面妖師、いざ舞いらん

Yura。

壱 紫闇を駆ける、狐の群影

「瀬(せ)藍(ら)、そっち行った!」


 聞こえてきた声に、瀬藍ははっと顔を上げた。見れば、朱(あけ)火(び)が相手をしていた筈の妖が、俊敏な動きでこちらへと向かって来ていた。


猫よりもふた回りは大きい獣じみたそれは、真っ黒な影にしか見えない。しかし鋭い目だけが光って見え、はっきりと目が合ったのが分かった。手負いの獣どころではない殺気立った気配に、ぶわりと全身に寒気が走った。


咄嗟に両腕で顔を庇って目をつぶった瀬藍の脇を、妖が風のように駆けていく。「あっ‼」と誰かが声を上げたことに、遅れて気が付いた。


「ちょっと瀬藍、何してんのよ!」


 朱火が苛立ちの声をぶつける。びくり、と瀬藍の身体が震えた。


「ご、ごめ……」


「今はそれより、後を追うぞ!」


 詫びようとした瀬藍を遮り、四季(しき)華(か)が叫ぶ。えぇ、と朱火がうなずき、他の仲間たちも瀬藍を素通りして妖を追っていく。


 周囲は紫色に沈む闇の中。そこに沈む森は、この世のものとはまるで違った。涸れ果てたように瑞々しさが欠片もない木々に草原(くさはら)。しかし、白っぽく朽ちたような木々は太く枝は周囲の闇をより深くするよう広がり、嫌に濃い緑の葉が鬱蒼と生えている。地面から生える草は瀬藍の脛に届くまで伸びているのだが、木の幹と同じような生気のない色をした草は1本1本が妙に固く、まるで獣の骨を生やしているかのように感じてしまう。


そんな歪な森の中に妖はすっかり溶け込み、もはやどこにいるか視認することは不可能だ。だが、草木をかき分ける音は確かに響き、気配を探れる範囲にまだ妖がいることも確かだった。しかし、急がなければまた完全に息をひそめ、いちから探し出す作業に逆戻りだ。


 うん、と瀬藍も返事をしたものの、その声は小さく、とっくのとうに遠くへと走っていく仲間達の耳には届かない。瀬藍は顔を覆う狐の面の位置を直し、彼らに置いてかれまいと走り出した。






 常夜(とこよ)の闇は、普通の夜とはまるで違う。いつでも薄く霧が立ち込め、“こちら”の夜とは違い真っ暗闇に紫根染めをほどこしたかのごとく空気そのものが紫色に沈んでいる。いつもその色とは限らない。大抵は、青から紫の間を行き来している。どういった条件でそのように闇の色が変化するのか、まるで分からない。


 いや、分かるはずがないのだ。この常夜は――妖の生きる世なのだから。


「そっちに行った。朱火と霧津(むつ)と俺でそのまま追う。他は2人ずつに分かれてまわり道しろ」


 四季華の的確な指示に、皆が一様にうなずく。瀬藍も遅れてうなずいて、四季華たちがまっすぐ走り続けるのを傍目に左方へと地を蹴った。


 今この常夜に来ているのは、瀬藍を含めて7人。瘴気がそこまで濃いわけではないので、本来ならそれこそ3人程度で事足りる案件だったが、常夜自体が広く厄介だった。


瘴気の濃度は、そのままそこにいる妖の強さにつながる。今いる常夜の妖自体はそこまで強くないが、数が多く身軽で俊敏なものが多かった。気配からして、残り1匹まで追い詰めたと思われるが――この最後の1匹が飛び抜けて素早かった。


逃げてばかりなので皆無傷で済んでいるが、このままここで力を溜められることだけは避けたいところだ。


私が逃がさなければ、と瀬藍は下唇を噛む。先ほどの失態に沈む気持ちを振り払うように、足を速めた。


四季華に指示を出されたのち、右に2人が、左に瀬藍ともう1人がまわり込んでいるところだ。皆一様に鮮やかな色や模様の着物を身に付け、狐の面で顔を覆っている。その様は妖と縁のない常人が見れば異様に映るだろうが、瀬藍たちからすれば必要不可欠なものであった。


