2017.11.10 オーダーメイドの希望
この日は……色々あった。
というわけで結論から書く。俺は音原先生のクリニックで、書類上の死人になると同時に、裏社会の便利屋にさせられた。
もう今日の分はこれでいいんじゃないかな、という、日記を書くものには必ず訪れる悪魔の囁きを聞いたところで、まず言いたい。俺にはここで筆を置く権利がある。それは俺自身もちゃんとわかっている。なら何故まだこの日記を続けようとしているのか? それはひとえに、希望のためだ。
現実に起こったことは、事実だ。
でも、紙の上に事実を書くと、それは事実ではなくなる。それは「事実以上の事実」になる。単に事実だけを残したいのなら、それこそビデオを回し、写真を撮り、声を録音し、証拠を瓶に詰めればいい。でも、日記に書かれた文章には二つの事実が同時に存在する。一つは自分の外側の事実。そして一つは、内側の事実。
俺にはこれといって希望がない。
それはいかような意味においても存在しない。けれど先生は言う。希望を持ちなさいと。世間に出回る既製品の希望ではなく、君自身のオーダーメイドの希望を持って生きることが肝要なのだと。
刺青の入った変死体の頭をかち割りながら言われたのでなければ、よほど頭から信じてしまいそうな名文句ではあったけれど、とにかく俺は
どこから書こう。
まずこの日の明け方、俺はコーヒーとホットサンドを食べた。場所は例のクリニックの空き部屋で、今の今まで眠っていたベッドから半身を起こし、取り付け式の簡易テーブルの上に置かれた皿と湯気の立つマグを、じっと眺めた。眺めていると言われた。
「食事は食べるものだ。見るものじゃない」
音原先生はドアのところに立って、腕組みしながら壁にもたれていた。俺は聞いた。
「ここは?」
「私の病院」
それを聞いて、ああついに俺もおかしくなっちゃったんだなと思った。
「俺、どのくらい入院します?」
「動けるならいつでも退院していい。でもすぐ出て行った方が君のためだ。入院には金がかかる」
「お金なら父が出してくれます」
「君の家族はもういない」
テーブルの上に、新聞が置かれた。一面に記事が出ていた。丘の上の惨殺事件。一家皆殺し。そんな見出しに始まり、新興カルトの犯行疑惑で終わっていた。
「これは俺がやったことですか?」
「なぜそう思う」
「俺が発狂してみんなを殺した。そういうことじゃないんですか」
「君が? 自分より体躯のいい男を何人も前にして、一人で全員の首を切れるのか」
「わかりません。でも狂った人間なんて、野生のゴリラみたいなものじゃないですか。目的のためなら頭も使うし、惨いことだって平気でする。もしかしたら共犯がいたのかも。でも途中で仲間割れして、そいつも殺したとか」
「君の考えは傲慢だ。ヒトを過大評価して、他の動物を見下してる。ゴリラは温和な生き物だ。繁殖期を除けば」
「なら繁殖期のゴリラです。俺は繁殖期のゴリラだ」
先生は床の石油ストーブを点けた。
「まず皿の上のものを食べてほしいんだがね、盛りのついたゴリラくん」
「答えてください。俺が殺したんですか?」
「君が殺したとも言えるし、君ではないとも言える」
部屋の隅に置いてある丸椅子を引きずってきて、俺の近くに座った。かすかに変な匂いがした。何かが焦げたような。
「そういう……そういう持って回った言い方が洒落てるとでも思ってるんですか? あなたの年代の人にはありがちなことですけど、はっきり言って、周りには迷惑なだけですよ。なぜいちいち回りくどい言い方をするんです? 一言で済む話じゃないですか」
「そうだな」
先生は皿の横に置かれたナイフを手に取り、サンドイッチを対角線で切った。
「物事は想像よりずっとシンプルだ。食わなきゃ死ぬ。冷めた飯は不味い。生き物を殺せば罰が当たる」
「罰は当たらないことも」
「それが想像なんだ。ファンタジーだよ」
断面からスクランブルエッグがとろけ出し、トマトの透明な液体が皿に垂れた。
「いい加減にしてください。俺がおかしいんですか? それともまさか、あなたがやった?」
「やったのは彼らだ」
「彼ら?」
切り分けたうちの一つを、先生はフォークで突き刺して、ゆっくりとこちらを向いた。
「私が思うに、大方の日本人はこう考えている。多神教は素晴らしいと。たった一人の神さえまともに信仰できず、異端者を虐殺してきた西洋の野蛮人共に比べたら、数多の神を信じながらも争いを起こさず、神々と調和し、日々平和に暮らしている自分たちの方が、よほど優秀で美しい民族だと思っている」
「なんの話です?」
「でも私に言わせれば、それは大きな勘違いだ。なぜなら全ての神を信じているというのは、結局のところ、何も信じていないのと同じだ。たった一人の妻さえ愛せない男に、人類全てを愛することなどできないのと同じように」
さあ口を開け、と先生は言った。歯医者みたいだった。
「嫌です」
「忘れろ、密軌くん。あれは」
「あれは悪霊か何かですか?」
「別に怨霊とか呪いとかそんなんじゃない。寺に駆け込んでもどうにもならない。とにかくあれは死なないし、もう一つの方は私が殺した」
「自販機?」
「ああ。あの時は自販機だったな」
とうとう先生は俺の口を無理やり片手で開けると、中にサンドイッチを突っ込むようにして入れた。強引なやり方だったけれど、味は意外と美味しかった。それからコーヒーを飲んだ。今度は自分で。
つまるところ、白い子供たちと自販機は、別々の存在らしい。
で、たまたまあの夜、その二つが同じところにいて、うちの家族(と他一名)を襲った。自販機のやつは物理的に殺すことができて、子供の方は、見かけたら逃げるしかないらしい。そして関わらない方がいいと。関わらなければ安全なのだそうだ。
色々腑に落ちないことだらけだったが、あれを見た後では、もう深く尋ねる気力も湧かなかった。先生が「復讐したい気持ちはありますか?」などと申し訳程度のカウンセリング的な言葉をかけてきたりはしたものの、そういう感情もない。まだ家族を亡くした実感が薄いのか、ショックで心が麻痺ってしまってるのか。それもまあ、おいおい分かるのだろう。
そして捕虜の尋問みたいな朝食の終わりに、音原先生は一つの質問をした。
「君はあの事件の生き残りとして生きていきますか? それとも、君もあの時一緒に死んだものとして、これからは別人として生きていきますか?」
これも結論から言って、後者を選んだ。
もちろん前者を選べば、莫大な遺産も貰えただろうし、色々大変なことがありながらも、普通の人のように生きていけるのだろう。でも、世間から良かれ悪しかれ注目されて生きていくのだと思うと……注目されるだけならまだしも、犯人扱いされたり、周囲から常に腫れ物に触るように扱われるのだろうな、ということを思うと、どうしても気が乗らなかった。たかが不眠症になっただけでも、周囲の視線は結構な憂鬱の種だったのだ。もしゲームのように人生をやり直せるというのなら、そちらの方がいいような気がした。
俺がそのような考えを述べると、先生は少しだけ微笑んだ……ように見えた。そして言った。「その代わり、仕事は大変ですよ」。
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