第22話
「美香っ、どうしたっ?傘はっ?」
そんなことはどうだって良いってことは、僕にだって分かっている。
傘を失くしたとかそんなことじゃないのだ。
恐らく彼女は、敢て傘も差さずに帰って来たのだ。
「ちょっと待ってろ。すぐバスタオル持って来るからっ」
僕は立ち尽くしたまま何も答えない美香に叫ぶようにそう言って、慌てて部屋に引き帰し、衣装ケースからバスタオルを二枚引っ張り出すと、直ぐさま美香の元に戻った。
美香からキャリーバッグを取り上げ、一枚を美香に手渡し、もう一枚を広げて美香の頭に被せて、僕は美香のずぶ濡れになった髪を拭く。
美香は小さく「ごめんなさい」と言う。
「良いんだ、今は。早く身体拭いて、シャワーを浴びて着替えよう。さ、靴脱いで」
美香をバスルームに促す為に美香の手を引こうとした僕に、いきなり美香はしがみつくように抱き着いてきたかと思うと、声を立てて泣き出してしまった。
美香の濡れた服から、僕のTシャツとジーンズにジワリと水が伝ってくるのが分かる。
「ごめんなさい・・・、ごめんなさい・・・。本当は・・・本当は・・・」
しゃくり上げながら「ごめんなさい」と繰り返す美香を、僕は一度ギュッと強く抱きしめ、そして美香の濡れ髪を撫でる。
「良いんだよ、今は、何も言わなくて・・・。さ、熱いシャワー、浴びておいで」
靴を脱いだ美香の手を引き脱衣所の扉を開けて、美香をそこに促し、僕はバスルームのシャワーの蛇口を捻った。
「さ、カゼひく前に、早く入って。バスタオルと着替え、持って来ておいてあげるから。さ、早く」
僕はもう一度美香をギュッと抱きしめ、その頬にキスをして、それから『早く入って』と、目で合図する。
「・・・うん・・・」
美香がシャワーを浴びている間、僕は熱いコーヒーの準備をしながら、美香がバスルームから上がって来るのを待った。
分かっている。
この先、美香から聞かされるであろう話の内容が、僕にとって良い話ではないことくらい。
しかし、だからといって、もうこれ以上有耶無耶に出来ないということも、分かっている。
ポコポコと音を立てていたケトルのスイッチがカチッと切れ、僕はコーヒーカップをテーブルに二つ並べてドリップパックをセットし、ゆっくりと沸いたばかりのお湯を注ぎ込む。
美香がシャワーから上がったことを知らせるドライヤーの音がキッチンの方から聴こえて来ると、僕は自らの両の頬を両手でパンパンッと強く叩いて、自分自身に言い聞かせる。
もう、何があっても、動じない。
恐らく、多分、十中八九は僕にとって不幸な話を聞かされるに違いない。
それでも構わないさ。
驚きはしないさ。
怖くもないさ。
何があっても、前にしか進めない。
そして、前に進まなければ、その先の何かを見ることは出来ないのだ。
そうさ、前に進むしか・・・
キッチンと部屋とを仕切る引き戸がゆっくりと開き、そこに立つ美香は少し俯き加減に部屋に入るのを躊躇っている様子を伺わせる。
「そんなとこに立ってないでさ、こっち、おいでよ。熱いコーヒー入れたからさ。こっちに来て座りな」
僕が手招きすると、美香は小さく頷いて、僕の腰掛けるベッドの端の隣に黙って座った。
「コーヒーはミルクと砂糖、どうする?」
美香は首を横に振って、小さな声で「要らない」と言う。
それから僕が入れたコーヒーのマグカップを両手で持ち上げ、湯気の立つその中身をしばらく見つめるようにしてから、また小さく「怒らないの?」と上目遣いに訊く。
「怒る理由が無いよ」
僕がそう答えると、美香は再び視線をマグカップに戻し、「そっか・・・」「そうよね・・・」、そう言って黙り込んでしまった。
「良いよ。今は・・・。話せるようになったら、話したくなったら、そうしたら話せば良い。でも、多分、話さなくちゃならないって、美香はそう思ってるんだろうけど・・・
分かるよ、そういうの・・・
大丈夫・・・、大丈夫だよ・・・
今は、何も話さなくて良い・・・」