瀬藍と共に駆ける仲間は男であるが、女の瀬藍と速度はほとんど変わらない。それは彼が遅いのではなく、面をつけた誰もが無駄のない動きで俊敏だからであった。


黒い狐の面で顔を覆った彼が、足を止めないままに「おい」と言う。


「俺はこのまま進むから、お前はもっと遠回りしろ」


「えっ」


 数歩分先を進む彼に、思わず顔を向ける。その男、桐(きり)江(え)は前を向いたまま「当たり前だろ」と不快そうに吐き捨てた。


それにびくりと肩が跳ねてしまったものの、瀬藍は「でも」とどうにか反論する。


「四季華は、2人ずつに分かれろって」


「またお前に足を引っ張られちゃたまったもんじゃない」


 瀬藍の言葉を遮って、桐江が切り捨てた。ちらと一瞬だけこちらに目を向けたらしき桐江の表情は面に隠れて見えないが、目の部分に空いた穴から冷たい眼差しが確かに見えた気がした。


肺が圧迫されるような息苦しさを覚えた瀬藍に、桐江はもう何も言わず前を向いて疾走するだけだ。とっとと離れろと、その背中から冷ややかな拒絶を感じた。


「……。分かった」


 うつむきがちに言った声はあまりにも小さく、桐江が返事をしないのもうなずける。……本当は自分達が常人より遥かに耳がいいことを知っている瀬藍は、そう思うことにしてさらに深く色づく闇へとその身を溶け込ませた。






 常夜の気候は、どの季節に例えていいのかまるで分からない。鳥肌が立つほど肌寒いような、不快な生ぬるさがあるような。かと思えば、一気に凍るような寒気があたりに漂い、真冬のように吐き出す息が白くなることもある。


 瘴気の漂うこの空間は、不規則な色合いの闇と一定でない不可思議な温度の空気にいつも覆われている。瀬藍をはじめとした皆、こうした気には耐性があるとはいえ。


(……面がないと、さすがにまずい)


 改めて常夜の恐ろしさを噛みしめて、瀬藍はぶるっと身震いした。


そんな様子を仲間の誰かに見られていたら、「何を今更当たり前のことを」と呆れられているところだ。しかし、何度足を踏み入れても瀬藍は常夜の異常さを実感せずにはいられない。


常夜は異界などではない。間違いなく、“この世”の世界だ。


だが、どういうわけか真昼の明るい中であっても、突如日が翳り、あっという間にあたりを色づく闇で覆ってしまう。例え真夏であったとしても、いつの間にやらひやりとした空気が充満する。そうして薄く霧が漂い、瘴気が流れ込み、妖が住まう夜へと成り果てる。


ずっとそこは夜だから、常夜と呼ばれている。その名を思う度に、やはり瀬藍には恐ろしくて仕方ない。


常夜は範囲が限られていて、そこから1歩でも外に出れば、人々が住まう現世(うつしよ)に様変わりする。まるで、常夜にいたのが悪い夢だったかのように。


しかし紙に落とした墨の一滴同様に、常夜はそこにあり続ける。墨であれば落とすことは二度と叶わぬが、常夜であれば話が変わってくる。


――中の妖を、祓えばよいのだ。


「……このあたりなら、いいかな」


 しんと静まり返った森の中で足を止めていた瀬藍は、あたりを見渡してつぶやいた。


 ほんのわずかにだが、争う音が確かに聞こえる。四季華たちが妖に追いついたのか、それともまわり込んだ桐江かあとの2人が待ち伏せに成功したのか。ぎりぎり彼らの気配が探れる範囲に来た瀬藍は、地を蹴った。ひとっ跳びで、音もなく木の枝へと辿り着く。もう死んだ木のように見えるが枝は太く、細身の瀬藍が載っても折れる様子はない。


異様な生命力には見て見ぬふりをして、短い亜麻色の髪を耳にかけ、面越しに茶色い目を音のする方へとこらす。面をつけたその姿は、異形の狐が獲物を狙っているかのように見える。


 面越しであれば、常夜の中でも目が利く。しかし紫の闇は、未だ彼らの様子を晒すことはない。瀬藍はそちらにじっと目を向けたまま、懐に指を滑り込ませた。


 音もなく取り出したのは、六角形の珍しい紙だった。大きさは瀬藍の手の平ほど。真っ白い紙には、橙色の墨で何やら複雑に文字が書かれている。六芒星の図形も織り込まれている。手書きであることは間違いないが、それにしても精巧な造りであった。


