第16話 後宮の主人


 香油を馴染ませた髪はしっとりと甘やかな香りを放ち、髪を彩る宝玉は静謐せいひつな光を放つ。その重さに耐えかね、雪玲が首を傾げるとしゃらりと軽やかな音色がなった。肌に触れる上衣は菫が咲く藤色、胸元まで引き上げられた裙は濃い紫色。纏う肩巾ひれは春霞。年頃の村娘が見れば誰もが羨む豪奢なよそおいだが、当の本人である雪玲はくじけそうになるのを懸命にこらえていた。心がではない。文字通り、足が。


(重い……)


 頬に手を添えてため息をつこうとする。

 が、頬に指先が触れる直前、背後からそれを諌める声が飛んできた。急いで手を離し、団扇に添えて姿勢を正した。


「お化粧がとれてしまいますよ」

「申し訳ございません。とても重くて……」


 声をかけてきたのは侍女頭として雪玲に使えることとなった珠音だ。


「もっと背筋を伸ばしてください。もうすぐ、他のお妃様がお越しになられます」


 ふわりと花のように微笑みながらも辛辣な口調で雪玲の立ち振る舞いを諌めてきた。

 場所は皇后の住む香楽殿こうらくでん正堂せいどう。後宮の一角を彩るこの殿舎は香木で建てられているため一年中甘やかな香りが漂っていた。特に正堂はその香が強く、鼻が利く雪玲はつい顔を顰めそうになる。

 その正堂にて、雪玲は三人の侍女と共に妃嬪が集うのを待っていた。入宮したばかりの妃は誰よりも先に入内するのが後宮の掟らしく、かれこれ半刻近く立ちっぱなしだ。


「……ええ、気をつけます」


 いつになったら妃嬪は集うのだろうか、と不満に思いながら雪玲は背筋を伸ばした。


「夜更かししているからですよ」

「ここまで衣装が重いとは思わず……。いつもの格好なら耐えられたのですが」


 絹といえ幾重にも着込めばそれなりの重さになる。

 それに加え、まげを飾る金簪かんざしに真珠が連なり揺れる歩瑶ほよう。耳朶で輝く水晶の耳飾り、細い首を囲う碧玉へきぎょく頸飾けいしょく、両手の指先には爪を隠すように銀製の指甲套しこうとうも付けられている。

 これは全て、入宮祝いと称して翔鵬が雪玲に贈ってくれたものだ。豪奢な見た目と同様、重量もあるため寝不足の身体にはとても辛い。


「装飾品はその妃の立場を示すものです。鳴美人様の位が上がれば、その分、装飾品の数も増えます」


 では妃位は絶対に上がらないようにしなければ。雪玲は心に誓う。


(まあ、あの人のが達成すれば私はお払い箱でしょうけれど)


 美人の位を与えられたのも宮女よりも後宮で動きやすくなるためだ。咎人を見つければ雪玲はお払い箱。褒美と共に紀里の地へ戻されるはず。


(殺されなければ、ですが)