無理に訊き出さないのは、怖いからじゃない。
だけど本当は僕だって怖い。
美香が僕には言えない『真実』を僕が知ったとき、僕は美香を、大事なものを、失うことになるのだろう。
分かっている。
けれど、辛いのは僕じゃない。
このままだと、美香が壊れてしまう。
僕じゃない。僕は大丈夫だ。
壊れたりなんかしない。
僕は大丈夫だ。
大丈夫・・・。
美香に言わせちゃいけない。
美香に話をさせずに、僕はそのことを知らなければならない。
どうすれば・・・
そうだな・・・
それも分かっていることじゃないか・・・
確か・・・、電話番号は・・・、残っている・・・。
美香はほんのひと口だけ啜ったコーヒーをテーブルに戻し、下唇を噛み締めるようにして、その潤んだ瞳で僕を見詰める。
僕は再び「良いんだよ、今は・・・」、そう美香に、そして自分に言い聞かせるように言うと、美香はその瞳で「でも・・・」と訴えかけているようだった。
僕は言葉にはせず、ただ首を横に振り、美香に話さなくて良い、もう一度、そう伝えた。
僕のYシャツを着た美香が、そのボタンをゆっくりと一つずつ、上から外していき、すべて外し終えると、起ち上がり、ベッドに腰掛ける僕の正面に向き直って、それからそのシャツをハラリと床に滑り落とした。
強く抱き寄せると壊れそうな細い肩、大きくはないが美しい胸の膨らみ、恥じらいからなのか少しピンクがかった白い肌、そして今にも零れ落ちそうなくらいに涙を一杯に湛えて潤んだ瞳。
僕は目を逸らさない。
『抱いてください・・・』
美香はベッドの中で僕に何度も「愛してる」と囁く。
『あの頃ね、カズくんのバイクでだったら、どこまでも行けそうな気がしたんだよ・・・』
『カズくんにとって、ミィカが重たくなりすぎちゃダメだって・・・、そう思ってはいても・・・』
『知ってた筈なのに・・・。ホントはカズくんが優しいって・・・』
『なんで、ちゃんと訊けなかったんだろ?・・・』
『カズくんがちょっとよそ見しただけで、あの頃、ミィカ、たまらなかった・・・』
『もっと早く、気付けば良かった・・・。でも、子ども過ぎて、気付けなかった・・・』
『ずっとミィカだけ見てて欲しかった・・・。それくらい、子どもだった・・・』
『カズくんが変わったんだと思っていたけど、変わったのは、ミィカだったみたいだよ・・・』
『ごめんなさい・・・。でも・・・、愛してるの・・・』
いつしか二人、目を閉じ、抱き合ったまま、僕は意識を失った。
僕は寝たフリをしていた。
美香がそっとベッドを抜け出すのを、僕の腕の中からその身体がゆっくりと離れていくのを、そして僕の唇に、美香の柔らかいそれが触れたのも、全部知っていた。
それから、美香が合鍵をテーブルに置く音、部屋を出て行き、ドアがカチッと閉まる音も。
本当は美香もそのことに気付いていたかも知れない。
美香に再会してから何度目だろう。
別に泣き叫んだりする訳ではない。ただ、頬を涙が伝う感覚があるだけだ。
美香が出て行った部屋で、僕はもう、涙を止めることを諦めた心持だった。
ベッドに横になったまま、どれくらいの時間が経っただろう。
午前九時を知らせる目覚ましが鳴り、僕はゆっくりとそのボタンをOFFにする。
起き上がり、テーブルの合鍵を目にして思う。
現実だよな。
昨夜まで部屋の入り口脇に置かれていた美香のキャリーバッグは、もうそこには無い。
僕はテーブルに置かれた携帯電話を手にして、その電話帳を開き、スクロールして「マ行」まで辿り着く。
そして僕は、そこに書かれた『峰』の文字をタップした。
四コール目、案外早くに『峰』は電話に出た。
「はい、もしもし」
「あ、『峰』さん、ですか?」
「はい、そうです」
「あ、朝っぱらから済みません。富永と言います」
「ええ、分かります・・・」
「分かります?ああ、良かった」
「何かありましたか?」