 キン、と鉄が弾ける音が聞こえたのはその時だった。わずかに光が瞬き、仄暗い霧の中から確かに妖と交戦している誰かの影が見えた。


 着物の色からして、桐江だろうとすぐに分かった。そうして、後を追うように朱火と霧津が。どういうわけか、四季華がいない。


 瀬藍は見え隠れする彼らの姿から目を離さないまま、手にしていた紙――呪符を人差し指と中指で挟んだ。それを胸の前まで持っていき、素早く呪符を振る。すると、そのわずかな風に煽られたように呪符から藤色の火が燃え出した。


 呪符の淵を燃やす火は当然瀬藍の指にも触れているが、熱さなんて感じていないように瀬藍は動じない。呪符を構え、そのまま仲間たちが妖と戦っている様をじっと見つめ続ける。


 彼らの影は徐々に、近付いてくる。霧と闇の中に見え隠れしていたのが、次第にずっと戦闘の様子を視認できるまでに近付き、影だったものが像としてはっきり映る。


 やがて、争う音だけでなく指示を飛ばす朱火やそれに応じる桐江たちの声も聞こえるようになり、瀬藍は息を詰めた。ぶわりと汗が噴き出るような感覚を必死に胸の内におさめ、手が震えないよう力をこめる。呪符がそれに反応してわずかに音を立てた。


 ――失敗しないようにしないと。さっきは迷惑かけたんだから、挽回しないと。


 仲間たちは、瀬藍がいることなど忘れたかのように妖を逃がすまいと対峙している。キンと刃と牙がぶつかり合う音。草を踏みしめる音。空を切る風の音。


 その様子をやはり呪符を構えていたまま見つめていた瀬藍は、訝しく思ってわずかに首をひねった。


(……さっきより、速くなっている?)


 仲間たちは必死に食い止めている。しかし、妖の動きは先程見た時よりもさらに俊敏で鋭い動きだ。それどころか、ここまでずっと逃げ回っていた筈なのに、今はひたすらに襲いかかっている……、


「――あぁもう、あの役立たずはどこ行ったのよ‼」


 瀬藍を思考から引きずり戻したのは、そんな朱火の苛立ちの声だった。――役立たず。その言葉に、一瞬にして身体がこわばり、もう少しで辿り着きそうだった答えから一気に遠ざかる。


(……私のことだ)


即座に理解してしまった。だってそう呼ばれるのは私以外誰もいない。


 動揺と焦燥に応じて、呪符に宿った紫炎がぐらりと揺れた。しまった、と呪符に意識が完全に向く。


 ――その、一瞬を見計らったように。


 感じたのは確かに殺気だった。ぶわりと一瞬にして鳥肌が立つ。迫り来るなんてもんじゃない。襲いかかる影は、瀬藍が見つめていた筈の方角ではなく、右後方からであった。瘴気を纏った影。何で。妖は、今朱火たちが戦っているあれで最後なんじゃ。妖が迫り来るごく短い間で、そこまで考えて途方に暮れる。


 目前に迫ったことで、妖が狐ほどに大きな鼠のような姿をしていると知った。異様に鋭い目。爪。そして口。


 妖は、面ごと瀬藍の顔を噛み潰そうとするかのように、小さな無数の歯が並んだ口を開けていた。口の中の赤さが、やけにはっきりと目についた――……、




 ぐしゃ、と血が弾けた。




 その様子を、瀬藍は茫然と眺めていた。飛び散り、滴る赤。痛みは感じない。だって、その赤は……、


「四季華‼」


 叫んでいたのは自分らしいと、遅れて気が付いた。痛みを受けるはずだった瀬藍の前に四季華がいて、その腕に妖が噛みついていた。と思った時には、妖が噛みついた勢いのままに四季華が落ちていく。


 地面にごろごろと転がる形で、四季華が受け身を取った。しかし妖はそれでも四季華の腕を離そうとしない。食いちぎるまで離さないと言わんばかりに、四季華の腕に牙を食い込ませ続ける。


