マザー信玄

圷 温(あくつ おん)

誕生の章 1 虎口の策 虎の皮は敷かれて妻が寝そべるためにある。

今から500年前、山に囲まれた小国甲斐に、戦国一の名君と呼ばれた武将が生まれた。


武田信玄。


その武力は一代で甲斐の国から隣国の信濃、駿河を平らげ、江戸時代を築いた家康をもって一番恐ろしい敵として震えあがり、一番頼もしい敵として、武田の滅びた後の甲州軍団の武将を軒並み高禄で迎えた。

信玄が他の武将と大きく違ったのは、彼が決めた法律を彼自身が守った武将であったということだ。

信玄は甲斐の国を統治するための法律を作り、そしてそれを自分自身も守った。

重要な決断は自分だけでなく家臣の意見を聞き、優秀な者を家柄に依らず登用した。


何か恐ろしいくらいテンプレないい王様である。


父武田信虎も、戦国の世に甲斐一国をまとめあげた優秀な武将であったが、彼は当時の武将らしい武将であり、力で皆を従わせ、結果息子信玄に国を追われることとなる。

生涯信玄は、親を追放した親不孝者として糾弾されるが、ワンマンな王政を廃し、民主的で公平な民のための暮らしを目指す信玄の治世は、後の世の人間から見ても非難されるような事には思われない。


それはわれわれの基準から見ての信玄像であり、当時の戦国の世の基準では、信玄は圧倒的にイカレた武将なのだ。


では、なぜ戦国の世に、このような武将が生まれたのであろうか?


この物語は、裏切りと謀略と暴力が正当化される戦国の世に、民のための国土を夢見た武将を育てた一人の母親の物語だ。


ぶっちゃけて言うと、


偏差値30のヤンキー親父の息子



有力な国会議員にのし上げた


子育て母さんの育児日記・・・みたいなお話しだ。


もちろんこの物語はフィクションであり、実際の人物や起きた歴史的事実とは異なっているのはいうまでもない。


#1 甲斐国 要害城 1521.11.3 side信虎

 

大永元年(1521年)十一月三日 


要害城の麓積翠寺脇に設けられた陣屋には煌々とかがり火が焚かれ、大きなかまどにふつふつと湯が沸いている。


遠く広がる盆地には転々と煮炊きの明かりが見えるが、黒く筋が見える河の両岸にまとまった明かりが二つ、ここからもはっきりと見える。


岸の手前の灯はまとまって明るく、対岸の灯は小さくバラバラに見える。


「此度は肝を冷やしたぞ。」

俺はじっと対岸の揺れる灯りの群れを睨む。

「まさか2千で万に勝てるとはな・・・。」

背後がにわかにざわめきはじめ、ひときわ大きな泣き声がひびく。

「御屋形様、ついておりますぞぉ。」

喜びの混じった家臣の信秦の声に


「おうツキまくっておるわ。大勝したしな。」

俺はほくそ笑む。


男か、

息子なら付ける名は決めていた。


椿、お前のおかげで勝てた、よくやった。

小さくつぶやく俺を信泰は幕の間に引き入れると、大弓を抱えた武者が陣の中央にゆっくりと進み、四方に向かって弓の弦を引く。

弦の震えが奏でる独特の音色を、周りの武将を息をひそめて聞く中、集まった武者たちは、南方に向き直り、遠くに見えるかがり火の下震えながら夜を過ごしているであろう今川の侵攻軍に届かんばかりのいきおいで鏑矢(かぶらや)を引きはなった。

「ぴゅーるるるるるる」

独特の蟇目(ひきめ)の矢の音は誕生した幼子の健康を祈り、この度の勝ち戦を祝う音がした。

騒がしい男どもは思い思いに盃を傾け、次々と

「御屋形様おめでとうございます。」

と声をかけてくる。

俺はすこしほほをかきながら、その間をゆっくり通り抜け、陣屋の奥の夜具に横たわる妻に笑顔を向ける。

そしてそのまま、その横で布に包まり、しわくちゃの顔を真っ赤にさせた息子に顔を向けながら、


「よくやった椿 名は勝千代とする。どうだ?」

少しぐったりとした椿はそれでもゆっくりと俺に顔を向け、


「良き名と思うわ。虎ちゃんがんばってね。」

やれやれ、俺の愛妻はこんな時でも相変わらずだ、

まだまだ今川の大軍は対岸に陣を残し甲斐の国から引く気はないようだ。


しかし次の戦もきっと勝てるに違いないと思った。


なにしろ俺が一度も勝てたことのない「あいつ」が必ず勝てるといった戦なのだから。


-この日、武田信虎の居城、躑躅が崎館(つつじがさきやかた)の北に約半里ほどの山中にある控えの山城要害城の麓で、信虎と大井夫人椿の方の間に男の子が誕生した。


幼名勝千代、のちの武田信玄である。-

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