「あ、いえ、いや・・・、そうなんです。ご存知かと思いますけど、美香さん、ここ最近ずっと僕のところに居たんですけど・・・。今朝、部屋を出て行ってしまって・・・」
「・・・そう・・・でしたか・・・」
「はい・・・」
暫く沈黙が続いた。
「実は・・・さっき、美香から電話貰ったんですけど、その時はそんなに変わった様子は無くて・・・、でも、もうそっちには居ないんですね?」
「ええ、今朝、出て行きました・・・」
「・・・そう、ですか・・・。まさか、喧嘩とか?」
「いえ、そんなんじゃないです。『峰』さんに電話の時、何か言ってましたか?」
「・・・いいえ、特には・・・。ただ、今日の仕事、休みたいって。特に理由は言ってなかったんですけど、私はてっきり富永さんと一緒にどこか出掛けるとかなのかなって、勝手に思っていて・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「あの、富永さん、これから、会えませんか?お話したいことがあります」
「あ、え?はい、大丈夫です。僕も訊きたいこと、いえ、聞かなければならないことがあるので・・・。どこに行けば良いですか?」
「そうですねぇ・・・。私がそちらに行きます。前のお部屋ですよね?そこなら知ってますから、一時間後に車で行きますので、アパートの前で待っていてください。私の車でお話ししましょう」
「分かりました。それじゃあ、一時間後に、待ってます」
「ええ、一時間後に」
電話が切れた後、妙な胸騒ぎがした。
僕は慌てて再度、携帯電話を手にする。
オカケニナッタバンゴウハ、デンパノトドカナイトコロニアルカ、デンゲンガハイッテイマセン・・・
落ち着け。
いや、落ち着いてる場合か?
だからって、何ができる?
あの時、止めておけば・・・
寝たフリなんて、するべきじゃなかった?
そんなことを、今言ったって仕方ない・・・
戻ることは、出来ないのだから。
それがほんの短い時間でも、巻き戻すことは出来ない・・・
僕は待ちきれず、三十分も早く階下に降り、『峰』の到着を待った。
待つこと十分、『峰』も約束より二十分も早く来てくれて、僕は急いで停まった車の助手席のドアを開けた。
そして直ぐに口を開いた。
「済みません、何だか色々、ご迷惑掛けてしまって。でも、早く来てくれて助かりました。それでなんですけど、美香に連絡が付かないんです。どうしたら?・・・」
「いえ、迷惑ではないです。それと、そのことは心配しなくて良いです。今、家を出る前、美香の母親から連絡がありました。美香、自宅に戻ったって」
僕は全身の力が抜けて、ホッとすると同時に、思わず「良かった」と呟く。
すると『峰』は、少し呆れた様子の声で、僕に言うのだった。
「状況は決して『良くはない』ですよ。さ、乗ってください。大学の駐車場って、勝手に車停めて構いませんよね?そこが一番近そうなので、そこで話しましょう」
「あ、はい」
僕は言われるまま助手席に滑り込み、シートベルトを装着すると、『峰』は車をスタートさせた。
『峰』は運転席で正面を向いたまま話し始める。
「『はじめまして』ではないけれど、似たようなものですね。私、仲村峰子っていいます。実際に会ったのも、電話で話したのももう四年以上前ですし。会ったっていっても、あの時は美香の付き添いだったから、実際に面と向かって喋ったことは無いし。」
峰子だったとは知らなかった。てっきり『峰』は名字かと思っていた。
しかしそんなことは、今はどうでも良い。
「そう、ですね。すみません・・・、それなのに、いきなり電話なんかしてしまって・・・」
「いえ、それは良いんです。ある意味、その電話を待っていましたから」
「え?」
「ううん。そのことも含めて、ちゃんとお話ししますから。しなくちゃいけないと思っていましたから」
「・・・そう、なんですか・・・」
「ええ、富永さん、美香も、それから多分、私も含めて、ちゃんと向き合わないといけないことだと思うので・・・」