 瀬藍はもう1度彼の名を叫んで、枝から転がり落ちるようにして下りた。幹に背中をぶつけて止まった四季華は何故か面をつけていない。整った顔が苦痛に歪んでいる様に、血の気がざっと落ちていく。


 今すぐ引き離してしまいたい。だが、下手に動かせば四季華の腕をちぎってしまうことになるかもしれない。


 立ち尽くすばかりの瀬藍に指示を出したのは、その四季華だった。


「……呪符を」


 腕に力をこめ必死に耐えていると分かる声。妖に噛みつかれていない方の手を、瀬藍へと伸ばしてくる。


「はっ、はい!」


 先程の所作とは打って変わって、慌てふためきながら懐から呪符を引っ張り出す。木の上で待ち構えていた時に出した呪符は、いつの間にやらどこかに落としてしまっていた。


 不器用に取り出した呪符はしわが入ってしまっている。震える手を伸ばした四季華は、人差し指と中指とでそれを挟んで受け取った。途端、妖が牙をさらに食い込ませたらしく「ぐっ」とわずかに呻き声を上げた。


「四季華」


「あぁ、大丈夫大丈夫」


 四季華が、汗の滲む顔で何とか笑みを作る。呪符を素早く振り、藤色の火を生じさせた。低く唸る妖へと構えても、妖の血走った眼は四季華の腕だけに吸い寄せられたままだ。


「血を被りし妖しの者、焔に納め祓えたまえ清めたまえ――……、」


 四季華は、自分が噛まれている状況だというのに、殊更丁寧に言の葉を紡いだ。


 じ、っと妖に同じ色の炎が。


 妖が、短く何事かを鳴いた。甲高いようなかすれたような、そんな声色。次の瞬間、藤色の焔が妖の全身を包み、妖がけたたましい叫び声を上げた。それと同時に四季華の腕から口を離し、焔をかき消そうとせんばかりに暴れまわる。


 四季華は血の滴る腕もそのままに駆け出した。近くには、彼の槍が転がっている。それを噛まれたのと逆の手で掴むと、のたうち回る妖へとそれを躊躇なくふり下ろした。


 どっと、赤黒い血があたりに飛び散った。


 妖はひとつ、ぎゃっと声を上げた。その叫びに、瀬藍はぶわりと肌が粟立った。獣めいた姿。しかし獣ではない、妖しの者。そこから、人めいた断末魔の悲鳴が上がったのだから。


妖は地面に転がって、ヒクヒクと震え出す。呪符の火が、静かに異形の身体を包んでいた。それはやがて、最早命など砂粒ほどしか残っていない妖を、完全に燃え上がらせ――……、


「四季華‼」


 背後から声が上がる。次いで、瀬藍を追い抜いて四季華に駆け寄る影が。白百合の絵柄が縫われた、緋色の着物。朱色の狐面を脱ぎ捨て彼に駆け寄るのは、朱火だ。


「あぁ、朱火」


 四季華はいつの間にやら、草地に座り込んでいた。やわらかく笑んではいるものの、顔色は悪く汗をかいているのが常夜の中でも分かる。……いや、違う。


(……あ……)


 ――夜が、明けてきている。


 異様な夜の気配が薄れ、ぼんやりと日の光があたりに漂い始めていた。


常夜に入ったのは、昼時より少し前の頃だった。長いこと常夜の中にいたような気がしていたが、恐らくまだ八つ時にもなっていないだろう。常夜はこうして、夜明けそのもののように徐々に闇をほどいていくのだ。それは、ここにいる妖がすべて死滅したことを意味していて……、