 雪玲が皮肉げに唇を歪めると、入り口の方から「あら」と驚愕が滲む声が聞こえた。

 振り向けば水色の襦裙を纏った麗人が小首を傾げていた。急いで雪玲は腰をかがめて揖礼する。


「……場所を間違えたかしら?」

「いえ、ここで間違えありませんわ」


 麗人の背後に控えた侍女が答えた。


「そうよね。朝礼はここですもの。知らない方がいたから驚いたのよ」

「先日、乾皇后様がおっしゃっていらした妃かと」

「そのようね。ああ、楽にしていいわよ」


 雪玲は体勢を元に戻すとにこりと笑った。


「お初にお目にかかります。鳴春燕と申します。本日より、妃として入内いたしました」


 麗人は答えない。興味なさげに雪玲を見つめるとそっぽを向いた。そのまま少し離れた場所に移動すると連れてきた侍女達と楽しそうに談笑し始める。


「高貴妃様の妹君であらせられる、高淑儀しゅくぎ様でございます」


 背後に控えた珠音が静かに教えてくれた。強張った声音から珠音が麗人ーー高淑儀が苦手なのだと察する。

 しばらくすると外から甲高い声が聞こえ、薄桃色の衣装を纏った少女が二人姿を表す。


「背が高い方がよう美人様、その傍らにいらっしゃるのがほう美人様でございます」


 二人は雪玲の存在を知ると困ったように眉を寄せた。

 身分は雪玲と同じ美人なので揖礼はせず、先程と同様、名を名乗る。


「田舎の出身ではございますが、皆様と仲良くなりたいと思っております。よろしくお願いします」


 二人は答えない。お互いの顔を見るとはくはくと口を動かし、困ったように視線を彷徨わせる。


「ねえ、お二方もこちらにいらっしゃい」

「……高淑儀様。おはようございます」

「おはよう、楊美人様。宝美人様も」

「おはようございます。あの——」

「うちの子がね」


 高淑儀はわざとらしく宝美人の言葉を遮った。


「美味しいお菓子を手に入れたのよ。この後、茶会を開くからお二人もどう?」

「え、っと、ご一緒させてもらいます。ねえ、宝美人様」

「そう、ですね。高淑儀様がよろしければ、ぜひ」

「いいに決まっているわ。さあ、こちらに」


 手招きされた二人は高淑儀の元へ歩いていく。雪玲の隣を通り過ぎる際、申し訳なさそうにしながら。

 続いて現れた四人の妃嬪も雪玲を前にすると困惑するか、無反応を示した。想像していなかった訳ではないがあからさまな態度に雪玲は奥歯を噛み締める。


(嫉妬、と考えるのが妥当ですね。高淑儀様が私を嫌っているから他のお妃様もそれに合わせなければならないのでしょう)


 できるだけ波風立てずに行動するつもりだったのに、初日からえらく嫌われたものだ。これでは翔鵬との約束を守ることは難しい。

 これから訪れるであろう暗然たる後宮生活に思いを馳せていると、


 ——リン。


 小さな鈴の音が空気を震わせた。

 その音におしゃべりに夢中だった妃嬪達が静まり返り、宦官が皇后の到来を告知した。


「鳴美人様、我々は端に控えます。あっても笑顔で対応してくださいませ」


 一定の間隔で鳴る鈴の音と共に衣擦れの音が大きくなり、奥から皇后である乾依依が姿を現した。


「皇后様にご挨拶いたします」


 六人の妃は打ち合わせたようにそろって声を合わせると膝を折る。慌てて雪玲も真似をした。


「おはよう。今日も元気そうな姿を見て、わたくしは安心しています」


 ながいすに腰掛けた乾皇后はたおやかに微笑んだ。


「高貴妃はまたお休みなのね……」

「申し訳ございません。姉はまだ体調が優れないみたいで」


 高淑儀が答えた。


「仕方がないわ。御子を二人も失えば、立ち直ることは難しいでしょう」


 乾皇后は両目を伏せる。


「さあ、あなた達も座りなさい」


 その言葉に各々が席につく。妃位によって、席が決まっているらしく皆、慣れた足取りだ。

 一人、中央に残された雪玲は静かに乾皇后を見つめた。周りを見渡して無様な姿を見せるよりも、こうした方が品位は保たれる。


「あなたが新しい妃ね」

「お初にお目にかかります。鳴春燕と申します」

「ふふっ、話は我が君から聞いていますよ。遠征の際に面白い姫を見つけた、と」


 乾皇后は笑顔のまま「けれど」と続けた。


「このように美しい娘だとは一言も言ってはくださらなかったわ。その衣装、全て瑞王様が選んだそうね」


 その言葉に六人の妃の視線が雪玲に突き刺さる。


「私にはもったいない品物ばかりで……」


 雪玲は胸に手を当てると恥ずかしそうにはにかんだ。


「お恥ずかしながら生家ではこのような格好ができないのでとても心が高鳴っております」

「ふふ、よかったわね。瑞王様の御慧眼は確かですもの。よく似合っているわ」

「ありがとう存じます。皇后様にそう言ってもらえると自信がつきます」

「……鳴美人、あなたは確かに美しいわ。肌も白く、特にその意思の強そうな瞳は他者を惹きつける。けれど、ここは後宮よ。ここでは一輪の野花に過ぎないと思いなさい」

「皇后様のお言葉、しかとこの胸に刻みます」

「ええ、そうなさい。自信を持つのは素晴らしいことですけれど、それを捨てることも大切よ」


 乾皇后は歳若い宦官を呼び寄せると木札を受け取った。そこに書かれている文章に目を通すとどこか怒りが見え隠れする笑顔を雪玲に向ける。


「瑞王様が、今宵の相手にあなたを望んでいるわ」


 それはつまり夜伽よとぎの、ということだ。


「誠意いっぱい努めさせていただきます」


 女達の視線が刃のように突き刺さる。嫉妬、驚き、好奇心——その視線が持つ意味に気付かないふりをした。




☆★☆




妃嬪の階級

皇后

貴妃

三夫人(恵妃、麗妃、華妃)

六儀(淑儀、徳儀、賢儀、順儀、婉儀、芳儀)

美人四人

才人七人

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