車は十分もしないうちに大学の通用門を抜け、構内の駐車場へと乗り入れた。
駐車場の一番端のスペースに車を停めた峰子は、ゆっくりとサイドブレーキを引き、「ふぅ」とひとつ、溜息を吐く。
それからシートベルトを外し、僕の方に顔と身体を半分ほど向けて、「さぁ、何から話せばいいかしら」と、僕になのか、それとも自分自身になのか判断しかねるような口ぶりで呟くように言った。
僕の気は急いているのだが、それでも峰子の次の言葉を待つしかなかった。
「じゃあ、最初に、どうして美香がこっちに戻ったか、そのことから話しますね。ショックを受けるかと思いますけど、事実です。受け入れてください」
「分かりました」
僕だけでなく、恐らく峰子も、そして車内全体が、緊張した空気に包まれる。
「美香、婚約しています。結婚式は、来月の予定でした」
「・・・そうですか・・・」
僕の驚きは、自分で思っていたよりも半分ほどで済んだ、そう思った。
「あまり、驚かないんですね?」
峰子が訝しがる。
「いや、驚きました・・・。でも、最悪ではなかったです・・・。俺はてっきり・・・」
僕が正直に今思ったままを口にすると、峰子が僕をジッと見詰め返えし、笑っているのか残念がっているのか、それとも呆れているのか、何とも不思議な眉の形をさせながら「そういうことなのね・・・美香が、そうなるってこと・・・」と、僕には意味の分からないことを、独り言でも呟くような声を出した。
「富永さん、ひとつ訊いても良いですか?」
「はい」
「富永さんは、あの日からずっと、美香のこと、想っていましたか?いいえ、その前からもずっと、美香のこと、好きでいたんですか?」
僕は答えに困った。
本当に分からないのだ。
今は言える。美香のことが「好きだ」、「愛している」と。
美香の為なら、美香が望むなら、今の僕は何だってするし、出来る気がする。
美香が居てくれるなら、何も怖くはない。
そう、美香を失うことが、何よりも、怖いのだ。
しかし、それは今の気持ちであって、あの頃に今と同じ感情をハッキリと持ち合わせていたかと問われると、それは自分自身、分からないのだ。
本当はそうだったかもしれない。「そうだった」、そう言いたい。
いや、今の感情が過去を覆い隠そうとしているだけなんじゃないか・・・。
過去を勝手に綺麗な思い出にしちゃいけない・・・。
嘘は吐いちゃいけない。
僕が答えられないでいると、峰子が先に「分かります」と言った。
何が分かったのだろう?
「美香が、富永さんのこと、あの子だけが分かっていたってこと、今だから、分かります・・・」
勝手に分かって貰っても・・・困る・・・。
それでも僕は何一つ言葉が出てこない。
「多分、富永さんは、美香が病気か何か、そう、命に関わる何かがあるんじゃないかって、そう思ったってことですよね?」
読まれた・・・。
そうなのだ。
それが僕の中で最悪のパターンだった。
確かに昨夜、美香の『真実』に思いを巡らせた時は、僕以外の恋人の存在、あるいは周りからの猛反対、そんなことを考えていた。
そのことで美香が僕の前から姿を消すのではないかと。
しかし、今朝、美香が部屋を出て行った後、携帯電話に連絡が付かないことで、僕の中の最悪は、美香が治すことの出来ない病気か、若しくは思い余って・・・。
そんなことを考えてしまっていた。
「すみません・・・。私も、富永さんと美香に謝らないと・・・」
「え?何で、何をですか?」
「いえ、富永さんのこと、多分、長い間誤解していたし、美香のことも、本当は何も分かってあげてなかったってことを・・・」
僕は話に付いていけていない。置き去りにされている。
「あの子、もう富永さんのことはすっかり忘れているって、そう思って、確か半年くらい前に話しちゃったんです。あの時のことを・・・」
「あの時って・・・」
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