「酷い怪我じゃない」


「いやぁ何、かすり傷だ」


 声を荒らげる朱火と相変わらずへらりと笑ったままの四季華のやり取りに、はっと我に返る。そうだ、四季華は自分のせいで怪我を。


 四季華に謝ろうと1歩踏み出した瀬藍を牽制するように、朱火がきっと瀬藍を睨みつけた。


「ちょっと、これはどういうことなの」


 きつい声音に、びくりと肩が跳ねた。足も完全に止まる。


「朱火」


 四季華がたしなめるような口調で言うも、朱火は瀬藍を睨んだまま動かない。いつの間にやら、他の仲間達も全員集まっていた。


「四季華は、まわり道で2人ずつ、二手に分かれるように言ったわよね」


「えっ、あっ、はい」


「それを四季華の指示を無視して、勝手に桐江から離れるなんて何をしているの」


「えっ……」


 瀬藍は思わず、朱火の後ろの方にいる桐江を見た。しかし、桐江は我関せずと言わんばかりにそっぽを向いている。


「挙句四季華に怪我をさせて、みんなにも迷惑をかけて。本当ならもっと早くに終わらせるところだったのよ」


「……」


 朱火の指摘は、最もだった。いくら常夜の瘴気に耐性があって面もつけているとはいえ、人間は妖しの世とは相容れない。長く留まり続ければ、精神を穢し体にも毒がまわる。上位の妖との戦闘で時間のかかる場合だって、長引けば一旦常夜の外に出て待機している仲間と交代で妖を消耗させていくのだ。


(……本当にその通りだ)


 瀬藍は何も言えず、顔をうつむけた。首がそのまま固まってしまったように、顔を上げられない。その状態でも、仲間たちが皆自分に冷たい目を向けているのが分かる。


 何度も妖を逃がし、ろくにトドメも刺せず。挙句の果てに、みんなの頭(かしら)である四季華に怪我を負わせてしまった――……、


「まぁまぁ、もういいじゃねぇか」


 かたく強張っていく空気をやわらげたのは、四季華の声だった。


「四季華」


「ひとまず常夜は祓えたんだから、それでいいだろう。俺の怪我も、命にかかわるものではないんだし」


「あなたね、瀬藍はあなたの命令を無視したのよ⁉」


 朱火に露骨に指を差され、瀬藍はまた硬直する。同意するような他の仲間達の空気にも、四季華は臆さない。


「失敗は誰にでもあるんだからさ。それに瀬藍の呪符のお陰でこうして祓えたんだし」


 やっぱり瀬藍の呪符はよく効くなぁ、と四季華はあっけらかんと笑っている。促すような仕草にそちらを見れば、四季華に噛みついた妖が完全に黒焦げになって動かなくなっていた。紫炎がきっちり役目を果たしたのだろう、もう火そのものは消えている。


「四季華!」


「それと、できれば応急処置をしてくれるとありがたいんだけどなぁ」


「……!」


 そこに来て、朱火は四季華が未だ腕から血を流し続けたままであることに気が付いたらしい。きっとまたきつくこちらを睨んでくる。……何で1番近くにいたあなたがやっていないんだと責めている目だ。まったくその通りで、瀬藍も慌てて四季華に駆け寄る。


「ご、ごめんなさい、私が……、」


「もういい‼」


 四季華へと伸ばそうとした手は、朱火に躊躇なく払われた。ばちんと音が弾け、目を白黒させる。


 朱火はもう瀬藍に目を向けることなく、四季華の腕の止血を始めている。四季華が、瀬藍に目だけで詫びているのが分かった。しかしそれがますます瀬藍の気持ちをぐらつかせる。


 他の仲間たちは、今回の常夜祓いの依頼をしてきた集落に知らせに行く段取りを決めたり、落とした武器や妖の死体の回収に向かったりと次の行動に移っている。


 色づく闇が太陽の光に染まりつつある中で、瀬藍だけが根が生えたようにその場に突っ立っていた。






 それから少しして。


「……確かに、常夜が消えていますな」


 紫色の闇があった筈の場所を訪れた老人が、じっくりとあたりを見渡してうなずいた。


(ここがさっきと同じ場所だなんて、信じられない)


 瀬藍は、面妖師であれば当たり前である光景に、いつも改めてそう思ってしまう。


 今皆でいるのは、緑の生い茂るごく普通の森の中だ。まだ秋に染まり切っていない為に紅葉もなく、遠くに山々がうっすらと見えるがそれもここらの者にとっては何の珍しさもない光景である。


 しかし、この森は確かに、あの異形の森であったのだ。常夜は色づいた闇と共に異様な光景に変えてしまう。幻術でもなく、本当にそこにあるものを“変質”させるのだ。しかしその常夜を祓いさえすれば、闇はほろほろと異界そのものの景色と共に剥がれていく。そうしてこの、愛おしい日常の景色が戻ってくる。


