちゃに入れ替わっている。男の脛に女の腿。白い胸に毛の生えた腹。こちらにナイフを託そうとする手の指は、その太さも爪の形も違っていた。そのせいで、ナイフは一時も安定することなく、がたがたと歪に揺れていた。


「やめろ、」


 あまりの嫌悪感で咄嗟にナイフを取るのを拒むと、信者は絶望の金切り声を上げた。そうして壊れた糸繰り人形のように踊りながら、窓の所まで行くと、そのまま館を取り囲む火に飛び込んで死んでしまった。


「ああ、神様……」


 若くない女の声が不意に聞こえた。振り返ると見覚えのある、そう、あの日図書館で見たおばさんが、熱い汗を散らして踊っていた。白鳥のように、とはとても言えない、鵞鳥がちょうのような踊り方で。そうして、か弱い乙女の祈りのように、哀れっぽく不揃いな手(もはや手とも言えるかどうかも定かではない壊れ具合だったが)を合わせながら、涙を湛えてこう言った。


「私はただ、幸せになりたかっただけなのに……」


 震える胃ごと吐き出しそうな光景だった。

 何より彼らがここにきて、尚もしおらしい被害者の顔をしているのが、俺には本当に、本当に、全くもって理解できなかった。あの盲目の少女がくれたレコーダーには、誘拐を計画したこと、そして連れてきた人を無慈悲に殺した証拠が、沢山入っていた。おまけに山も燃えている。関係ない人と物をこれだけ巻き込んだのに、なぜまだ自分らを可哀想だなどと思えるのだろう。とても同じ人間とは思えなかった。



「——『やがて、オルガンがおごそかに鳴って、こどもたちは、わかいうつくしい声で、さんび歌をうたいました。唱歌組をさしずする年とった人も、いっしょにうたいました』」



 そこへ降ってきた彼女の声は、だから、俺にとってどれだけ清く懐かしく響いたことか、正しく文字にするのはどうあっても難しい。


 廊下の突き当たりに、雅火さんが立っていた。


 その手には文庫本があり、もう片方の手は近くの窓枠に乗せられている。口元には微笑みが浮かび、着ている服は炎の逆光で、黒いスカプラリオのように翻った。その姿を瞳に入れて、鵞鳥の女が泣き喚きながら、縋りついた。彼女の足元に。


「お願いします。どうかお願いします。もう許してください。もう十分わかりました。反省しましたから。ねえ、あなたはまだ若いから、きっとわからないんだわ。私が今までどれだけ大変だったか。孤独で辛かったか。この集まりがどれほど私にとって救いだったか。私は悪くない。私は、被害者なのよ……」


 彼女は悲しげに目を伏せて、髪を振り乱して跪く足元の女を見た。踊り続けようとする身体を無理に止めているせいで、女はてんかん患者みたいに激しく痙攣していた。それでも必死になって雅火さんのワンピースの裾を掴み、勢い余ってそれを破り、また新しい箇所を掴むのを繰り返しては、涙と涎に塗れた口で祈りじみた呪詛を吐きかけた。


「ねえ! あなたに何がわかるの。平和な田舎街に暮らす小娘に過ぎないあなたに。人間の悪意も、都市部で生きていく大変さも、何も知らないくせに。どうせアニメや漫画や、本や映画や、そんなものでしか世界を知らないんでしょう。だったら教えてあげる。そんなのは全部ファンタジーなの。偽物なの。綺麗な世界なんてどこにもない。だから……だから自分達で作ろうとした。他人に頼らずに。甘えを捨てて。この国には信仰の自由がある。権利は認められている。これの……この自助努力の、一体何が悪いって言うのよ!」


 この世は嘘ばかりだ、というあの男の言葉が、ふと頭をよぎった。確かにそうだと思った。だってこの女は、本音で話してなんかいない。ただ激情のままに恫喝して……大声で脅すように自論をぶちまけて、そうすれば目の前の大人しい田舎娘に言うことを聞かせられるであろうという算段の下に、鵞鳥女の言葉はどこまでも小狡く組み立てられていた。それは、虫や他の生物にはない、人間の特権たる言語能力などではなく、普通に、ただひたすらに、つまらないほどに、暴力そのものだった。


 雅さんは少し眉を寄せ、それから諦観の表情になって、ひどく困ったような、どこか皮肉るような微笑を浮かべた。


「『けれどもカレンは、やはりじぶんの赤いくつのことばかり考えていました』……」


 そのとどめとも言える文句に、鵞鳥はついに泣き出した。その泣き方も壮絶なものだった。必要以上に大きな声で、芝居がかった悲哀を込めて、つんざくような悲鳴を上げた。その異様な絶叫からは、この傲慢な田舎娘にダメージを与えることができないのなら、せめてこの場でうるさく泣き喚いてやろう、泣き声でもって不快な気分にさせてやろう、トラウマを植え付けて人生ごとぶち壊してやろう、というある種の凄まじい気概が感じられた。「呪い」というワードがこれほどふさわしい行動も、なかなかない。

 そんな悪意の小嵐と化したおばさんを見て、雅火さんは何を思ったか、突然けらけら笑い出した。そして、目尻の涙を拭いながらこう言った。


「あー、もー、うるっさいなぁ。ほんとバカほど声がでかいよね。それに首切り役人を燃やしたのは自分たちじゃない。自業自得なんだから、黙って死んどけ。クソババア」


 クソババアと言われて最後の糸が切れたようだった。女はひたすらに「あーー!!! あー!!!」と叫び続けた。音の塊をぶつけて圧殺せんばかりに。叫び声を上げさえすれば誰かがやってきて、全部何とかしてくれると思ってる赤ん坊のように。そしてあーあー叫びながら、手足を振って踊り続けた。その様を見て雅火さんは爆笑した。顔を真っ赤にして、鵞鳥女は怒涛の雄叫びを上げた。


「呪ってやる! お前を呪ってやる! 死んだら絶対お前を許さない! 呪い殺してやるからな!」


 少し前まで神がどうたら言ってた団体の人とは思えない台詞だった。雅火さんはけたけた笑いながら、歩み寄って女の襟首を掴んだ。

「私が口答えするとみんなそう言う。どうせ早々死にやしないくせに、私が思い通りにならないって察した瞬間、みんなすっかり弱者でございって顔して私を悪者にする。お前は人の痛みがわからないサイコパスだとか言って、不安で仕方ない気持ちを一方的に私にぶつけてくる……あなた方はいつだってそう。呪い殺す? 寝言は寝て言え、このバカが。あんた如きのただの幼稚な癇癪と、正当な呪いとを、一緒にすんじゃねーよ」

 

 女はもはや言葉など聞いていなかった。言葉を掻き消すようにあーあー泣き叫んで、眼前の娘を殴ろうと手足を振り回すだけだった。その様は、もはや鵞鳥ですらなかった。虫ですらなかった。何だったのだろう。あれは一体。


 


 彼らが最後どうなったのか、俺は知らない。




 もっともテレビの報道では、焼け跡と館内から死体は一体も見つかっておらず、全員が行方不明の扱いなのだが、やっぱり奴らに喰われたのだろうか。虫のいい推論かもしれないが、でもそう考えると、色々納得がいくし、少し安堵もする。だってあんな最低な群れ、わざわざ殺してやる価値すらない。それに、あの時はそんなことより、もっと大事なことがあった。彼らが組み立ててしまったもの。それをどうにかしなければならなかった。

 




 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る