「依頼は達成ということでよろしいでしょうか」


「えぇ。面妖師殿、ありがとうございます」


 腕の手当てを施された四季華が穏やかに尋ね、老人が頭を下げる。彼に付き従っていた数人もまた、慌ててそれに倣った。


 この老人は、常夜祓いの依頼をしてきた集落の長であった。集落の若者を何人も引き連れてここまで来たのは、常夜祓いが為されたことをその目で確かめてもらう為だ。


「妖の方は、こちらで回収してしまってよろしいでしょうか」


 丈夫な皮の袋の中には、妖の死体が入っている。いくつもの大きな袋がこんもりと膨らんだ状態で、他の仲間たちの元に置かれていた。四季華の問いかけは親しげなものだったが、問われた集落の者たちは露骨にびくりと震えた。


「え、えぇ」


 どうぞどうぞと、引きつった愛想笑いで言われる。四季華はその様子を見ても、笑みを絶やすことはなかった。


「ありがとうございます。しっかり祓っておきますから」


 しかし依頼者たちの様子は、恐れをなしているのをごまかす態度から変わらない。妖の死体の入った袋から、今度は瀬藍や四季華、仲間たちの腰のあたりをちらちらと見ている。


(……やっぱり、だめなんだ)


 瀬藍は、がっかりするというよりはあきらめたような思いで、そっと息を吐いた。この集落の依頼を受けたのは、これが初めてではない。四季華がこの組を立ち上げて、そろそろ2年。その間にかなり依頼をこなしてきたし、初動が早いのを売りにしていたから犠牲者も出していない。それほどの働きをしてもなお、彼らは自分達を――面妖師を、恐れるのだ。


 視線の先にあるのは、帯に括りつけた狐の面。今は常夜じゃないので顔から外しているが、それでもそこにあるだけで恐ろしいものは恐ろしいらしい。仲間たちも極力顔に出さないようにしているが、そんな外の人間の態度に不満を抱いているのは感じ取れる。


「それでは、報酬の話に移ってもよろしいでしょうか」


「は、はい」


 にこやかなままなのはこの組をまとめる四季華だけだ。どれほど依頼者たちにびくびくされてもやわらかな表情のままである。


(四季華がまとめ役で、本当によかった)


 こういう時、よりそう感じずにはいられない。常夜に入り、妖を祓うことに特化した面妖師は、常人(つねびと)――妖を祓う能力のない人間のことを、瀬藍たち面妖師はそう呼ぶ――から気味悪がられている。こちらは依頼を受け守っている立場だというのにと不満を持つ面妖師は多い。


 そうした軋轢から、依頼者と揉め事が起こることは珍しくない。しかし、四季華が代表として依頼者と接してからそうした問題は今まで起こっていなかった。


「あの」


 朱火が、たまらずといった様子で依頼者へと踏み出した。


「彼、妖に襲われて怪我をしているんです。応急処置はしたんですが、きちんと手当はできていなくて」


「はぁ、それは」


「朱火」


 曖昧な反応をする長に、やんわりと留めるような口調の四季華。しかし朱火は必死の様子で、集落の者たちに訴える。


「ひとまず命に別状はありませんが、妖に負わされた傷です。なるべく早くきちんと手当てしたいんです。どうかそちらで、手当てをさせてはくれませんか?」


 瀬藍たちの暮らす拠点はそう遠くなく、そちらにも祈祷師がいるし、面妖師は皆手当てや治療の心得がある程度はある。しかし、妖に噛まれた傷ともなれば一刻を争う。応急処置をしているとはいえ、なるべく早く医者に診てもらうことが肝要だ。


 集落であれば、腕利きの医者がいると見越しての朱火の主張だろう。しかし。


「……いやぁ……、しかし、それはその」


 長が、気まずげにそう言って、言葉を濁した。他の集落の者たちも、皆一様に目を逸らしている。


 瀬藍は、そろっと朱火の様子を窺った。こんなことは、珍しいことではない。しかし朱火が、目に見えて絶句しているのが分かる。信じられないといった様子で首をふった朱火が何事か続けようとするが。


「朱火」


 またも、四季華がどこか注意するような声音で朱火を留めた。今度は朱火も、四季華を見た。


 四季華は朱火に笑いかけてみせてから、長たちへと顔を向けた。


「うちの者が申し訳ありません。こちらの不手際なので、あなた方は気にしなくていい」


「……そうですか」


 と言った長が、あからさまにほっとした様子になる。集落の者たちも、顔を見合わせている。


 朱火が、さっと彼らから目を逸らしたのが分かった。下唇を噛みしめて、それ以上何事かを言わないように堪えている。


「では、報酬について話しましょう。……集落には入りませんから、入り口付近でやり取りさせてください」


「えぇ、分かりました」


 それは、いつものことだった。集落や村の中へは決して入らない。報酬のやり取りは入り口前で行う。


「四季華、俺が行こう」


 そのまま集落に向かう長達に続こうとする四季華を案じてだろう、氷(ひ)槍(そう)が申し出る。瀬藍は、それに続こうと口を開いた。しかし、結局言葉が口の中で朽ち果てたかのように、何も言えずに閉じてしまう。


 仲間の中で誰よりも背の高い氷槍を見上げ、四季華が微笑んだ。


「大丈夫だ。それに、今回の案件は説明も難しいから」


「それは」


 氷槍が言いよどんだ。


 常人との間に溝のある面妖師は、常夜が発生する度に頼りにはされるものの、その異様さ故に微妙な立場にある。依頼を受け常夜を祓うものの、正当な報酬をもらえずただ働きになってしまうことも珍しくない。交渉に慣れた者でなければ、食っていくことは難しい。


 そして瀬藍たちの中では、そうしたことに長けているのが四季華しかいない。


「……じゃあ、ついて来るだけ来てくれるか?」


 四季華の前から動かずにいる氷槍に、四季華が苦笑しながら問う。


「こうしたことは、場数が物を言うからな。氷槍は自分の意志が強いし、他者に容易く流されない。元々交渉には向いていると思っていたんだ」


「四季華」


「でも、こちらの意見を通そうとするだけでは交渉にはならない。見て勉強するといい」


「あぁ」


 とはいえ、今回依頼を受けて突入した常夜にどれだけの妖がいたのかの証拠もなければ交渉も進まない。妖が多かったので、それらを持って来ていた荷車に積み、結局皆でそれらを運んで集落の入り口へと向かうことになった。瀬藍は、皆の武器を何とか抱えて1番後ろに続こうとした。そこに、緋色の影が差しかかる。


「……最っ低」


 冷たく低い声で吐き捨てられ、体が強張った。


「応急処置してあげることも、集落の奴らに医師に診てもらえないかお願いすることも、交渉に自分が行くって言うこともできないの。――あんたのせいで四季華があんな怪我したってのに」


 他の仲間たちは、四季華を先頭に先を進んでいる。朱火の声は瀬藍にしか聞こえない。


「ご、ごめ……」


「ほらそれ」


 朱火が心底不快そうに指摘する。


「何でも謝れば許してもらえると思って。四季華が優しくしてくれるからって調子に乗らないで」


 ……そんなつもりはない。謝ればいいなんて思っていないし、四季華が誰にでも優しいだけなのも知っている。彼の優しさに自分の不出来が許されたなんて思ったことは、1度もない。


 しかし、そうと取られても仕方ないくらいには、自分の行動があまりにも甘えたものだという自覚もあるのが事実だった。そんなつもりが微塵もなくとも、そう思われてもおかしくないし、もしかしたら、自分の中に本当はそんな甘えがあるのかもしれない。


(せめて、交渉に一緒に行くぐらい言えばよかったのに……)


 何で言おうとまでは思えたのに結局言えなかったのか、自分でも分からない。できなかった自分が嫌になる。


 唇を噛みしめてうつむくばかりの瀬藍に、朱火がうんざりしたように息を吐いた。


「そんなんだからいつまで経ってもだめなのよ」


 ――その言葉は明確に瀬藍の心臓に突き刺さった。


 しかし当の朱火にとっては行きがけの駄賃程度の発言だったようで、苛立ちそのままの早足でさっさと先を歩いて行ってしまう。他の仲間達の姿は、もうかなり離れていた。


 瀬藍は何かを堪えるように息を飲み込んでから、うつむけた顔のまま彼らの後を追いかけたのだった。

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